ハドソン伝説を語る・その3 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

「GAMEKING 高橋名人VS毛利名人」の内容に関しては、今ではYouTubeにおいても視聴可能なので、内容に関しては多くを語る必要もないだろう。ただ、当時のインパクトは物凄く、例えて言うならそれこそ馬場VS猪木、鶴田VS藤波ぐらいのレベルではなかっただろうか。今でこそeスポーツ真っ盛りであるが、「ゲームを人前でプレイしてお金を得る」のがプロゲーマーの定義とするならば、日本における元祖は紛れもなくこの二人であろう。

 

ただ、私の記憶にある限りでは公開映画館はかなり絞られており、現在のようなシネコンも影も形もなかった頃であったので、一番近い場所であっても小田原まで行かなければ見れなかった記憶がある。当然、映画館で鑑賞する事はかなわなかったのであるが、後日になってビデオで視聴する事が出来た。やはり、高橋名人のファンの方が圧倒的に多く、自分もそのうちの一人であったので結果は残念であったが、今となっては色々大人の事情があったのであろう。

 

そんな大盛り上がりを見せた1986年の夏であったが、それが終わってもハドソンのリリースは続いた。最初のラインナップは、高橋名人を思いっきりフィーチャーしたその名もずばりの「高橋名人の冒険島」だ。オリジナルはアーケードのワンダーボーイであるが、蜜月関係のコロコロコミックはもちろん移植のいの字も触れる事はなかった。そこそこ遊べたが、のちのゲームセンターCXでも触れられたように非常に難易度が高く、当時の私ではとても太刀打ち出来なかった。

 

ほどなくして「迷宮組曲」が発売。これはタイトル画面で何故か10秒間の連射測定がついている事で、ある意味本編よりも有名なフィーチャーであったが、160どころか130を超えるのも精いっぱいで、秒間15発はいけると思っていた私は大きなショックを受けてしまった。おそらく140が最高であったかと思う。

 

ゲーム自体は良く出来ており、他のゲーム雑誌の評価もそこそこ高かったが、このゲームも御多分に漏れずかなり難易度が高く、しかも長丁場になる割にはパスワードコンティニューもないため、クリアするのは容易ではなかった。

 

そして年末には待望のドラえもんが発売。ドラえもんのゲームと言えば版権を持つエポック社かイメージが強いが、ファミコンにおけるドラえもん1作目はこのハドソン版である。当然、私も購入したものだが、これに関しては前述の2作よりもかなり難易度は抑えられており、割と容易にクリアできた気がする。

 

正直、あまりドラえもんに関する記事は記憶にないのであるが、日本を代表する漫画だけあり、コロコロコミックをはじめ小学館の学年詩も大プッシュを仕掛けたはずである。しかし、この年末は「たけしの挑戦状」をはじめ、記念すべき初代の「ファミリースタジアム」、そして年始早々には「リンクの冒険」やそして「ドラゴンクエストII」などの超大作も控えていたため、どことなくこのドラえもんはその中に埋もれてしまった感があった。

 

そして、1987年はその「ドラゴンクエストII」の大ヒットを受けて、猫も杓子もRPGという時代が訪れたために、それを得意としないハドソンには逆風となってしまった。前年の反動と、世の中の小学生にはビックリマンシールが大ブームとなっており、コロコロコミックもそちらにシフトしていった感があったため、一時はファミコン自体が下火と言われたものだ。実際、ブームから一文化を築き上げた安定期、みたいな感じではあったのだが、前年の盛り上がりがあまりにも凄すぎたため、そう言われるのも仕方なかったと言える。

 

そして、例年であれば遅くとも4月にはキャラバンの新シューティングが発表されるはずであるのだが、6月頃になっても一向にリポートがなく、対応ソフトのヘクター87が発売されたのは7月のキャラバン直前であった。しかも、前2作とは明らかに趣が異なり、連射よりもパターンと弾除けを重視される、いわばアーケードの横スクロールシューティングに近いゲーム性。さらに横縦交互スクロール。

 

まだファミコンユーザーには馴染みが薄かったが、これは明らかに沙羅曼蛇の影響である。とは言ってもそれを証明するソースがなかったのであるが、今回のハドソン伝説においてようやくはっきりした。

 

一応、私もすぐには買い、意地になって最初は自力で連射していたのだがすぐにそういうゲーム性ではない事に気づき、ヘクター用に発売された黒のジョイカードマークIIも購入した。普通ならソフト連射があって当たり前なのであるが、当時はそういう発想自体なかったのでまあ仕方がない。しかし、スターソルジャーとは正反対のゲーム性に当時の私は大苦戦、かろうじて最終ボスのヘクターまで行った事はあったもののあえなく撃沈。その後売ってしまったので、結局クリアしたのは買いなおした2001年頃の話となってしまった。

 

そして1987年10月、ドラクエIIIの記事が世間をにぎわせていた頃に発売されたのが、まさかのドラクエ式のハドソン初のコマンド式RPGである「桃太郎伝説」だ。こちらはさくまあきら氏がゲームデザインとなっているのだが、さくま氏をはじめ、榎本氏や土居氏などの当時の「ジャンプ放送局」のスタッフが大きく関わっており、これでもうコロコロコミックとの関係は終了したのかと思ってしまった。

 

のち、コロコロコミックにさくまあきら氏のインタビューが掲載されるなど、それは杞憂に終わったのであるが、それでも集英社畑の人間がコロコロコミックに登場するとは驚きであった。当時の私には、集英社と小学館が同じ一ツ橋グループに所属しているなど全く知る由もなかったのだから当然だ。

 

しかし、この1987年におけるハドソン最大の大事件と言えば、やはり10月に発売されたPCエンジンに尽きるだろう。当時は大人の事情など知る由もないので、何故ハドソンがPCEに注力しているのか全く意味不明であったが、当然その流れで、世間的には全く未知のハードであったコロコロコミックも猛プッシュを仕掛けていく事になった。そして、第一弾ソフトが、前述のように当時小学生を熱狂の渦に叩き込んだビックリマンチョコのキャラクターを使用したゲームであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、これも「ワンダーボーイモンスターランド」のキャラ替えであったのだが、当然、そんな説明は一切される事なく、当時の私たちは純粋なビックリマンのゲームだと信じ込んでいた。ビックリマンのキャラが使用されているのは主人公とお店やヒント、そしてボス程度なのでなんか怪しいな、とは思ったのだが、当然多くの少年たちはそれだけでも興味をそそられたものだった。しかし、定価がファミコンのプラスちょうど1万円の24800円では容易に手が出る代物ではなく、桃太郎伝説をスルーした事からも、以降ハドソンとは縁遠い存在となってしまったのである。