アーケードゲームを愛す・その21 | ONCE IN A LIFETIME

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フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

そして4月中旬、遂にストリートファイターIIダッシュが発売される。当時、その日私は海老名のニチイ、現イオン海老名店のゲームコーナーに居たのであるが、ちょうどストIIダッシュの基板を筐体にセッティングしている最中だった。テストプレイが終わり、早速リュウでプレイさせてもらったのであるが、あえなくリュウで終わってしまった。CPUが初代よりも強くなっていた事はもちろんなのであったが、その中でもリュウだけが異常に強い、というのが発売当初の評判だったのである。

 

それが初プレイであったのだが、正直言うとそのままダッシュ目当てに色々なゲーセンに行きやり込んだ、という事はなかったかとは思う。理由としては、当然大抵のゲーセンはいきなり対戦台を導入していったのであるが、それだけに一人用での練習がやりづらかった事。対戦だと負ければ当然1分程度でワンコイン失ってしまうため、正直まだ学生の身であった私としては容易には手を出しづらかったのである。

 

また、その頃から再び本格的にプロレスも見始めたのであるが、ネットなんてない当時、最大限の情報源は雑誌だった。私は最初に買ったのがたまたま週刊ゴングの増刊だったため、その流れでゴングを買って行ったのであるが、当然毎週それだけのお金が減っていくし、またプロレスを見にいくともなればそれ相応のお金を費やしてしまう訳である。つまり、以前のようにゲームだけにお金を使う訳にもいかなかくなっていったのだ。

 

それにより、4月ぐらいまでずっと買っていたファミ通もとうとう買うのをやめてしまった。当時、ファミ通はすでに総合誌に近い形ではあったとは言え、それでもやはり任天堂ハードが中心であった。しかし、当時はPCEのCD-ROM2ユニットを買った事、そしてソフトがアーケードの移植に偏って行った事もあって、次第に任天堂はその選択肢から外れて行ったのである。当然、月刊ではあってもPCE専門誌の方がPCEには詳しいため、必然的に総合誌は読まなくなった訳である。

 

そんな要因もあって、この辺りはゲーセンにはあまり行っていないのである。ただ、それまで本厚木や町田がメインだったのだが、この辺りから小田急相模原駅前に存在したコンピューターランドというゲーセンが拠点になっていった。当時はまだ1Fしかなく、ビデオゲームも10筐体ぐらいしかなかったのであるが、メンテも行き届いており、雰囲気も良かったため次第にここに落ち着いていくようになっていったのである。