1999年1月4日・橋本真也VS小川直也戦について語る | ONCE IN A LIFETIME

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フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

先日、プロレス界最大の謎のひとつともされたあの「1999.1.4」の真相が、遂に小川直也自身により告白された。大方の予想通り、アントニオ猪木直々の指令であったという事だったのであるが、色々憶測を読んだだけあって、いざ真相を語られてしまうとなんとなく拍子抜けしてしまった感もある。

 

個人的には、常に会社の方針に楯突く姿勢、そして長州力との不仲により、元より橋本を好まなかった猪木との利害が一致したため、という見方もしていたのであるが、さすがに当時最強で売っていた橋本の商品価値を落とさせるような事まではしなかったであろう。しかし、当日の様子を聞く限りでは、さすがにある程度の事は長州の耳にも入っていたようである。この辺りの件もはっきりと知りたい所であるが、元よりプロレスの話はしたがらない長州なだけあって、今後も語られる可能性はないと思われる。

 

まあ、そういう訳でようやく謎が明かされたと言えるのであるが、すでに22年以上も前の出来事にも関わらず、自分としては「ついこの前」という感覚が強い。言うなれば、それほどまでに今なお色褪せず、当時のファンにとってはあまりにも強烈な出来事であったからという事だ。1999年と言えば、松坂大輔の1年目、宇多田ヒカル、モーニング娘。のLOVEマシーン、ナイナイの2人がそれぞれで映画出演を果たす、などで今なおかなり印象深い年のひとつであるが、この橋本小川戦はそれらのいずれよりも早い出来事だったのである。つまり、当然ではあるがそれらの出来事を体験していた頃、すでに小川橋本戦は「過去のもの」であった訳だ。にも関わらず、その記憶というのは今なお異常に鮮明なのである。

 

そして、1999年1月と言えばもうひとつの大事件、言うまでもなくジャイアント馬場の死去である。正式に発表されたのは2月1日の事ではあったものの、とにかくこの年の1月にはプロレス界を揺るがす大事件が2度も起こってしまったという訳だ。さすがに馬場の死去はそれなりの昔の出来事という印象ではあるものの、これら2大事件によって、1999年1月という月はプロレスファンにとっては一生忘れる事の出来ない瞬間となってしまった訳である。

 

前振りが長くなったが、当然私もリアルタイムでテレビ放送を見ていた。当時の1.4は当日深夜、それも12時台ぐらいの放映であったので、ビデオ録画だけではなく普通にリアルタイムでオンエアーを見ていたと思う。ただ、いつか触れたように、前年の初夏ぐらいに少しプロレスに飽きが生じてしまい、長年読み続けていた週刊プロレスの購読をとうとう辞めてしまったので、せいぜいテレビで見るぐらいになっていた。つまり、大仁田劇場はさすがに知っていたものの、それ以外の流れについてはほとんど知らなかった事になる。つまり、新日本とUFOの関係なども一切知るよしもなかったのだ。

 

なので、当日の注目は佐々木健介VS大仁田厚のみだった。結果は納得のいかないものであったが、今思うと両者の商品価値を落とさないために次に繋げるためには、ああいう結末にせざるを得なかったまあ致し方ない所であろう。そして、唐突としか思えなかった橋本小川戦であったが、流れを知らない私としては「今更これ?」という感想しかなかった。しかし、入場する小川を見て驚き、かつての面影は一切なく、まるで別人かのようなスリムな姿でそこに現れたからだ。対照的に、橋本は相変わらず不摂生としか思えないボテっとした身体である。それもあって、元々あまり好きではなかった橋本に対して、この時点ではむしろ小川の方に好印象を抱いてしまったほどだ。

 

そして、試合はご覧の通りである。一応「最強」を売りにし、当時IWGPの連続防衛記録を持っていたはずの橋本真也が、なす術もなく一方的にやられまくる姿はあまりにも弱々しく、そして格好悪くもあり、「ヒクソンVS高田」同様、プロレス最強神話の崩壊を目の当たりにしたような瞬間だった。もちろん、UFC、そしてグレイシーらが出てきた時点でそれはもはや幻想に過ぎないものと化してはいたのであるが、それでも「プロレスラーはなんでもあり(当時はMMAという言葉はなかったので、この名やバーリトゥードの方が主流だった)では別に強くもないんだ」という現実を最も見せつけられたのはこの時ではなかったかと思う。

 

もっとも、当時はまだマイナーだったPRIDEもそれなりには見ていたし、格闘技にも興味があったので、驚きこそあれ悔しさなどはほとんどなかった。むしろ、どう見ても肥満な橋本よりも、小川直也の方が格好良かったし、また明らかに強さも感じられたので、「小川つえー、かっけー」という一種の憧れさえ抱いたものだ。そして、今やあの伝説的とも言えるマイクアピール。試合前に猪木に言われた「目を覚まさせてやれ」というのがきっかけらしいのであるが、自分的には「あなたたちが最強と信じていたはずのプロレスラー、そして橋本真也は本当はこんなに弱いんですよ。いい加減目を覚ましてください」と言っているようにしか思えなかった。

 

正直、唖然とする以外はなかったものの、確かに当時崩壊寸前だった「プロレス最強神話」を今なお信じてやまなかった多くのプロレスファンには、「プロレスは実はそうではなかった」事を信じてもらうためにはそれ以外はないとも言える極上のマイクアピールであったかも知れない。

 

後日のレギュラー枠において、ほぼノーカットでも放映された。当然、ビデオに録画しておき、その後も何度も見返していったほどである。プロレスは基本「予定調和」で進行されるものではあるが、言うまでもなくかつての新日本プロレスは「そうではない」瞬間が山ほどあった。そして、今なお語られるのはやはりその手の試合である。言い換えれば、結局プロレスは事件、スキャンダルありきなのだと考えさせられるが、その手のものが一切排除された現在の新日本プロレスに、オールドファンがのめり込めないのはまあ致し方ないと言えるだろう。もちろん、それらはやってはいけないものであり、当然な事なのではあるのだが。

 

そういう訳で、新日本はしばらくの間この「橋本小川」で世間の注目をも集める事となるのだが、これは常に一般層を巻き込む事を意識していた猪木の完全な思惑通りとなった。結局、この時の貯金が大きく生きる事となり、プロレスの枠に終始した10月の再戦では、久米宏休暇の当て付けともいうべきか、なんと当日ニュースステーションにて特集が組まれるほどとなった。翌年には遂に金曜8時のゴールデン生放送特番が実現、この時も同番組で放送されたのであるが、さすがに久米宏がいる手前ではそうそう長く流せるはずもなく、終始久米宏が嫌そうな顔をしていた。

 

結局、小川の2連勝となったが、プロレス的な「次は橋本が勝つだろう」という流れを完璧に裏切ってくれたのは良かったのではないかと思う。実際、週プロの増刊にも、「橋本が勝つと八百長と思われるからこれで良かった」という意見があったほどである。私も当時はまだプロレスの内情は知らなかったので、この結末にはショックが大きかったものだ。また、時間通りに終わらず、若干放送時間が余った事もリアリティを生んでいた。

 

ただ、一時的にバブルを呼んだものの、その後新日本が暗黒時代に突入していく事を考えれば、やはりこの1.4は劇薬に過ぎなかったと思わざるを得ない。橋本に対しても、負けたら引退という茶番に付き合わされたりと、新日本とテレ朝のおもちゃにされているようで気の毒で仕方がなかった。なので、今でももし小川がプロレス界に来なかったら、橋本戦が行われていなかったらと思う事もままあるのだ。もし小川が居なければ、確実に橋本のプロレス人生も異なったものとなっていただろうし、もしかしたらあれほどの早世もなかったかも知れない。そういう意味で、今なおこの1.4という出来事は、様々な人間たちの人生を大きく変え、もしくは狂わせたものと、思わざるを得ないのだ。