プロレスゲームの歴史についてはすでに触れたが、やはりファイプロことファイヤープロレスリングに関しては他のプロレスゲーとは同列には語れないだろう。すでに解説したように、その歴史は1989年6月にPCエンジン用ソフトとして発売された「ファイヤープロレスリング・コンビネーションタッグ」まで遡るが、その知名度を一気に高めたのはやはり1991年12月に発売された初のSFC版「スーパーファイヤープロレスリング」に尽きるだろう。
それまでは開発者の趣味か、登場レスラーは新日本系に偏りが見られたが、このSFPWにおいてはようやく全日本のエースである三沢光晴をモデルとしたレスラーが登場するなど、ある程度はバランスが取れた構成にはなっている。
この1991年という年は、1990年に台頭し始めた闘魂三銃士や、タイガーマスクのマスクを遂に脱ぎ捨てた事に発端する三沢光晴の大活躍、と彼が率いた超世代軍らの人気が完全に定着してきた年であり、メディアなどではプロレスブームとまで煽られたほど、久々にプロレス人気が活況を迎えた年であった。
まあ、実際にはテレビ放映は新日本が土曜夕方4時、全日本に至っては日曜深夜12時半という、おおよそ一般人には目に届かない時間帯であったので、一般世間を巻き込んだブームというものではなく、かつての少年ファンが成長し、自由にお金を使えるようになったから、という点の方が大きかったのであるが、それでも1980年代からプロレスを見ていた私からしても、この年のプロレス界は非常に面白かったものだった。
また、全日本はともかく、新日本に関しては一応子供も見れる時間帯ではあったので、この時間帯でファンになった少年ファンも多かった。実際、私が通っていた塾の小学生のクラスにおいて、休み時間中に鎌固めをかけていた連中までいたほどである。この時代においても、まだプロレスごっこに精を出す子供たちは存在していた、というのが何よりの証明だ。
そんなご時世であったので、この初代SFC版ファイプロは待望の一作として迎えられ、実際のセールスは不明なもののファミ通のランキングなどでもかなり上位だった記憶があり、実際に所有していた人も多かった。
実際に私が購入したのは半年後ぐらいの事であったのだが、これ以前にこれほどまでのレスラーと、そして技が存在するプロレスゲームなど皆無であったので、それはそれは夢中になってプレイしたものである。もちろん、基本的にレスラーは顔が異なるだけであり、ボディのひな型は全員同じだ。しかし、シリーズ初の8MビットROM使用と言う事もあり、たった一人のレスラーのためだけに専用のLLサイズが用意された。それはもう一目で分かるが、全日本プロレスの御大ことジャイアント馬場をモデルとしたレスラーである。
すでに53歳を迎えていた現実の馬場であるが、ゲームの中では32文ドロップキックをはじめ往年の技が使い放題であり、全盛期の強さを見せてくれる。しかし、いかに偽名と言えど、誰がどう見てもジャイアント馬場以外の何者でもなかったので、全日本のレスラーがプレイしていたのを見ていた馬場夫人の元子さんがクレームをつけ、翌年以降削除されてしまった、と言う伝説がある。
私自身は武藤敬司のファンであったのだが、このシリーズにおいてはしばらくグレート・ムタをモチーフとしたキャラしか登場しなかったため、三沢光晴をモデルとしたレスラーばかり使用していた。技自体も破壊力のあるのが多いのと、何故か現実には使っていないムーンサルトプレスが使用出来たので、それ使いたさにしょっちゅう三沢を使用していたものだった。もちろんムタも使えたのであるが、いまひとつ破壊力のある技がなく、ゲーム映えしなかったのが大きかった。
翌年、このヒットを受けて待望の2が発売された。こちらは新たに川田利明や蝶野正洋をモチーフとしたキャラが登場するなど、かなり当時の主力の顔ぶれに近いものとなった。それでも、すでにトップの一角であった小橋健太(当時)はまだ未登場と、まだ新日本よりなテイストに感じられてしまう。そして、前述のクレームのおかげか馬場は完全に削除され、その代わりにブッチャーをモチーフとしたキャラクターが追加された。
一応、このキャラが2の売りであったかと思われるが、使っていて全然面白いレスラーではなかったので、正直出オチレベルのキャラだったと思う。それよりも、隠し扱いながら遂に素顔の武藤敬司と、そして初代タイガーマスクをモチーフとしたレスラーが登場した。特に、後者はスペース・フライングタイガードロップや、タイガースピンなども再現されており、まさにファンにとっては涙物のキャラクターだったと言える。
初代でメインだった三沢光晴も相変わらず良く使ってはいたが、さすがにムーンサルトは削除され、代わりに実際に良く使っていたダイビングボディプレス、そして一時期は代名詞的存在となったフェイスロックが遂に実装された。ただ、かのジャンボ鶴田をギブアップさせたことで一躍有名になった技であるが、ゲーム発売当時の1992年下半期はほぼギブアップを奪う事は皆無となり、ほぼ痛め技に過ぎない存在となってしまっていた。
初代に続き、この2に関してもかなりプレイしていったものであったが、さすがに同じ8Mビットでは大きな変化に乏しく、かつての初代ファミスタと87のようなバージョン違い程度のものでしかなかったと思う。そんなファイプロが、新作が出る度に目に見えて進化を遂げるようになっていったのは、次回作のIIIからとなるのだ。