私は1991年当時にコナミが発売した、RF接続端子付きのコンポジットセレクターを使用していたので、それを使用してからはテレビに直接RF端子を接続して使う事はなくなっていたとは思うのであるが、それでも本体そのものがコンポジットに対応してい流方が良いに決まっているので、ニューファミコンの発売というのは非常にありがたいものだった。
ただしかし、同じコンポジットのそれであっても、さすがにSFCのそれと比較すると劣っており、正直画面のノイズが少なくなる以外はRFと大差ない感じであったかと思う。まあ、元々のコンポジット端子がその程度なのであるとは言え、正直もう少し顕著な画質向上を期待していたものだから、これは正直がっかりさせられたものだった。まあ、当時のテレビの性能を考えたらというのもあるので、のちのSONYのWEGAなどであればもう少し綺麗に映ってくれたのかも知れない。
そして、1994年になってもしばらくファミコンソフトの供給は続いて行ったものの、とうとう6月の「高橋名人の冒険島IV」の発売を持って最後を迎えることとなった。しかし、当然発売時にはこのゲームがファミコン最終作、となる事は確定ではなかったはずである。ファミコン最終作を、ファミコン初のサードパーティのメーカーであるハドソンで締める、というのは運命だろうか。
この当時、私はもっぱらPCEがメイン機種であり、SFCではストIIシリーズや、ファイヤープロレスリングシリーズ専用機と化していた。メガドライブはマニアックなアーケードの移植もの、と言った感じであり、ファミコンはほとんど起動する事はなくなっていたと思う。しかし、それでもファミコンはまだ死んではいなかった。この年の秋頃、授業で三国志の水魚の交わりを習った際、隣の席のクラスメイトが頼んだ訳でもないのに横山光輝三国志の漫画と、アニメ版を録画したVHSをわざわざ貸してくれたのだ。
半ばありがた迷惑であったが、これにより私は三国志の世界にどっぷりと浸かる事となった。そして、発売当時は高くて手が出せなかったファミコン版の「三國志II」にとうとう手を出したのである。ファミコン版という事で当然処理速度は速いとは言えなかったものの、「信長の野望・全国版」以来のプレイとなる光栄の歴史シミュレーション、それはそれは時間を忘れてハマっていったものである。
当時、何故光栄のゲームは高いのか、というのが長らくの疑問だった。しかし、実際にプレイしてそれはある意味当然だと思ったものだ。歴史の文献を調べる手間はもちろんの事、ファミコンで高度なシミュレーションゲームを実現した特殊な基板もそうである。光栄のパッケージと言えばVHSのビデオテープ並に大きいのが有名だったが、実際のROMカセットも一回り大きい。正確に言えばファミリベーシックと同じサイズである。これが、ファミコンで歴史シミュレーションを実現してしまった理由という訳だ。
思えば、「ドンキーコング」や、「マリオブラザーズ」という、1980年代前半のゲームがなんとか忠実移植出来るぐらいのハードであるはずだったのに、本来ならばPCでプレイするしかなかったウィザードリィや、三國志までもが遊べるようになってしまったのだ。もちろん、上記のように特殊なROMは積んでいるとは言っても、ファミコン本体そのもののを向上させるオプションなどは一切不要で動く訳である。それを考えたらこれは本当に驚異的な事だった。
これに影響され、ファミコン版「信長の野望・戦国群雄伝」も買っていくのであるが、こちらは三國志IIほど熱中は出来なかった。以降も、プレイしていったのはほぼ全て三國志の続編に限られたが、私をその世界に導いてくれたのはファミコン版の三國志IIだった訳である。つまり、ファミコンなくして三國志に魅せられる事はなかったのだ。