ハドソン伝説を語る・その2 | ONCE IN A LIFETIME

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フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

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初の全国キャラバンを大成功に終わらせた(と思われる)ハドソンは、スターフォース後も続々とゲームをリリースしていき、その都度当然の事ながらコロコロコミックでも特集されていった。当時はファミマガすら創刊されたばかり、その他のゲーム雑誌はかのファミ通ですらまだ影も形もないか、もしくはログインの1コーナー扱いでしかなかったので、コロコロコミックが与えた影響というのはまだまだ大きいものだったのだ。

 

その1985年度下半期で最も思い出深いのは、やはりチャレンジャーであろう。さすがにその程度の横文字の意味ぐらいは理解は出来てはいたので、なんとも雄々しいタイトルだなと思ったものだ。詳細はググっていただくとして、個人的には電車好きだった事もあって、まるで小田急ロマンスカーを模したかのような1面には胸が躍ったものだった。また、電車を再現する際には横分割スクロールを使用しているのであるが、これも当時のファミコンにおいてはなかなか高度な技術であったかと思う。少なくとも、チャレンジャー以外でここまでの分割スクロールを使用していたソフトは記憶にない。

 

ゲーム自体も難易度は比較的高いが、良く出来てはいたのでそれなりにやり込んでいった。しかし、このゲームにおいて最も忘れがたきフィーチャーはやはり1面のナイフ12発技であろう。最後のエル・ワルドラドに突き落とされる前にナイフ12発を決めれば4面にワープするという裏技なのであるが、現実的には100パーセント間に合わない。

 

この裏技を有名にしたのはかの「ファミコンロッキー」であったので、ほとんどの人たちはこの漫画特有のフィーチャーだと信じ込んでいたらしいのであるが、実はハドソン公式の攻略本的な本にもこの裏技は紹介されていたのだ。もちろん、何度やっても成功はしなかったので、現実的には諦めていたのであるが、20年近く経ったのち、チート使用で試したプレイヤーが見事に成功、本当にプログラムされていた事を証明したのだ。しかし、チートなしではやはり不可能なだけに、何故こんな仕様が仕組まれていたのかは謎である。まあプログラマーのお遊びとかそんな所であろう。

 

そして、年末のラインナップがボンバーマンとバイナリィランドである。ぶっちゃけ、両者ともそんなに面白いとは思わなかったが、前者に関しては最初からリモコンが使えるパスワード(シークレットコードと呼ばれた)あたりから盛り上がっていったかと思う。初期装備があまりにも弱すぎるために、パワーアップして無双しまくるあの快感を味わうまでにそれなりに時間を要するゲームなので、なかなかそこまでに達するハードルが当時の小学生には高いものがあったのだ。

 

そして、1986年。早々とスターフォースの続編であるスーパースターフォースなるゲームがコロコロコミック誌上で紹介された。しかし、この時点ではあくまで仮タイトルである。私の記憶では、後にテクモが同名のファミコンソフトをリリースしていく関係から、タイトルが改題されたものだとずっと信じ込んでいたのであるが、この「ハドソン伝説」によるとどうやら違うらしい。しかし、このスーパースターフォースというタイトルで発表された事自体は事実であり、私自身もはっきりと覚えている。そして、言うまでもなく後の、スターソルジャーである。

 

しかし、それと並行して発表されたソフトがあった。それが、1981年に2度目のアニメ化がなされた「忍者ハットリくん」である。当時はドラえもんをきっかけとして、藤子不二雄アニメが人気爆発していた事もあり、このタイトルへの期待値は非常に高いものがあった。最初は12月頃発売だった気がするが、延期されて3月へと変更された。後の文献によると、100万本近いかそれ以上のセールスを記録したそうである。そして、このハドソン伝説によれば、開発者は開発中に発売されたスーパーマリオブラザーズで自信喪失した云々とあるが、同じ横スクロールアクションでありながらゲーム性はかなり異なるので、個人的には忍者ハットリくんもかなり楽しめたものだった。

 

そして、それがリリースされるとあとはもうスターソルジャー一色である。当時は高橋名人の知名度が飛躍的に上昇していた頃であり、もうそれこそ高齢者や生まれたての赤ん坊以外であれば「日本人で知らない人はいない」レベルの知名度を誇っていたのではないかと思う。そんな名人はテレビに出まくり、同時にスターソルジャーも思いっきり紹介されていったものだから、それはそれは期待値が高まらないはずがない。

 

すぐにでもプレイしたくしてたまらなかったのだが、少しでもその練習になるようにと、ずっと放置していたスターフォースで練習していたものだった。その頃になるとそれなりに上達はしており、ハドソンジョイスティックも使いこなせ、連射も秒間14発ぐらいまでの痙攣うちなら出来ていたから、少なくとも仲間うちではそれなりに上手い方になっていった。それでも、ファミコン版スターフォースですら200万程度がやっとだったのだから、のちの感覚で言えば全然大したことはなかったのであるが。

 

そして、全国のロッテリアにおいて、スターソルジャーが制限時間付きながらも、発売前にプレイ出来る筐体が設置されるというイベントもあった。幸運にも、最寄りのロッテリアでもプレイが可能であったのだが、びっくりするぐらいの長蛇の列であり、プレイするまで何分も待ったものだった。

 

そして6月に遂に発売を迎え、7月には2年連続で全国キャラバンも開催。記憶にある限り、この年が一番盛り上がった年ではなかったかと思う。一応、予選を通過できるレベルぐらいまではやり込んでいったので、どうしても参加してみたかったのだが物理的に無理であり、悔しい思いをしたものだった。そんな伝説的ゲームのスターソルジャーであるが、ある程度の連射が出来ないとまともにプレイ出来る代物ではないため、かなり人を選ぶゲームであり、そのせいもあるのかセールス的にはミリオン未満だったそうである。

 

一応、救済処置としてジョイカードも発売されたが、さすがにソフトと同時に周辺機器も必須、というのは素直に受け入れがたく、さらに機器による連射は邪道というイメージもあったので、一般的になったのは翌年のヘクター87以降だったと思う。

 

そんな熱い夏であったが、もう一つスターソルジャーがらみで忘れてはならない大イベントがあった。それこそ、「GAME KING 高橋名人VS毛利名人」と称した、文字通りに両名人が対決した映画であった。