アーケードゲームを愛す・その17 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

この時代、他にプレイしていたと言えば雷電である。リリースされたのは前年の事なので、この時点では新しいゲームではなかったのだが、まだまだほとんどのゲーセンで見かける事が出来た。かなりの難易度であるにも関わらず、サラリーマンなどにもウケた事がヒットの要因とされたのだが、正直私にはそれが理解出来なかった。

 

何故か、それは前述のようにあまりにも難易度が高かったからである。そして、当時はまだオート連射が主流でなかったので、手打ちする以外なかったのであるが、この雷電は非常に固いボスが多いため、手動だと難易度がさらに跳ね上がってしまう。なので、私としては面白い以前にまず難しい、という印象しかなかったので、何故こんな難しいゲームがロングヒットしているのかがさっぱり分からなかったものだ。

 

のち、ゲーメストのバックナンバーを読んだ際、2P側であれば多少難易度が落ちるというのを知って、3面ぐらいまでは進めるようにはなったのであるが、それでもものすごく熱中出来たかと言えばそうでもなかったと思う。のち、家庭用や、そして完全移植に等しいPS版などは連射がある事もあって、それなりに進めたものではあったのだが、少なくともリアルでゲーセンでプレイしていた時には「ヒット作だからやってみるか」という気持ちの方が強かった。

 

そして、この頃に通っていたゲーセンは、やはり50円が中心の本厚木がほとんどであったのだが、ある時相模大野も加わる事となった。私の周りでは遊びに行くと言えば本厚木か町田が定番であり、伊勢丹はあったとは言え、まだステスクもなかった相模大野は選択肢にはなかったのである。しかし、ある日ファミコン通信のバックナンバーを眺めていると、3画面で有名になったドライバーズアイの設置店が掲載されていた。そのうちのひとつが、プレイシティキャロット相模大野店だったのである。

 

プレイシティキャロットと言えば、言わずと知れたナムコの直営であり、特に巣鴨店は日本一のお店としてその名を全国に轟かせていたものである。当時、業界の方針により改装され、ゲーメストのハイスコア掲載も一旦取りやめており、スコアラーとしての名前は他に譲ってはいたものの、それでもキャロットの名前は憧れでもあった。

 

という訳で、キャロットが相模大野にあることを知った私は早速向かった訳である。現在もある大通りのパチンコ屋の地下1階にあったのであるが、やはり店内は非常に綺麗であり、それこそ延々と居たくなるほどの素晴らしいお店だった。さすがに100円であったので、頻繁にやり込むには向いてはいなかったものの、それでもそれだけの価値はあるお店と言えた。

 

そして、周辺にはサトームセンや、中古ゲーム屋、そして本厚木発祥のCD屋であるTAHARAなどもあったりして、割とゲーマー御用達でもあった。特に、サトームセンはメガドライブやPCEに強く、そしてTAHARAはゲームCDやビデオに強かったため、何度となくお世話になったものである。こうして、単なる江ノ島線への分岐点に過ぎなかった相模大野が、私にとって一気に身近になっていったのだ。