スーパーファミコンを愛す・その1 | ONCE IN A LIFETIME

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フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

世の中でいつ「スーパーファミコン」という存在が公になったのかは全く記憶にないのであるが、Wikipediaによると1987年9月の山内溥氏の発言が初めてだと言う。それからほぼ1年後に試作機が公開され、私もこのモックアップはよく覚えているのであるが、実はリアルタイムでは知らない。理由は言わずもがな、当時はミニ四駆ばかりに熱中しており、ゲーム雑誌には全く目を通していなかったのである。

 

そして翌年7月、突如として任天堂が「スーパーファミコンは今後1年間発売しません」と発表。これは当時ファミ通を愛読していた私は非常に良く覚えているが、それを読んでも「そうなんだ」ぐらいしか思わず、別に落胆などはなかったものだ。理由は簡単、世の中の市場はまだまだファミコンが活況を誇っており、そして4月に発売されたばかりのゲームボーイもテトリスの記録的なヒットにより品切れを起こすほどの人気、少なくとも自分にとってはそれだけでまだまだお腹いっぱいであったのである。

 

そして、これもWikipediaによると1990年の6月に最終仕様と発売日が決定したそうであるが、これに関しては全く記憶にない。私が覚えている事と言えば、初期のモックアップから大分形状が変わり、発売バージョンに近くなったものがこの年に発表された、ぐらいだろう。そして、この当時には側面にまだヘッドホン端子があったはずである。当時、私の家庭にはステレオのテレビがなかったので、これには非常に期待したのであるが、コストダウンのために発売バージョンでは省かれてしまったのが残念だった。

 

9月頃になると完全に仕様が確定し、ファミマガなどでは毎号のように別冊付録がついてくるほどSFCをプッシュし始めて行った。もちろん興味津々ではあったものの、私的にはそれだけで欲しいと思えるようにはならなかった。ローンチはマリオワールドとF-ZEROであったのだが、まずマリオは画面が綺麗なだけでシステム的なインパクトは薄かった事、そして後者に至っては記事ではその迫力が伝わりにくかったのが挙げられる。

 

そもそも、ローンチ自体その2本だけであったので、それではさすがに立ち上げとしては弱いに決まっている。という訳で、当時はまだまだローンチにはアーケードの移植作がどうしても必要だった。その責任を背負ったのが、コナミの「グラディウスIII」と、カプコンの「ファイナルファイト」という、1990年のゲーセンを代表する2作だった。特に、後者は「ゲーメスト大賞」を受賞するなど、1990年で最も人気とインカムの高かったゲームのひとつである。

 

ただ、正直それをもってしてもまだ十分とは言えなかった。当時、SFCの売りと言えば回転拡大縮小、というものが非常に売りとなっており、それをいかに有効的に使うかが鍵だった。しかし、見ての通りファイナルファイトにはそれを使う必然性のないゲームであり、ゲーセンに行かない連中にとってはSFCの機能を活かしているゲームには見えなかったのである。