投手の球速について語ってみる・伝説編その2 | ONCE IN A LIFETIME

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フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

私の知る限り、沢村の球速を科学的に分析した初の例は、1999年年末に放送された「勇者のスタジアム」における、「速球解析の第一人者」、と勝手に私が思っている中京大の湯浅教授であったかと思う。当然、私はそこの部分だけ録画するほど、興味津々で見ていったのであるが、果たして映像のない沢村の球速をどうやって解析するのだろうか、に尽きた。

 

その種明かしは、UCLAに奇跡的にのちの東京巨人軍がアメリカに遠征した時の映像が鮮明に残っており、そこの投球練習の映像から解析するというものだった。プロの投手の投球練習が、全力投球の何%であるかという平均から求めたという事であるが、映像をみる限りではかなり軽く放っているため、正直かなり無理な解析であったかと思う。結果は、尾崎行雄の159.2Kmを僅かに凌ぐ159.4Kmという脅威の数値であったが、当然信憑性に関しては不明である。

 

 
後に書かれた著書には10名の球速が解析されていたが、ここでは沢村が160.4Km、尾崎行雄が160.2Kmであった。つまり、前述の放送の数値はテレビ的な演出であった事がここで分かる。こちらは検索すればネットでも出てくるはずなので、関心のある方はググってみてもいいだろう。
 
そしてそれから10年以上も経った頃、YouTubeに突然プライベートで撮影された伝説的な映像がアップされる。それは「日本シリーズの前身」とも言える、昭和11年12月、今はなき洲崎球場における伝説の「巨人VS阪神」の日本選手権試合である。アップロード時は話題にもならなかったが、2015年にNHKで大きく取り上げられ、なんとNHKのスタッフによって鮮明化がなされた。そこに映し出されていた投手の背中にはっきりと「14」が浮かび上がり、遂に沢村が試合中に投げている完全な映像が発見されたのである。

 

 

伝説に言われる足上げのフォームでこそなかったものの、その投球フォームは今見ても実に素晴らしく完璧なものであり、これなら150Km投げていても全くおかしくはない、というものであった。当然の如く、前述の湯浅氏によって解析がされたが、こちらは完璧な映像が見つかったという事もあって、以前の解析よりもさらに正確な数値が示されていった。実際の球速こそ解析はされなかったものの、そのフォームから算出された数値は現代の大谷翔平のそれと比べて全く遜色ないレベルだった。すなわち、軽く150Kmは投げていただろう、という事である。
 
ここで、ひとまず沢村の球速に関しては結論は出たという事になる。150Km出ていた云々よりも、これによって証言の信憑性がかなり増したという事実だけでも喜ばしい事であろう。戦前から戦後間もない頃の投手の映像を見る限り、かなり軽く投げている印象があったものの、この沢村のフォームに関しては決してそうではなく、これなら現代でも通用するかもしれないという事が分かるというものだ。昭和11年という時代に、これだけしなやかで力強い完璧なフォームで投げていたという事だけでも驚きである。
 
そして、沢村以後の巨人を支えたのが、白系ロシア人の血を引くビクトル・スタルヒンである。川上哲治氏などは戦前ではスタルヒンが一番と語っていたが、沢村ほどその速球を伝えるエピソードは多くはなく、奪三振もそう傑出はしていない。一応、かつての「知ってるつもり?!」では153Km、湯浅氏によると157.2Kmとの事であるが、戦前なのか以降なのかは不明である。ただ、スタルヒンに関しては戦前の映像もかなり確認されているので、沢村よりかは資料が豊富であったかと思われる。