ストリートファイターIIを愛す・その8 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

しばらく友人とのみ対戦プレイを行なっていったが、私はリュウ・ケンで彼は本田かザンギエフだったので、どちらか一方的に勝つような事はなく常にバランスが取れた組み合わせだった。そんなある日、どう見てもCPUの動きではないストIIの筐体を目にした。ものは試しにとコインを入れていったが、確かにCPUの動きではなく、明らかに人間が動かしているような動きだった。

 

お互いにその意味が分からず、しばらく謎の存在として捉えていたのだが、ある日相模大野のゲーセンにいった時、そのからくりが判明した。つまり、一つの基板を前後に向かい合わせとなっている2台の筐体に映し出しているだけだったのである。つまり、あらかじめ人間同士の対戦を前提している、いわゆる「対戦台」であった事に今更ながら気付いたのだった。

 

少し考えれば分かりそうなものだったのだが、当時の認識ではまさか奥の筐体にも同じゲームが映っているなど考えもしなかった時代であったので、「一つの筐体」という認識でしかなかった当時の我々には気づくよしもなかったのだ。初めて対戦台が設置されたのは東京の西側という説が濃厚らしいが、大体1991年の12月には全国に広がりはじめていったかと思う。

 

1991年の10月頃になると、さすがのストIIも台が空き始めていったが、その対戦台をきっかけとして再びストII人気が爆発。対戦が行われる度に必ずインカムを得れるというゲーム性にオペレーターは大喜び、どこもかしこも対戦台で溢れていった。当時、本厚木にあったゲーセンはまさにその典型であり、5台ほど横に並べられた対戦台はまさに壮観だった。これが日本における対戦台の始まりだった訳だが、その一方で弊害も起き始めた。

 

つまり、対戦台が一台でも設置されれば、必ずひとつのゲームが犠牲になる訳である。基本、インカムの少ないゲームから撤収されていくとは言え、そのゲームのファンにとってみればたまらないだろう。まして、アーケードゲームである以上、一度ゲームが撤収されてしまえば、そのゲームを再びプレイする事はほぼ絶望的に等しくなる。当時はストIIアンチ的なプレイヤーも増えてきていたので、そこでプレイヤーの怒りを買う事にもなってしまった。

 

また、以前かのウメハラ氏も語っていたが、ゲームであっても人間同士が争えば、いざこざのきっかけともなってしまう。私は遭遇した事はないものの、それがきっかけでリアルファイト、極稀にリアル瞬獄殺にまで発展した事まであったという。まあ初代ストII時代には、リュウ・ケンやザンギエフのように「ハメしかない」というキャラもいたし、ガイルを使われたらダルシムを出せばいい、というのもあったので、そこまでのいざこざには発展はしなかったと思う。それが表面化したのはやはりダッシュ以降の話である。

 

まあという訳で、私たちもその当時は参加したりもしたが、当然負けた方は1分でワンコインを失う訳で、次第にそれが嫌になっていった私は結局友人以外とプレイはしなくなっていった。