投手の球速について語ってみる・戦後編 | ONCE IN A LIFETIME

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フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

以前も触れたように、映像がなくとも数字からある程度選手の特徴や実力を読み取れるのが野球の魅力のひとつである。そこで、単純にそれを読み取る限り、奪三振率が高い投手イコール速球投手が多い、というのが典型的なイメージだろう。そして、戦後の速球投手でまず思い浮かべるのが、金田正一である。

 

かの川上哲治氏をはじめとして、当時のほとんどの選手たちが異口同音に金田は速いと証言しているし、また映像もそれなりに残されているので、速かったのはほぼ間違いないと思われる。しかし、実は奪三振率が初めて9、つまり投球回を超えたのは金田ではない。1955年の西村一孔という阪神の投手が最高である。

 

実に295.1回を投げて302奪三振。戦後になると奪三振率は上昇してはいったものの、それでもこの時代としては驚異の奪三振率である。これまで一度も映像を見た事もないし、また証言自体もほとんど目にした事がないので、一体どれほどの投手だったのかは分からないが、数少ない証言を読む限りでは速球派だったようである。まさに伝説の速球投手のひとりとも言える。

 

その後はやはり、前述にあげた金田正一の天下が続く。最初にその記録を目にしたのは11歳の頃であったが、14年連続20勝かつ200奪三振以上というチートな成績に、数字を見るだけで圧倒され、そしてそれを見たほぼ全員の友人も目を丸くしていたものだ。もちろん、金田が圧倒的な超人という訳でもなく、当時の打者の実力や、バットやボールの材質なども大きく影響はしていたのは間違いはないだろうが、それでも当時としては突出して速かったのは間違いない。

 

と言う訳で、もちろんこれまであらゆる形で解析されている。私は良く知らないが、かつてはアイモ改造機なる機械によって解析されていた時代があった。それによると約158キロ前後は出ていたというが、もちろん信憑性は不明である。かつて、石井一久が奪三振率の新記録を樹立するなど、同じ左腕の速球派として名を挙げていた時代があったが、大体アベレージは148キロ前後、最高で153キロほどであったと思う。かの長嶋さんも、「常時145キロは出ていた」と証言しているし、実際はその程度ではないかと思う。ただ、連投が当たり前の当時、全て全力投球という訳にはいかないので、本当に本気で投げれば150は超えていたのかも知れない。実際、かの湯浅教授によれば154.3キロだったという。

 

その後は映像や資料が豊富なので、あとはWikipediaでも読んでくれれば分かると思うが、まあやはり最有力は東映の尾崎行雄であり、そしてやはり江夏豊あたりであろう。しかし、当時弱小球団ながらも、阪急の2大エースであった米田哲也と梶本隆夫を忘れてはならない。当時強豪だった西鉄の稲尾和久らに比べて、あまりにも映像や資料に乏しいので私も数字以外はほとんど分からないのであるが、当時の審判員たちは口を揃えて速かったという証言をしている。打者の次に近い目線で見る審判員がそう言うのだから、ほぼそれは間違い無いだろう。

 

また、江夏が401奪三振を記録した年は相当速かったと思うのだが、大リーガーに滅多うちにされた金田とは異なり、同年来日したカージナルスを江夏は完璧に抑え込んだ。翌年以降奪三振のペースは落ちるが、現在のように分業化されていたら、率自体はもっと残していたに違いない。

 

1970年代中盤以降は打撃の時代となり、同時に投手成績が落ちていくが、これは用具、特にボールの質の向上に加え、にも関わらず投手の使い方は相変わらず旧態依然だった事などが挙げられる。また、奪三振がまだタイトル化しておらず、投手にとってはそれほど評価の対象にはならないと言うのもあったに違いない。この傾向が崩れていくのは、全体の防御率が劇的に良くなってきた1987年以降だったように思う。新ストライクゾーン、飛ぶボールの見直し、投手の分業制そしてフォークボールの使い手が増えてきた事などが挙げられる。

 

以上駆け足で語ってきたが、私が野球を見始めた頃は奪三振率9以上を記録した投手など僅かだったにもかかわらず、いまでは10以上も珍しくなくなっている。同時に投手の球速も異常なまでに向上し、正直何が要因なのかはさっぱり分からないのであるが、それだけ日本人の体格やトレーニング方法が改善されてきたという事なのだろうか。