投手の球速について語ってみる・伝説編その1 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

前回はほぼリアルタイムで見てきた事を語ってきたが、今回はそれ以前の伝説的な選手を語っていこうかと思う。まずはこの手の話題で真っ先に名前が上がるのが、やはりプロ野球最初の伝説である沢村栄治だろう。沢村の球速は何十年にも渡り議論されてきたものだが、何キロという確証が出ない最大の理由はもちろんその映像の少なさである。

 

沢村の動く映像というのは極めて少なく、私が子供の頃などはあの有名な、上半身のみのフォームを下から映した2秒程度の映像しか現存しなかったのだ。それ以外は当時の同僚や観客の証言しかなかったので、これでは結論など出るはずもない。しかし、沢村伝説をさらに後押ししたものが後者の証言であり、かの水原茂や三原脩をはじめとして、ほとんどの名選手・大監督らがその球速を絶賛しているのである。

 

特に前者の大監督2名は、戦後もかなりご存命で長生きされたので、それこそ戦後の金田、江夏、堀内、尾崎、そして江川の時代まで見てきたはずである。しかし、彼ら大投手を押しのけてまでも、沢村のあとに沢村なし、沢村こそ日本史上最高の投手と言って憚らなかった。そして、スピードガンの登場時に、当時の最速クラスであった小松辰雄や村田兆治らが150キロ前後を連発した際、沢村幻想がさらに膨れ上がり沢村はそれ以上、という伝説が生まれたのだろう。

 

さすがに後世の人間にとって「それはいくらなんでも盛りすぎだろう」と言うのは思わざるを得ないものだ。しかし、野球の場合は他のスポーツとは異なり、「数字」という客観的事実が残される。つまり、映像や何もなくとも、数字の羅列からその選手の偉大さなどを実感出来るのだ。私がそこで野球記録にハマったように、そこが野球ならではの楽しみ方に違いない。ただ、大昔はそれを調べるだけでも一苦労であったが、今では検索だけで簡単に記録を調べる事が出来る。沢村の全盛期は2年で終わってしまったが、昭和12年度春季の記録はまさに圧倒的であり、特に速球投手として注目すべきなのは奪三振である。

 

投球回数244回で196奪三振、奪三振率7.22。秋は調子を落とすものの、それでも140回を投げて129奪三振、奪三振率8.29。最近は先発で奪三振率9以上が珍しくないので、数字だけで判断すると大した事ないのではと思いがちである。しかし、ここに罠がある。私はベースボールレコードブックを読んだ際に改めて知ったのであるが、それ以下との差が物凄いのである。手元にないので記憶が頼りであるが、昭和12年春などは3桁奪三振自体沢村ともう1人だけ、そしてそれ以下との差が圧倒的で沢村だけ異次元なのだ。

 

これと似たような事は長嶋茂雄にも見られる。リーグ平均打率が.230の時代に、3割打者は1人だけしかも.340以上、なんてことを平然とやってのけたほどである。しかし、これは2位以下も含めたランキングを見ない限り、なかなか気付くものではなく、このあたりが後世の人間が長嶋茂雄の偉大さに気づけない理由のひとつなのだ。王貞治と比較して、「記録より記憶」などと呼ばれる事もままあるが、本当にそう思っている人は野球を知らない人と断言する。長嶋茂雄は記録も記憶にも残る偉人なのである。

 

まあいわゆる「傑出率」というものであり、そこが沢村も飛び抜けていた、という事である。そして、当時はボールが見やすい全試合デーゲーム、そしてエースは完投、リリーフも当たり前の時代であり、かつバットやボールが粗悪品ともなれば、下位打線などは打たせてとっていった事は容易である。それは大リーグも似たようなものであり、ベーブ・ルース覚醒以降の打者天国の時代は、軒並み投手の奪三振率も低く、6あれば高いと言われていた時代である。おそらく日本の平均はもっと低かったであろう。しかし、それでも沢村の奪三振は異次元であったのだから、数字だけ見ても飛び抜けた速球投手であった事がわかるというものだ。