WWEから一線を引くのと同時期ぐらい、初の福岡ドーム大会の目玉として、新日本が実に8年ぶりにホーガンを招聘した。相手はここ一番でしか登場しないグレート・ムタである。結果は当然ホーガンが勝利、ムタは日本でのシングル初ピンフォール負けと言うものだったが、いくらスーパースターであってもそこは日本、しかも8年ぶりとなっては当然ファンはムタへの思い入れの方が強いため、ホーガンにブーイングが飛んだ際渋い顔をしていたのが今でも印象として残っている。
その後、秋のG1スペシャルと、翌年の東京ドームにも来日したが、この際ホーガンの試合を初めて生観戦する事が出来た。特に、横アリではムタと組んで、当時ホークと健介が結成していたヘルレイザーズ組と対戦と言う超豪華カードである。試合後、エプロンに立っていた猪木に、ホーガンがアックス・ボンバーのふりをしたので、誰もが一瞬あのIWGPの事がよぎったのか、会場に!!のような雰囲気が立ったものである。しかし、当時は猪木スキャンダルの真っ最中だったので、このシーンがテレビで放映される事はなかった。
この頃は完全にWWEから離れていたはずで、俳優業などにモデルチェンジをしていた頃かと思うが、のち田中ケロ氏が明かしていた話によると、ホーガンのギャラは1試合1500万円ほど、さらにマネージャーのジミー・ハートと、Wikipedia曰く幼馴染(当時は血縁関係というギミックも)であるブルータス・ビーフケーキも抱き合わせで呼ばなければならなかったらしく、結果的にドームでの藤波戦を最後に再び新日本から消えた。
正直、当時は三銃士がバリバリ全盛だったし、もちろん長州と藤波も一線、猪木ですらたまのスポット参戦だったほどだから、わざわざ高いギャラを払ってまでホーガンを呼ぶ意味はなかったのだろう。アメプロがまだプロレスファンにすらマイナーだったのだから、尚更だ。
その後、ライバル団体であったWCWとまさかの電撃契約。しかし、団体としてはまだまだWWEの方が勢いが上であり、常に新しいスターを生み出し続けるWWEと、WWEのロートル中心のWCWとでは全く差が埋まる事はなかった。
そんな中、プロレス史を揺るがすほどの大事件が起こる。もちろん、1996年7月、グレート・アメリカン・バッシュにおける突然のヒールターンである。その当時はまだ毎週週刊プロレスを読んでいたので、リアルタイムでこの記事を目にした際は本当に驚いたものである。長年、アメリカンプロレスの絶対的ベビーフェースがその地位を捨てて、突如大ヒールに鞍替えしたのだから。
このNWOは翌年、日本にも蝶野によって輸入されるが、当然日本はWCWのストーリーラインとは無関係なので、トップ2であるスコット・ホールとケビン・ナッシュは来日した記憶があるものの、結局親玉のハリウッド・ハルク・ホーガンは一度も来日を果たす事はなかった。まあ当たり前である。
その後、週プロをよむのを止めたので、アメプロの情報を得る事はなくなった。なので、WWEがWCWを買収したのも見ていない。ただ、スカパーなどで視聴者が増えたのと、2002年頃にテレ東がWWEのダイジェストを放送していた事もあったので、その頃からなんとなくWWEも観るようにはなっていった。レッスルマニアはDVDなどで観ていたし、ミスター・アメリカで登場した際も、フジテレビでスマックダウンが放映していた事もあって、観ていたかと思う。
ただ、そこまで熱心に追っていた訳でもないので、その後のホーガンに関しては記憶は曖昧である。たまに出演していた際も、当然当時とはファンも新陳代謝が起きているので、本当に受け入れられているかは分からなかった。ただ、アメリカ人は歴史を非常に大切にするので、ホーガンがどれだけプロレスに貢献していたかは分かっていたかとは思うが。
それを改めて実感したのが、2005年の殿堂入りセレモニーだ。これはYouTubeにもあるので、ご覧いただければ一目瞭然だろう。いかにホーガンが別格の存在であり、そしてプロレスを世界に広めた第一人者だったのかが、嫌と言うほど理解出来たものだ。
つまり、ホーガンが居なければWWEの隆盛も、当然レッスルマニアの存在もなかった訳だ。ホーガンが居なければ、当然レスラーを志すものも現れない。つまり、今でもこうしてプロレス、WWEが存続し、世界中の人間から愛されているのも、ホーガンありき、ホーガンが居てこそ、なのだ。なかなか今の人に分かってもらえるのも難しいとは思うのだが、ホーガンひとりの存在がプロレス史そのものを変えたというのは紛れもない歴史的事実なのである。