ハルク・ホーガン・その1 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

ハルク・ホーガンが亡くなった。去年のトランプ氏での演説の際は非常に元気そうだったし、今年1月のRAWにも出演していたから、ホーガンはまだまだ元気だなと思っていた矢先の死だったので、本当に驚き、まさかと言う感じだった。

 

ホーガンに関してはあまりにも多くの人が語っているので、その偉大さについては語るまでもないが、アメリカで大成功する前にすでに日本でトップスターであり、さらにタイガーマスク全盛期とも被っているので、一般人にもかなり知名度は高かったのではないか、と思う。

 

ないか、と言うのは、自分が見始めた頃はすでにアイアン・シークを破り、全米でトップスターと化していたので、日本を主戦場にする事はなくなっていた。かろうじてまだWWEと提携したとは言え、シリーズフル参戦などはとても無理だし、数戦の特別参戦と言う感じだったかと思う。そうなると、当然長期的な展望も組めないので、個人的にはそう思い入れも強くはなかった。

 

そして、新日本との提携が切れると、しばらく来日は途絶えたし、自身もプロレスから離れていた時期だったので、当然アメリカでの活躍も見ていない。その後、新日本を見始めたとは言え、当然ネットなどもないし、週刊誌でも数ページの扱いだったので、つまりどのようにしてHulkamaniaが生まれたのか全く目にしてはいないのだ。

 

その後、プロレス熱が高まり、毎年恒例だった週刊ゴング増刊のプロレスオールスタースーパーカタログ92を買うと、なんとホーガンだけ1ページという別格の扱いだった。解説文にも「アメリカン・プロレスの頂点を極めていたが」とあったし、その辺りでなんとなく凄さは理解は出来たものの、実際に目にもしていないのでまだ実感は湧かなかった。

 

そして、高校時代に、相鉄線のさがみ野駅前にアコムというレンタルビデオ店があった。今ではブックオフがある辺りである。そこにはプロレスファンのスタッフが居たのかどうか知らないが、一般のお店としては異例とも思えるほどプロレスのビデオが多く、棚1面完全にプロレスが占めていた。

 

そのほとんどは新日本、そして新生UWFが占めていたのだが、一部にはWWEのPPVビデオもあった。今のように、オリジナル版に字幕をつけたものではなく、全てに新たに日本語の実況と解説がつけられていた。そこまでWWEに興味があった訳でもないので、覚えている限りレッスルマニアの6,7,8を借りたぐらいだが、そこで初めてアメリカン・プロレスの凄さ、そしてハルク・ホーガンがどれだけ別格なカリスマかを初めて理解出来たのである。

 

もちろん、その後改めて歴史を学び、どのようにしてホーガンがリアル・アメリカンヒーローになったかを知っていったのだが、今のWWEが世界的規模になったのは間違いなくホーガンのおかげであり、ホーガンイコールアメリカン・プロレスと言う存在だ。日本ではハーリー・レイスがミスター・プロレスと称されているが、それはあくまでNWA王座実質7回と言う実績から来ているものであり、実際のミスター・プロレスはハルク・ホーガン、日本ではアントニオ猪木である事に異論はないだろう。

 

その後、ホーガンはまさかのWWE離脱、WWE、そしてレッスルマニアの成功はホーガンありきだっただけに、その後WWEはやっていけるのかと危惧もしたものだが、実際に顔に選ばれたのは意外にも技巧派的なヒットマン・ブレット・ハートだった。彼がトップの時代、WWEは初の単独日本進出を果たしたのであるが、まだまだアメプロの顔はホーガンと言うイメージが強く、当時のファンからするとブレットはあまりにも小物と言う印象だった。当然、集客的に大苦戦し、結果秋の第2弾は中止になったという。

 

当時、日本市場を意識してか、新日本の常連だったグレート・コキーナを引き抜き、ヨコヅナと言うキャラクターを生み出しWWE王者にもさせたのだが、日本人受けはゼロであり集客の綱にもならなかった。それに加えて、当時のほとんどのファンはアメプロを下に見ており、さらに四天王プロレス全盛期、UWF系もまだまだ一線だった事もあって、日本のプロレスこそ世界最高と信じて疑わなかったのだ。