プロレスゲームの歴史・その1 | ONCE IN A LIFETIME

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フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

プロレスとゲームというのは非常に親和性が高く、アーケードゲームの黎明期である1980年代前半から存在していた。しかし、その時代はさすがにリアルタイムでは語れないので、何が元祖なのかは検索でもしなければ分からないのであるが、パイオニアとして認知されているのはおそらくデータイーストの「ザ・ビッグプロレスリング」あたりではないかと思われる。

 

家庭用初、というかファミコン初のプロレスゲームはバンダイの「キン肉マン・マッスルタッグマッチ」とされる。しかし、これはあくまでも「キン肉マン」のゲーム化であり、正直なところ自分としては初代プロレスゲーム、とは認めたくはないところだ。確かに、キン肉マンの漫画自体プロレスを元にしているので、それは決して間違いではなく、ゲーム自体の舞台もリングそのままなので、プロレスと言えばプロレスである。しかし、プロレスゲームというにはあまりにもお粗末、「ドラゴンボール・大魔王復活」をリリースするまでクソゲーのオンパレードだったバンダイの事、「キン肉マン」のネームバリューがなければとっくに歴史の渦に消え去っていた作品である。

 

一応内容に触れておくと、とりあえずブロッケンJr.の毒ガス攻撃がチート並に強力すぎ、これに尽きるだろう。当然、今の倫理観ではブロッケンJr.のキャラクター自体ギリギリだし、事実当時でもナチスを想起させるものは完全タブーな欧米において、ブロッケンの存在自体は完全に「なかったこと」にされている。

 

なので、個人的にファミコンプロレスゲームの元祖と言えるのは、ゲーム名もそのままな「タッグチームプロレスリング」である。発売元はナムコであるが、実際は前述の「ザ・ビッグプロレスリング」の移植である。アクション系なプロレスゲームとしては珍しく、まずパンチを当てると技表が出現し、それをBボタンで切り替えて好きな技をかける、というこのゲームしかないシステムだ。もちろん、あとの技になるほど威力が倍増され、特に必殺技となるとダメージは一気に減る。

 

なかなか面白いのだが、プロレスゲームというのは「技をかけるモーション」だけでなく、「技をかけられるモーション」の2つを用意しなくてはならないため、普通のアクションゲームよりも遥かに容量が必要となるので、当時としては全く足りなかった。という訳で、何と登場レスラーは4人だけ、さらにタッグマッチであるため同じチームとの試合を延々とエンドレスで繰り返していくだけである。味方である1P側は、当時日本一の人気レスラーだった長州力と、当時はカルガリー・ハリケーンズとして全日本プロレスに参戦していたスーパー・ストロング・マシーンをモチーフとしたキャラだった。

 

今の人は信じられないかもしれないが、当時のプロレス番組はゴールデンタイムで放送されており、馬場・猪木は別格としても、長州力や藤波辰爾らも国民的な知名度を誇っていたレスラーだったのだ。特に長州力は飛ぶ鳥を落とす勢いであり、日本一の人気レスラーであった事は間違いない。ここ数年、急激にテレビに出るようになり、Twitterのフォロワーも50万人を超えるなど若い人にも知名度が高い長州力であるが、それもその当時の威光があるからこそである。これはライバルであった天龍源一郎にも言えるだろう。若い人はお笑いのイメージが強いのだろうが、実際は本当に凄い人たちだったのである。

 

そして同年10月、遂にはあの任天堂までディスクシステムでプロレスゲームをリリースする。その名もずばり、他のスポーツシリーズ同様「プロレス」である。プロレスラーは全員オリジナルであるが、やはりカバーを飾り、最初に選択出来るレスラーは顎が長い日本人、そう、日本プロレス史上最高のプロレスラーであるアントニオ猪木その人である。

 

開発は後にファイプロを開発するヒューマンのスタッフだったらしいが、このプロレスの時点でそのオリジナル性が垣間見える。レスラーの体形は全員同じであり、基本頭と色が異なるだけ、こうやって技のバリエーションを増やしている。それでも技数は12種類程度であるのだが、ブレーンバスターがマニアックな事に、ディック・マードックばりの元祖ブレーンバスターなフォルムであり、これはマニアをニヤッとさせる。

 

2周すると、グレート・プーマという謎のレスラーと統一王座を賭けて闘う。こいつはCPU専用キャラであり、これしか使えないジャンピング・ネックブリーカードロップを使ってくる。言うまでもなく、かのジャイアント馬場が3度NWA王座を獲得した時のフィニッシュである。まさに王者に相応しい技であり、いくらまだまだプロレスファンが多かった1980年代とは言え、ファンをニヤリとさせすぎだろう。

 

これ以降、ドラクエの影響もありファミコンはRPGの流れになり、またプロレス自体がゴールデンタイム撤退となり冬の時代を迎えてしまう。よって、ここで一旦ファミコンにおけるプロレスゲームの開発は凍結されてしまうのだ。よって、2年間ほどリリースがなくなるのだが、1989年になるとテクモから「激闘プロレス」と、ポニーキャニオンから「スーパースタープロレスリング」なるゲームが久々にリリースされる。しかし、当時はプロレスを見る余裕がなかったため、いずれの作品もファミ通で見る程度だった。しかし、このどちらのゲームにも「アントニオ猪木的」なキャラクターがいるのはさすがである。因みに、実際の猪木は1989年7月の参議院議員選挙に滑り込みで当選したため、プロレスの世界からはセミリタイヤし、ここから新時代を迎えていくのだ。