その高田VSヒクソン戦が発表されたのは1997年の5月ぐらいだったような気がするが、私はそのニュースを週刊プロレスの表紙で知った時には本当に度肝を抜かれたものだった。史上最も有名な異種格闘技戦は、もちろんアントニオ猪木VSモハメド・アリにとどめをさすと思うが、正直、メイウェザーVSマクレガー戦が実現するまで、ここ30年ぐらいの間であれば最も衝撃的なカードであったかと思う。
正直、今の観点で考えればVT初挑戦の高田延彦が、ヒクソンに勝てる訳もなかったのであるが、まだプロレスの真実が公になっていない当時、本当に高田がプロレス界最強クラスと信じていたファンは多く、高田ならヒクソンに勝ってプロレス最強を証明してくれる、というファンは少なくはなかったのだ。試合自体は地上波では流れず、まだ立ち上げから1年ほどだった現スカパーがPPVによる生中継を実現したが、正直リアルタイムで放送を見れた人はごくわずかだったと思われるので、ほとんどの人はテレ東の本当にテロップのみの速報で知ったかと思う。
この時、新聞のラテ欄では「高田VSヒクソン」の名前はしっかりと掲載されていたのであるが、当然契約上映像は一切流れず、本当に写真にテロップのみ、ほとんど詐欺のような宣伝であったのだが、わずか4分47秒という、5分にも満たない時間でギブアップ負けを喫した事実は、多くのプロレスファンに大ショックを与えたものだった。週刊プロレスが増刊を出したのはもちろんであったが、当時PRIDEを主宰していたKRSなる会社?もオフィシャルな速報マガジンを出した。しかし、裏か表か忘れたが、思いっきり「プロレスが負けた」という文字がデカデカと踊っていたので、正直誰が買うか、という代物だった。当然、出版社は大赤字だったらしい。
結果、プロレス界は大ダメージを負った訳だが、同年の12月にようやくだが光明が見え始めた。言うまでもなく、UFC-Japanにおける桜庭和志の優勝である。実際は、正式なUFCのナンバリング大会ではないので、歴代のUFC優勝者には名を連ねてはおらず、さらにはタンク・アボットの棄権により2回戦とも同じ相手、という奇妙な試合でもあったとは言え、優勝は優勝だ。そして、伝説のマイクアピールである「プロレスラーは本当は強いんです!」が放たれたのがこの大会である。
この大会は、日曜深夜に日テレで録画放送されたのであるが、結果が全てな格闘技であるにも関わらず、前番組のスポーツうるぐすで思いっきり桜庭優勝のネタバレ速報がされてしまい、スタッフは格闘技の何たるかを全く理解していなかったということで、大きく興味をそがれてしまったものであったが、まさかこういう展開とは思いもよらなかったのと、そしてこの伝説のマイクアピールもあったおかげで、結果を知っていながらもうれしい気持ちで見れたものだった。
この模様は週刊プロレスでもトップで取り上げられたが、このマイクアピールに関しては「ずっと、みんなが聞きたかったセリフ」と紹介されていたかと思う。もちろん、あくまで強かったのは桜庭和志個人であって、プロレスラーが皆が皆強い訳でもないのであるが、それでも1995年以降、プロレスファンのフラストレーションは限界まで溜まっていただけに、桜庭のおかげで大分溜飲が下がったのは事実だった。ただ、それでもまさかここから桜庭が、2001年3月のシウバ戦でKOされるまで、MMA無敗、まさにプロレス界の救世主、それこそスーパーヒーロー扱いされるほどプロレスファンにとっての英雄となるとは、ほとんどの人が予想はしていなかったのではないかと思う。
ただ、私個人で言えば、1998年6月頃、次第にプロレスそのものに飽きてしまい、一旦週刊プロレスを読むのをやめてしまったのだ。一応の動機としては、新日本と全日本の中継がされる前に、週刊プロレスで結果を見てしまうと思いっきり楽しめない、という事であったので、まだ中継自体は見ていたかと思う。しかし、ネットがまだ黎明期な当時としては、プロレスは東スポか雑誌に目を通さないとほとんど情報を得る事が出来ないので、正直、これ以降に関してはほとんど記憶にもない。さすがにG1における橋本の初優勝や、大仁田厚が遂に新日本に絡み始めた事などぐらいは知っているが、それ以外の団体に関してはほとんど知る由もなかった。
そして、初戦からちょうど1年後の1998年10月11日、まさかの高田VSヒクソンの再戦が行われるが、さすがに初戦よりかは善戦したとは言え、まさかの全く同じ技である腕十字に敗北。ただ、この時点ではさすがにガチの強さとネームバリューは無関係、という事に多くの人が気づいてはいたので、初戦ほどのショックはなかったかと思う。全カードを改めて見ると、後のPRIDEに多く参戦するおなじみの選手もすでに参戦していたりするのだが、正直この時はまだプロレスラー以外は無関心であったため、アレクサンダー大塚のマルコ・ファスの勝利が一番クローズアップされていたかと思う。このおかげで、ここから1年ぐらいは、この貯金のおかげでちょっとしたアレクのプチブレイクが続いたものだった。
PRIDEが新体制になり初の興行であるPRIDE5において、桜庭はブラジリアン柔術の強豪であるビクトー・ベウフォードに圧倒する。これはリングの魂のダイジェストで見たのが最初であったが、プロレスファンにとって憎き天敵である柔術家を軽く蹂躙する桜庭に、ダイジェストながらかなりの興奮を味わったものだった。我らがヒーロー桜庭和志が、憎き柔術家を叩きのめす、それはまさに、もしかしたら我々世代が体験したことのない、まさに力道山時代の空気に等しかったのではないか、とすら思ったものだった。桜庭がローキックで蹴りまくるときなど、解説の谷川氏は「本当プロレスファンにとってはたまらないですね!」と叫んだり、ゲストの田代まさしや大槻ケンヂなどはもう「蹴っちゃえ蹴っちゃえ!」とまさに我を忘れて興奮しきりと、その試合を見たプロレスファンは全員同じ気持ちであっただろう。
そして1999年の11月、桜庭は遂にグレイシー一族の一員であるホイラーと対戦。そしてこの本によれば、この試合は本当にレフェリーストップなしのルールであったらしいので、桜庭のチキンウイングアームロックにおいて島田レフェリーが強制レフェリーストップをかけたのは契約違反だった、という事がこの本によって紹介されている。という事であれば、確かに一族らが激怒し、ヒクソンも2度とPRIDEのリングに上がる事はないのも分かる。グレイシー側の言い分としては、「主催者としては、そこで止めておけばヒクソン戦への流れが作りやすい」との事だが、確かにそこで桜庭が勝てば、次はヒクソン戦という、これはまさにプロレス的な盛り上げ方であることは間違いない。しかし、ヒクソンはその手には乗らず、コロシアム2000と契約し、船木誠勝と試合をして結局それが現役最後の試合となったのはご存じの通りである。
そして2000年5月、90分の激闘を制し、遂に桜庭はホイスに勝利、プロレスファンにとって夢の夢だったプロレスラーによるホイス・グレイシーに勝利、という現実を遂に目の当たりにすることとなる。この放送は、数日後にフジテレビで日曜昼間に録画放送されたが、あいにくビデオ録画を忘れたまま外出してしまい、リアルではしばらく映像はSRSによるダイジェスト放送でしか見ることが出来なかったのであるが、それはそれはもう前述のように、プロレスファンにとっては夢のような瞬間が訪れたようなものだった。今でも、ホリオンがタオルを投入した瞬間などは、何度も繰り返してみたくなってしまうものである。
ここで桜庭人気は頂点に達し、プロレスファンにとってのヒーロー、英雄的な存在にまで崇められるようになった。もちろん、プロレス界全体のスターで言えば、三沢光晴や武藤敬司などが遥かに「顔」的な存在なのであったが、彼らにおいてすらも、英雄やヒーローといった前置詞はつけられる事はなかったかと思う。よって、桜庭和志こそが、プロレス界唯一無二の「英雄」であったのだ。以降も、ヘンゾやハイアンを撃破するなど、遂にはグレイシーハンターの異名も付けられるようになったのだが、ホイス戦以降は正直「桜庭は勝って当たり前」みたいなイメージが浸透しすぎてしまい、若干見るほうの熱も下がっていたのは確かであったかと思う。
そして、この時期からPRIDEは、アントニオ猪木にエグゼクティブプロデューサーという肩書を与える事となる。この理由は色々あるのだが、一番納得したのがこの柳澤本であり、「猪木を取り込む事によってプロレスファンを味方につける」と言うものだった。まさにそれはその通りであり、桜庭が敗北するようになり、代わりに純粋なMMAの連中が参戦しても、我々プロレスファンが見続けていったのは、やはり猪木によるプロレスファンの取り込み、アレルギーを少なくさせたせいだから、というのは間違いなく、それがのちのDREAMや、現RIZINなどとの決定的な違いだ。
そこで何故、桜庭が負けた後でも何故我々はPRIDEを見続けたのか、という疑問がようやく解けた訳である。それでも、あれだけ外国人天国となっても、PRIDEが毎回さいたまスーパーアリーナを満員に出来たほどの人気を博した事は、今思っても異例の事であったかと思う。もちろん、それだけ面白かったのも事実ではあるのだが、まあやはり一番はプロレスファンを取り込めるような空気を作った事に尽きたのだろう。後の格闘技興行にはそれはなく、もはやそれらは「敵」という構図でしかなかった。そして、PRIDE創世記とは異なり、ミスター高橋による暴露本をきっかけとして、プロレスと格闘技が完全に別なもの、と言う認識がされた事は何よりのターニングポイントであったかと思う。
これは前にも新日本の記事でも触れたが、これによりプロレスラーが格闘技のリングに参戦する意味がゼロとなり、プロレスファンの呼び込みが完全に断たれる事となったのだ。逆に、2012年のオカダ・カズチカの凱旋、そしてブシロードによる子会社化のおかげにより、新日本プロレスはそれまでの暗黒時代が嘘のように息を吹き返し始める。皮肉にも、結果的には高橋本でダメージを受けたのはプロレス界ではなく、実は格闘技の側であった、というオチだった。
一応、現在でもそれなりに格闘技の興行は行われているようであるが、正直、大抵の人間にとっては「どっちが勝ってもどうでもいい」という認識しかないため、これではかつてのPRIDEのような熱など期待するべくもない。元々、地味すぎる寝技系格闘技でどうやって客を呼べるか、試行錯誤した結果が現在の近代プロレスな訳だから、普通に考えれば格闘技の興行で客を呼ぶのは容易ではないに決まっている。UFCのように、大男同士が対決すれば派手なKOシーンもあり得るのだろうが、日本人にそれを望むのは無理な話である。
まあ現状はそんな感じであっても、当時はPRIDEの開催日をいまかいまかと言う感じで本当に心待ちにしていたものである。極端な例でいえば、それこそ2か月に1度、かつてのドラクエのような超大作RPGが発売されるのと同じぐらいのワクワク感だったものだ。さすがの新日本プロレスでも、そうそう毎回数万人規模の会場では大会は打てないし、そう思うと、人生の中であれほどまでにひとつの大会を年に何度も心待ちにしていた時期などそうそうないので、本当に今思えばPRIDE全盛期の熱量が懐かしくてたまらないのである。