PCエンジンを愛す・その5 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

1989年初夏の話題作と言えば、かの糸井重里氏がプロデュースした「MOTHER」だった。正直、ファミマガでの期待値は高くはなかったし、自分からすれば大人の事情でなんだかゴリ押しでプッシュしている印象を受けたものだが、まんまと乗せられた私は発売日に購入、そのまま夏休みの間にクリアしていった。

 

そして、同年4月には初代ゲームボーイが発売、そしてその2ヶ月後にはあの「テトリス」が発売され本体が一気に品薄となるなど、半ば社会現象と化していった。なぜここでそれらに触れたかと言うと、まだまだ家庭用業界は任天堂一強であり、ファミコン本体から6年が経っていた当時であっても、まだまだ任天堂は我が春を謳歌していたと言う訳だ。

 

つまり、まだまだPCEやMDでは任天堂に太刀打ち出来なかったという事である。なので、当然私も結局任天堂ハードに原点回帰せざるを得なかった。という訳で、同年に購入したPCEソフトは「SUPER桃太郎電鉄」だけという有様だったのだ。と言う訳で、鮮やかな白色に輝いていた本体は、すでに埃が被り哀れな姿を晒してしまっていた。

 

まあ、その時点ですでにHuカードは限界が見えてきたし、メーカーもすでにCD-ROMにシフトチェンジしていきたかったのだろうが、いかんせんまだまだハードが高過ぎた。都内の家電量販店などではかなり値下げもされていたとは思うのであるが、当時の私では家の周辺が全ての世界であったため、とてもそんな所までチェックする余裕なんてなかったものだ。もちろん、当時は小田急線の複々線などようやく着工が開始されたぐらいだったので、新宿に出る事自体すでに一大事だった。

 

まあそれはさておき、PCEは年末商戦にこれ以上ない超大作をリリースする。言わずもがな、「イースI・II」である。私自身がプレイしたのはずっと後の事であったが、ハードの売り上げを牽引するのには十分すぎるほどの大作であった。もちろん、まだまだ任天堂の天下であり、しかも2ヶ月後にはあの「ドラゴンクエストIV」が待っていたのだから、さすがにPCEが主役に躍り出る事は不可能であったものの、CD-ROM2の威力をまざまざと見せつけた記念碑的作品となった事は言うまでもない。

 

ただ、そうは言っても自分自身はまだまだ任天堂中心であり、翌年の90年に購入したPCEソフトはもしかしたら一本もなかったかも知れない。この年はドラクエIVだけではなく、3月にはウィザードリィIII、4月には女神転生IIそしてファイナルファンタジーIIIと、RPGの超大作が目白押し。さらにGB版ネメシスをきっかけにグラディウスシリーズにも惹かれていった私は、ファミコンの続編もプレイしていくなど、とてもPCEに目を向ける余裕などはなかった。

 

まだHuカードのラインナップも豊富であり、中にはアーケードの良作も含まれていただろう。しかし、まだその世界を知らない私にとっては未知のものであり、興味の対象とはならなかった。そして、発表から2年、遂にあのスーパーファミコンの全貌が明らかになり、年末ともなればその話題で一色となっていったのもそれに拍車をかけた。しかも、ローンチには「スーパーマリオワールド」という目玉だけでなく、「F-ZERO」というまさかの伏兵、そして他社からは「グラディウスIII」に「ファイナルファイト」と、このラインナップの前ではNECもセガもひれ伏すしかなかったのだ。