そして運命の1995年のシリーズを迎えるが、この年の冒頭と言えばやはり武藤敬司のスランプである。正直、プロレスにスランプなんてあるのか?としか思えなかったのであるが、まあその後の展開を見ても分かるように、アングルの一種だったと考えてもはや間違いないだろう。
新日本は割とこの手のアングルを使いがちであり、かつては橋本真也の中国修行や、藤波辰爾の長期欠場からボクシング特訓、そして格闘技戦で復活、と言う流れもその一種だったかと思う。それで95年は武藤のターンと言う事だったのだが、この時はまさかの野上にドラゴンスープレックスでフォール負けを喫したり、その流れでシリーズ欠場そして長野かどこかのお寺で座禅を組んだりと、あらゆる手を講じて武藤がおかしいぞ、と言う印象を植え付けてきたものである。
なので、完全に記憶を頼りに書いているので事実と正しいかは自信はないのであるが、3月から4月辺りはシリーズを休養していたはずである。途中、2月ぐらいにムタとしてエル・ヒガンテとシングルでやっているはずなのであるが、この時はいつも通りのムタであり、スランプの武藤とは別人格と言う事を必要以上に強調した結果だったかと思う。
そういう事もあり、当然4月下旬のあの北朝鮮ツアーには武藤は参加していない。しかし、にも関わらず、福岡ドームでのメインではいきなり橋本のIWGP王座に挑戦が発表されたので、「どうして欠場していた武藤がいきなり挑戦出来るのか」と内外から非難を浴び得ていた記憶がある。確かにそれは自分ですらそう思ったので、レスラーからも不満が噴出するのは当然だったとは思うのであるが、ここでなんと「光る女」以来の髭もじゃで登場した武藤は橋本にムーンサルトから勝利し、武藤敬司としては念願の初IWGP王座へと輝くのだ。
同下旬、後楽園ホールにおいてまだWCW時代のブレイク前のスティーブ・オースチンとシングル戦を行うのであるが、雑誌のレポートによるとかなり辛辣なヤジを喰らったそうである。確かに、キックとDDTを主体とする橋本の分かりやすいプロレスに比べると、流行り技を使わずレスリングに比重に置く武藤のスタイルは、人によっては退屈と映ってしまう事も確かだった。しかし、さすがに声が届く後楽園ホールにおいてのヤジは、武藤にとっても辛いものだったと記憶している。
なので、王者になったからとは言ってもすぐに客の心を掴めた訳でもなかったのであるが、そのオースチン戦の様子が雑誌でリポートされた以降、多くのファンは次第に武藤の味方となっていく。そして6月、今でも話題となるあの6月の佐々木健介戦を迎えたのであるが、ここで武藤に恥をかかそうと「仕掛けて」いった健介は軽く返り討ちにされてしまい、逆に実力差を見せつけられた格好となってしまう。
この大阪大会を含む3連戦は週刊プロレスが増刊を出しており、「さすが武藤、完全試合だ」の見出しで武藤の圧勝を伝えた。そして、テレビ収録もされ、私も間違いなくテレビ中継でその試合を見た記憶があるのであるが、録画したにも関わらずそれっきりであったため、一体どのようにして武藤が完封したのかは記憶が定かではないのである。あいにく、ワールドでもアップされていないし、さらには最新のBlu-rayにも収録されていない。なので、当時の中継の録画以外では見る事は困難な状況となってしまっているのが現状である。
翌々日の武道館では、当時売り出し中だった天山とのIWGP戦が行われたが、今思うとどう考えてもタイトル移動はあり得ない組み合わせである。一応、ムーンサルト対決などと言う煽りはあったとは言え、格的にもキャリア的にもレベルが違いすぎ、なのでそこまで見る側も盛り上がれなかったのが正直なところだ。こちらの試合もワールドでもBlu-rayでも観る事が出来ないので、まあ歴史的にもその程度の扱いと言う事なのだろう。