そんなプロレスゲーム冬の時代であった1989年6月、突如として現れたのが、当時ほぼ無名のメーカーであったHUMANから発売されたPCE用ソフト「ファイヤープロレスリング・コンビネーションタッグ」であった。それまで連射一辺倒であったプロレスゲームの技かけに、タイミングという要素を取り入れ、プロレスゲームの一時代を築いた大金字塔の記念すべき第一作目である。
プロレスゲームの定番中の定番シリーズであり、1990年代のプロレス好きのゲーマーであればプレイしていない人などいなかったのではないか、というほど有名なゲームであるが、正直なところ初期シリーズに関してはそれほどプレイしていた人は多くなかったと思われる。理由は単純、任天堂ハードではなくPCエンジン用ソフトとして発売されたからである。正直、当時でもなんでPCエンジン?と思ったほどであったのだが、当時はまだスーパーファミコン発売前であり、ファミコンではとても性能不足だっただけである。一応メガドライブもあったのだが、まだ発売1年弱であり、弱小メーカーにはまだ売り上げが見込めるハードではなかったので、消去法でPCエンジンしかなかったのだろう。
そして、このゲームも本物のレスラーをモチーフとしているのであるが、レスラー選択画面のアップ絵がとにかく実際のレスラーそっくりだった。今なら完全に肖像権的にアウトだろう、という感じであったのだが、当時はまだおおらかな時代だったのか、はたまたまだまだゲーム自体の知名度がまだまだだったのかは不明であるが、ひとまず問題になることはなかった。
ゲーム時のグラフィックは任天堂のプロレステイストであり、顔と色以外はあらかじめ用意された全キャラクター共通のパーツとなっている。そして、ファイプロ最大の特徴と言えたのが、ひし形に設置されたリングであり、こうする事によって全方向のロープワーク、そして全トップロープからの攻撃が可能となっている。それまでのプロレスゲームは全て正面からのアングルのみであり、これは革命的な発想であった。
翌々年、このヒットを受けてかセカンドバウトも発売される。しかし、この時点でもまだPCEのみの発売であったが、この年末に遂に初のスーパーファミコン版のファイプロ、その名もずばりな「スーパーファイヤープロレスリング」が発売される。これにより飛躍的に知名度が高まったファイプロは、1995年まで5作連続で新作がSFCでリリースされ、以降もサターンやPSでリリースされていき、プロレスゲームの黄金時代を築き上げるのだ。
また、プロレスゲームだけでなく、1990年代前半という年代は、実際のプロレス自体も非常に好調であり、多くのテレビ番組がブームと称してプロレスを取り上げる事もままあった。そのきっかけとなったのは、1988年に旗揚げした前田日明率いる新生UWFであったが、やはり良くも悪くもプロレスという存在を改めて茶の間に認知させたのは、大仁田厚の功績であっただろう。私の記憶にある限りでは、当時民放ではプロレスのレギュラー番組から最も遠ざかっていたTBSであったかと思う。それから、日テレの「元気が出るテレビ」で準レギュラー出演まで果たすなど、その知名度は一般にも広がり、すでにゴールデンタイムを撤退していた当時からすれば馬場、猪木に次ぐ知名度を誇っていた。
ただ、実際の興行成績においては、ドーム大会の成功や、武藤敬司の凱旋などもあって、新日本プロレスが他を圧倒していた。また、1980年代のプロレスブームの中心だった当時の小中学生らが、大人になり自由にお金を使えるようになったのも大きかった。そんな経緯もあり、1990年の年末に発売されたファミ通では、何の前触れもなく急遽4ページほどの特集まで組まれたほどだった。当時はSWSの旗揚げ戦はテレビで見ていたので、全日本プロレスから大量離脱が起きた事ぐらいは知っていたのだが、それ以外は新日本プロレスの中継を見る程度だったので、それで改めて当時の状況を知ったものである。
そして、そんなプロレスブームを受けて、各メーカーからもこぞってプロレスゲームが発売される事となった。そこでの新たな流れは、団体と専属契約を結ぶ事による実名レスラーの使用である。新日本、全日本はもちろんの事、FMWやWAR、そしてリングスやパンクラス、さらにはUWFインターナショナルまで発売されるほどであったのだが、実際まともに遊べたのは全日本プロレスぐらいであったと思う。
しかし、プロレスゲームの醍醐味と言えば、馬場VS猪木、鶴田VS前田など、実際のリングではまず実現不可能な夢のカードが組める事である。当然、実名である以上大きな制約がかかるため、結局その点でもファイプロにはかなわなかった。
そんなファイプロは、まさにプロレスゲームの「絶対王者」として君臨し続けていった訳だが、時代がPS・SS世代となると次第に事情が変化してきた。3Dポリゴン全盛の時代になると、やはりその2Dグラフィックは時代遅れとして映ってしまったのだ。1995年にSFCでファイプロXが発売されると、翌年はセガサターンから発売されたのだが、すでに3Dに慣れ切った私としてはどうしても馴染む事が出来ず、あれほど熱中したはずのゲームであったのにあっさりと売却してしまったのだ。
それに代わって家庭用でヒットしていたのが、PSの新日本プロレス公認ゲームであった「闘魂烈伝」だ。初代はかなりしょぼい出来であったのだが、それでも武藤のフラッシングエルボーなどがほとんど本物同然に再現されているのには目を見張った。そして、翌年の2では大幅なグラフィック向上を果たし、そして遂にアントニオ猪木が実名で登場を果たした。当時、すでに猪木抜きでもドーム大会は成功させていたので、引退カウントダウン中という事もあって、リングから存在感は薄まっていったのであるが、それでも知名度では別格だけあり、CMでは猪木ばかりがクローズアップされていたものだった。
このシリーズはPSでは3まで続き、最終の4はドリームキャストで発売されたが、個人的には2が最もプレイしていったと思う。3は一部を除いて入場曲まで再現、と言った凝りようであったのだが、ゲーム性自体は変わり映えしなかったため、あまり熱中した記憶はない。4も同様であり、まるで進化していないゲームシステムは、飽きるのも早くこちらはシリーズで初めて売却してしまったほどだった。
そんな新日本プロレスの闘魂烈伝とは対照的に、ゲーマーの評価が高かったのはライバル団体である全日本プロレスだ。PSに対抗するかのように、初代のフィーチャリング・バーチャが1997年に発売されたが、格ゲーテイストな操作性に関しては賛否両論あったものの、単純にゲームとしては非常に面白く出来ていた。ポリゴンの弱いSSであっただけに、見栄え自体は闘魂烈伝に大きく劣り、またシングルマッチオンリーでもあったものの、60フレームの動作、かつVAPが版権を持っている曲は入場曲として流れるなど、ゲーマーの評価はかなり高かった作品である。
その流れを汲み、DCにおいてはジャイアントグラムと称した2作が発売された。2作目の発売直前に全日本プロレスから三沢光晴が独立し、ノアを旗揚げするという大事件が勃発したものの、無事発売、さらには鶴田や力道山などのレジェンドレスラーまでもが登場し、私の知る限り、ファイプロ以外のプロレスゲームとしては最高傑作のひとつではないかと思う。
その後、日本のプロレスが格闘技に押され、特に新日本プロレスが長きに渡る暗黒期に突入してしまった事もあって、一時期プロレスゲームの開発はかなり途絶えてしまった。しかし、海外では元気であり、日本ではエキサイティングプロレスと称したWWEのゲームが毎年と言っていいほどリリースされ、今なお定番中の定番である。そして、日本においても新日本プロレス公認で、遂にファイプロが復活を果たしたものの、当然ながら新日本プロレス所属以外の選手は出せないため、初期のようなフリーダムさは皆無なのが残念だ。
ファイプロ以降は駆け足で語ってきてしまったが、やはりプロレスゲームとして真っ先に思い浮かべるのは今でもファイプロである。それほど、ファイプロがゲーム史に残してきた功績は偉大なものだった。