その記事において今でも印象的だったのは、「ファミ・コン」と真ん中に「・」がついていた事だ。この時点でファミコンという略称で呼ばれていたのはこれで明らかであるのだが、「・」がある時点でまだ一般的ではないな、というのがこれで分かる。まるで、プロレスが力道山時代の初期、「プロのレスリング」という訳で稀に「プロ・レス」と書かれていたのに通じるというものだ。因みに、このおかげで私の祖父などはプロレスを「レス」と呼んでいた。
その雑誌はすでに手元にないのであるが、記憶にある限りピックアップされていたのは「ピンボール」であり、その他任天堂のスポーツゲームがちょこっと紹介されていた程度だったかと思う。この年の7月に、ファミコン初のサードパーティとなったハドソンが「ロードランナー」と、「ナッツアンドミルク」をリリースしているのだが、まだこの時点では「任天堂のハードなのだから任天堂のゲーム」という認識しかなかった。
そして、前の記事でも触れたよう、このページに関してはモノクロだった。つまり、まだその程度の存在だったという事である。では、当時のコロコロコミックが何を子供達にプッシュしていたのか?それはずばりラジコンである。「ラジコンは増田屋コーポレーションの登録商標です」なので、タミヤなどは「RCカー」などと呼称していたのであるが、同誌で連載していた「ラジコンボーイ」などの影響もあって、普通にラジコンというのがほぼ一般名詞化されていた。
ただ、タミヤとタイアップしていたという事はイコールもちろん組み立て式の「ホビーラジコン」、または「モデルラジコン」が中心だったのだが、プロポと別売りなのが当たり前なので、キットと合わせると軽く3万円超えとなってしまい、小学生向けとしてはあまりにも高すぎるホビーであった。同時期、廉価機と言っても良い「グラスホッパー」なども発売されたとは言え、それでも決して安いとは言えない。お年玉を貯めなければ決して買えない代物であった。
なぜそんなバカ高いホビーを、小学生向けのコロコロコミックでプッシュしていたかは不明だが、他にこれと言ってなかったというのが本当だろう。なので、大抵の子供達にとっては雑誌を眺めるだけで終わったと思われる。一応、チョロQなどもあり、それは子供でも十分買えたものだったが、さすがにラジコンと比べてしまうとショボいのは否めない。そんな本来は大人向けの趣味であるラジコンを、子供達にも楽しめるようにタミヤが苦心の末に考案した結果が、のちの「レーサーミニ四駆」と昇華し、ご存知の様にゲーム業界が打撃を受けるほどの記録的ブームを巻き起こして行ったのである。
話は飛んだが、つまりはまだこの時代はゲーム機というのはその程度の存在だったのだ。また、これより5年ほど前にブームを巻き起こした「スペースインベーダー」の負の遺産により、「ゲームは悪」という風潮が保護者の間では常識となっていた時代でもあった。つまり、ゲームに対する風当たりは今とは比較にならないほど強かったのである。