初期パンクラスを語る・その2 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

パンクラスの旗揚げは、1993年9月21日、東京ベイNKホールと発表された。この会場は、プロレス界においては新生UWF、そして最も有名なものとしては武藤敬司の凱旋帰国試合の場所として知られていたが、当時は都内からだと交通の弁が悪く、集客が難しい会場としても知られていたので、この当時は新日本ですらほとんど使用していなかった。なので、何故あえてこの場所で、という疑問が拭えなかったが、要は都内近郊かつそれなりのキャパの会場はここだけしか抑える事が出来なかったのだろう。

 

その旗揚げ戦だが、トータルの試合時間がわずか13分5秒(だったと思う)で終わるという、非常にセンセーショナルなものだった。当時は週刊ゴングが増刊を発売したのだが、「秒殺の格闘技」なる見出しが掲載され、ここでその「秒殺」という言葉が誕生し、以降しばらくそれはパンクラスを代表する言葉となっていった。従来のプロレスはもちろん、いわゆるUWF系とも一線を画すスタイルだっただけに、当時の私にとっては非常に衝撃、かつ興味を注がれたものだった。

 

当時、確かパイオニアLDCがパンクラスとビデオ販売の契約を結んでおり、25分のダイジェスト版と、60分のフルバージョンの2本が旗揚げ後しばらく発売されて行ったのだが、当然13分では前者に全て収まってしまう。当然、それでは後者の存在意義がなくなってしまうので、全選手入場式の挨拶なども収録し、かろうじてメインの船木VSシャムロック戦などはダイジェストとなった。しかし、それでも大半の試合はノーカットだったので、それだけでも十分満足した覚えがある。特に、43秒程度で終わった柳澤VSバス・ルッテンの試合などは非常にインパクトがあり、これで評価を高めたルッテンはこれを足掛かりとしてMMAのレジェンドのひとりとなっていった。

 

しかし、実際ビデオの発売までにはラグがあったので、とりあえず過去でもいいから船木の試合が見てみたい、と思った私は、新生UWF最後のビデオとなった「選ばれし者たち 最後のUWF伝説」を借りてみた。ダイジェストということもあり、当然いいとこだけを集めた構成だけあって、飽きることなく何度も見返したビデオのひとつでもあったのだが、そのビデオの主役とも言える船木のあまりの格好良さに一気にファンになったものだった。それまでミル・マスカラスなどに憧れた事はあったものの、特定の日本人レスラーのファンというのはなかったので、つまり船木が初めてまともに憧れた男となった。

 

それでパンクラスの決定的なファンとなった私は、ずっと雑誌で追いかけて行った。基本的にルールや興行システムは、ほぼUWF系を踏襲して行ったので、月一興行が基本であったのだが、今考えるとガチでこの日程というのは無理がありすぎる、というものである。しかも、新生UWFのロープエスケープ15回から、5回のロストポイントというのは数こそ減ったものの、それでもKOとギブアップ以外では、単純に言えば5回極めるか、ダウンさせなければ勝敗はつかないのだ。のちに怪我人で悩まされる事となったが、今考えればそれも当然である。

 

そして、1994年1月の最初の大会は、地元神奈川の横浜文化体育館となったので、早速チケットを手配した。リングサイドが5000円だったので、それを購入したのであるが、ひな壇もモニターもなかったので、グラウンドの展開になると全く見えなかった。これにより、かなりカメラマンに対して辛辣なヤジが飛んでいたのだが、正直私たちとしてもそのヤジの印象しかないぐらい、フラストレーションの溜まる大会であった。この時の教訓から、以降は必ず2F席を選択するようになっていった。

 

ただ、カードはそれなりに豪華であり、ビデオなどで見返すのであれば見応えのある大会であったかと思う。特に、鈴木がシャムロックを下した時は非常に盛り上がったものだった。また、当時ファンに大好評だったパンクラスのTシャツは会場限定だったので、3000円と高価ながら当然購入した。また、旗揚げ戦のパンフレットもまだ売っていたので、こちらも購入していった。

 

パンクラスも新生UWF同様、全選手入場式を導入していたので、オリジナルテーマ曲が存在していたのだが、こちらはかなり早い段階に、地元のCDショップで購入した。ほぼ同時期、NHKBSでパンクラスを扱った特番も放映され、友人にお願いして録画してもらったりして、それ以降もパンクラスを注視していったのであるが、ほぼ同時期に日本の格闘技界はUFCに非常に注目しており、まだバーリトゥードという名前が主流だったのちのMMAに私も昏倒していった頃でもあった。

 

パンクラスが行った事は、非常に先進的ではあったものの、UFCがそれ以上の衝撃であったがために、話題を持っていかれたのは不幸であったかも知れない。結局、シャムロックもUFCをメインとするようになり、それがひと段落するとまるで正反対とも言えるWWEと契約していった。シャムロックのパンクラス参戦の際、まずギャラの交渉から始まったというのは船木の著書でも触れているが、今思えば世界の常識として一番金を稼げる場所に行くのはプロとして当然であるので、別に驚きもしない。当たり前のことをしただけである。

 

その1994年もパンクラスに注目して行ったが、10月になって唐突に船木VS鈴木戦という、当時の頂上対決が組まれた。基本、プロレスのようなアングルは組めないので、本当に唐突な感があったのだが、前出の著書によると、会社の資金が底をつきかけていたらしく、要はそう言う事だったらしい。年末には同じく国技館において、連続2日間によるトーナメントまで組まれた。

 

それからも、週刊プロレスの購読をやめるまで、ずっとパンクラスにも注目はしていった。ただ、集客には次第に苦戦して行ったようであり、以前アンケートに回答した事もあってか、武道館大会の優待葉書も届いたほどである。そして1996年に放送が開始された、フジテレビの深夜格闘技番組であるSRSがパンクラスをフィーチャーしていった事もあり、ビデオを買わずとも地上波で映像が見る事ができたのはありがたかった。そして、その頃は「船木誠勝のハイブリッド肉体改造法」なる著書まで発売され、Amazonがない当時は発売日に本厚木の有隣堂へと買いに行ったものである。実際、ややリスクを伴う食事療法であったらしいが、体作りに熱心だった私にとっては大いに参考になったものである。

 

同年には伝説とも言える船木VSルッテン戦も行われ、これは超満員の観客を動員、かつUWF系でありながらプロレス大賞のベストバウト候補にも上がったほどの名勝負でもあった。相変わらず船木は憧れの対象であったのだが、1998年に週刊プロレスを読むのをやめてしまうと、後の流れはほとんど分からなくなってしまった。そして2000年、ヒクソン戦に敗北した船木は一旦現役から退き、同時に私の興味はPRIDE一辺倒となってしまうのである。