2000年の桜庭和志・その1 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

柳澤健氏の著書は、発売後比較的早く読む事が多いのであるが、これだけはしばらく手に取る事はなく、先ほどようやく読み終えた。単純に理由としては、すでに21年前とは言えどまだ記憶に鮮明なのと、この頃は私自身も桜庭とPRIDEに熱狂しており、なぜ桜庭がヒーローなりえたか、なぜ一時期とは言え、PRIDEが史上最高のMMAの舞台になりえたか、をリアルタイムで体験した私は良く理解しているからだ。

 

なので、正直今更読む事もないな、と思ってはいたのであるが、Amazonのレビューを読んでいた所次第に読みたくなってきたので、今回ようやくKindleで購入した、という訳だ。当時の時代背景についても詳細に触れられており、読んでてうんうん、と頷く所も多いのであるが、やはりパンクラスが旗揚げし、そして第1回UFCが開催されてからの90年代という時間は、少なくとも猪木の異種格闘技戦以来、男たちを熱くさせた時代ではなかったかと思う。

 

もちろん、私はパンクラスの旗揚げも雑誌で読んでおり、記事からだけでもそれまでのUWF系と比べてもある種の異質さを感じたものだった。しかし、当時は他のUWF系はもちろんの事、プロレスの真実でさえも徹底的に守られていた時代である。なので、裏事情は理解しているマスコミでさえも、パンクラスとプロレスがどう違うのかという「決定的な違い」に関しては一切触れる事が出来なかったため、秒殺試合が続くパンクラスと他の違いについて、当時の私は完全に理解する事が出来なかった。

 

その2か月後、記念すべき第1回UFCが開催され、日本でも著名なジェラルド・ゴルドーや、そしてパンクラスのトップであったケン・シャムロックが参戦していた事から、日本のマスコミでも大きく取り扱われる事になった。そこで、その二人をあっさりと撃破した謎のブラジル人柔術家であるホイス・グレイシーの名前も一気に広まる事となったのだが、当時は全くの無名であり、Royceの綴りから、最初はどこもロイス・グレイシーと報道していたほどだった。

 

ブラジルのポルトガル語において、Rはハ行の発音らしいのだが、当然一般的日本人はそんなこと知る由もないので、しばらく混同が続いたのであるが、次第にグレイシー一族の事が理解されるにしたがってホイスの表記の身になっていたと思う。そして、この第1回UFCは、一般マスコミでも報道され、私の記憶にある限りでは今なお放映している「世界まる見え!テレビ特捜部」でも紹介されたことがあった。

 

当時はMMAという言葉はもちろん、バーリ・トゥードという単語もまだ入ってきていなかったため、もっぱら「なんでもあり」という言葉が使われた。翌年の3月に2回目が開催され、これに関してはリングの魂において、鈴木みのるの解説付きで放送されたので、このあたりから一般のプロレスファンもいかにグレイシー柔術が凄いか、というのを理解していったかと思う。また、まだプロレス界は盛況だったとは言え、私自身は次第に強い男への憧れから格闘技思想が強くなっていった頃でもあったので、パンクラスを中心に、そっち側へと次第に昏倒し始めたころでもあった。

 

そして、7月にはホイス曰く、「自分の十倍強い」と言う兄のヒクソンが遂に来日し、シューティング主催のバーリ・トゥードジャパンオープンのトーナメントにあっさり優勝。このあたりから、なんでもありよりも「バーリ・トゥード」の呼称が浸透していったかと思う。私もリングの魂のダイジェストか何かで映像を見ることが出来たのだが、正直凄いとは思ったもののプロレスの脅威となるようなものだとは思わなかった。理由は簡単、見ていて面白くなかったからである。

 

彼らは彼らでプロレスを冒涜するような発言もなかったし、正直プロレス界にとっては対岸の火事的なものだった。しかし、強さを標榜するUWF系はそうもいかなかったようであり、特にプロレスこそ最強を信条としていたUWFインターは明確にグレイシーを敵とみなしていた。そして、秋になると正式に挑戦を表明、ヒットマンとして安生洋二を送り込むとまで宣言したのだ。

 

その顛末は多くを語るまでもない。週プロとゴングの表紙を飾った、衝撃なまでの安生のボコられ顔。ファンとしてはとんでもないことをしてくれた、という思いであったが、これにより両者の対決は避けられないものとなってしまった。翌年、再来日を果たしたヒクソンは、当時売り出し中のリングスの山本と対戦。ロープ掴みに苦戦するものの、ガードを振り切ったらあっさりとチョークで勝利、その後の試合も難なく制した。そして、そのシューティングの大会以外にも、ケンドー・ナガサキがVTの大会であっさり秒殺されたり、また年末には当時Uインターで干されていた田村が、K-1のリングでパトリック・スミスに勝利するなど、格闘技通信の表紙に「プロレスラーがガチンコに挑戦し始めた!」の文字が躍ったものだった。

 

当時のプロレス界と言えば、新日本VSUインターの対決で持ち切りであったのだが、格闘技から受ける衝撃と興奮は確かに新鮮なものがあったのには間違いない。ただ、UWF系はあくまでプロレスのメインストリームではないので、まだ新日本や全日本に直接的な影響はなかったのであるが、それでもVTに挑戦しては惨敗のUWF系プロレスラーに対しては、次第にフラストレーションがたまっていったものである。

 

ただ、当時はまだ純粋に格闘技ファンと言える人間の分母はまだまだ少なく、集客のためにプロレスラーが呼びよされる事は常だった。正直、プロフェッショナルの興行として見た場合、プロレスラーの力を借りなければ興行が打てない時点で完全に格闘技側の負けであるはずである。なので、その存在を無視すれば勝手に潰れていくようなものだったはずなのであるが、名誉のためか、はたまたギャラが良かったのか、何か大会がある度にプロレスラーが引っ張り出されていった。しまいには、かのバンバン・ビガロまでオクタゴンに参戦。かのキモ相手に無残なまでに素手でボコボコにされてしまっていた。

 

そんな訳で、格闘技の興行自体に関しては、まったくプロレス界において脅威ではなかったのだが、プロレスラーの度重なるVTでの敗北は、次第に最強を掲げるプロレス界にボディーブローのように効いてきた。もっとも、勝てなかったのはプロレスラーだけではなく、修斗の連中もボロ負けであり、格通の表紙に「日本最弱」と書かれるほどだったのだから、別にプロレスだけの話ではなかった。

 

しかし、その潜在的なファンの圧倒的な違いにより、他の格闘技の連中が勝とうが負けようが、ほとんどの人間にとっては「どうでもいい」問題なのだ。しかし、プロレスラーを名乗っている人間がひとりでも負ければ、「プロレスラーがまた負けた。プロレスは弱い」と徹底的に叩かれる。なので、実際にVTに挑戦した人間自体は他分野がほとんどだったのにも関わらず、プロレスラーは数人が挑戦して負けただけなのに、この1996年辺りにおいて「プロレスラーは本当は弱い」というイメージが刷り込まれてしまっていったのだ。

 

という訳で、長年プロレス、そしてU系を見てきた人間にとって、この1996年という年は非常に辛い年であったかと思う。逆に、アメリカにおいてはホーガンのヒール転向によるNWOがスタート、対するWWEは、かの3:16発言からストーンコールド・スティーブ・オースチンの人気が大爆発と、いくらUFCがまだマイナーとは言え、後の黄金期に繋がるきっかけの年でもあったのだから、日米でその様相はまるで異なっていた。


もちろん、アメリカでは初めからプロレスと格闘技を一緒くたに扱うという思想自体がゼロなので、一番の違いはそこなのであるが、やはり力道山がアメリカ人を倒すというストーリーから始まった日本のプロレス界において、どうしても強さというのは避けられない道という事なのだろう。

 

そして、翌1997年、なんの前触れもなく、突如として高田延彦VSヒクソン・グレイシーという、日本中のプロレスファンを仰天させるカードが発表されるのである。