ドリームキャストを語る。 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

1998年春、相変わらず絶好調だったPSに対して、SSの市場はほぼ消えかけていた。そんな折、セガから新ハードの発表の噂が絶えなかったが、そんな時に満を持して登場したのがこの「ドリームキャスト」である。当時の最高峰レベルの基板であった、モデル3を軽く移植できるレベルのグラフィックには目を見張ったものであったが、正直そのニュースを雑誌で拝見した私も、これではSCEのシェアは崩せないだろう、と予感はしていた。

 

実際、セガ内部からもその予感はあったようであり、案の定まるでSCEと任天堂にはかなう事なく市場から姿を消していった。その要因としては、まずはその奇抜なコントローラーが挙げられた。アーケードの移植なしでは成り立たないセガハードであるにも関わらず、LRボタンが完全アナログ入力のみという、完全に格ゲーの移植を放棄したかのようなその形状には目を疑ったものだった。現在のPS4やXboxのコントローラーのLRがデジタルとアナログそれぞれついており、特に後者はDCを思い起こさせるものであるために、考え方としては間違ってはいなかったと思われるので、もうひと捻りが欲しかったものだ。

 

そして、DCでは「ビジュアルメモリ」という、液晶画面つきのメモリーカードをコントローラーに刺してプレイするのだが、当然重量がかさむ。さらに、ボタン電池の持ちが非常に悪く、ほぼ1ヵ月しか持たない。セーブデータはフラッシュメモリなので影響はないのであるが、何かある度に電池切れを知らせるピー音が鳴るので、気になる人は気になったであろう。そして、メモリーカード自体の容量も初代PSとは大差なく、私のお気に入りだった「プロ野球チームをつくろう!」などではほぼ丸々全部使ってしまう。それでいて安い代物でもなかったので、そうそう買い足す事も出来なかった。

 

しばらくすると、サイバーガジェットなどから8個分の容量を持つ非公式メモカも発売されたが、一部ゲームには非対応だったりした。一応、ボタンに関しては格ゲー用に、本体と同時にセガ純正アケコンも発売されたが、見た目的にはよさげなものの、操作性が史上最悪レベルでありまともに使える代物ではなかった。現在のアケコン市場を考えた場合、5800円程度ではまともな代物は作れるはずもなかったのであるが、当時はアケコンに1万円など考えられない時代であったため、ギリギリのところで妥協せざるを得なかったのであろう。

 

そんな踏んだり蹴ったりのハードであったが、それでもセガ必死のプロモーションにより、一般層にもその存在をアピールする事は成功した。しかし、需要に対し、十分な供給が出来ないという、いかにもセガらしい失敗をやらかしてしまい、ローンチでいきなりつまずいてしまう。結局、半年後に無理な値引きもたたり、これが結果的に後にセガを倒産寸前まで追い込んでしまう最大の要因となってしまった。

 

そんないわくつきのDCであったが、当時の家庭用ハードでは唯一デフォルトでネットに接続できる、というのが最大の売りだった。しかも、当初はプロバイダ料金すら無料、途中から月2000円となったが、それでも一般的な契約よりかは安い。まあその代わり、アナログモデムの従量課金制であったので、サイトを読み込んだら回線を切る、などの工夫は必要であったものの、当時としては最も手軽にネットに接続出来る手段であったのだ。そういう訳で、私もすでに完全に下降線に入っていた時の2000年6月に、ほぼそれ目当てだけで購入した。

 

そして、メガドライブとPCエンジンの一部のゲームがダウンロード購入可能、という「ドリームライブラリ」なるサービスも行っていた。つまり、モデムの搭載も、現在では当たり前のDL販売の先鞭をつけたのは、何を隠そうこのDCが世界で初めての家庭用コンソールであったのだ。しかし、当然HDDなど搭載していないDC、起動する度にダウンロード必須、しかも日数制限もありと、実用するにはかなり苦しく、この点でも相変わらず時代を先取りしすぎているセガらしさと言えた。結局、割とすぐに打ち切りとなってしまった記憶があるが、未だに移植がされていない「マジカルチェイス」もラインナップにあったので、そういう意味では貴重だった。因みに、グラフィックこそそのままとは言え、BGMは簡易化されていた。

 

そんなDCをネットに接続させるためには、付属の「ドリームパスポート」なる専用ディスクが必要だった。私の時には2であり、最終的にはプレミアまで行ったと思う。どう違うのかは分からないが、当然PC専用のファイルなどは開けるわけもないので、バージョンによる違いなどは大した事はないだろう。

 

それでも、大体のサイトは見れた。解像度は640x480程度であったと思うので、大体かつてのPC98シリーズと同等、もちろん当時のPCよりかは粗かった。しかし、当時はまだCRTも存在していた頃であり、PCでも決して高解像度、というほどでもなかったとは思う。キーボードは当然別売りなので、当初はコントローラーで文字入力をしていたものだが、当然煩わしい事この上なかった。しばらくしてキーボードを入手出来たのだが、当然ブラインドタッチは出来ないので、しばらくはキーを見ながらプレイしていたものだった。それでも十分文字は打てたのであるが、店頭でエヴァンゲリオンのタイピングゲームをプレイした事をきっかけとして、タイピングオブザデッドを購入した。これでタッチタイピングを習得したので、のちPCを購入した時は全くタイピングに苦労しなかったものである。

 

因みに、当時はまだネットショッピングなどは普及前であったので、これらの製品は全て自らの足で探し当てたものである。ソフトはともかく、周辺機器ともなれば置いてない店も多いので、その労力は今とは比較にならない。しかも、需要が少なく、さらに箱がかさばるアケコンなどは基本店としては在庫にしたくないので、なおさら探すのが難しかったものである。まあ、そういう割にはどこで購入したのかもあまり覚えてはいないのであるが、キーボードは運よく中古で買えたと思う。

 

そのように、ここから私のネットライフがスタートした訳であり、そういう部分で言うとDCはかなり活躍してくれたものである。ソフトのラインナップが弱かった、とは言われたが、知名度に劣るだけで内容は決してクソゲーばかりでもない。個人的には、前述した「プロ野球チームをつくろう!」とその続編、「全日本プロレスジャイアントグラム2」などはかなり楽しめた部類であった。ただ、当時は非公式のRGBケーブルで接続していたのであるが、高解像度のDCではあまり相性が良くなかったのと、さらに非対応のゲームも多かった。それにはS端子、もしくはVGA接続するしかなかったのだが、前者は粗く、後者はゲームにはドットが目立ちすぎていまいちと、その辺りもDCは弱かった。

 

しかし、一番は何といってもPS2発表までに、十分なハードの供給が出来なかった事だろう。これが後々尾を引いてしまい、結果的にDVDプレイヤーまで搭載していたPS2という巨人には全く歯が立たないままであった。結局、2001年には、ハード供給を断念かつDC製造中止、その結果9900円という投げやりな値段で在庫処分を図るに至ってしまった。

 

これで息の根が止まったはずであるが、ソフトの供給はまだ続いていた。そして2002年9月、NAOMI基板を使用した伝説のシューティングである「斑鳩」が遂にDCに登場。「レイディアントシルバーガン」の反省を活かし、DCユーザーはこぞって発売日に購入、記憶にある限りでは驚異の3万本セールスを記録していたかと思う。互換基板とは言え、高解像度を活かしたその移植は素晴らしく、今見ても全く見劣りのしないグラフィックはただただ美しいの一言。他ゲームとのあまりのレベルの違いに、「これがDCなのか?」と驚嘆したものである。

 

そして、先代SNKが倒産前に最後にリリースしたのも、DC用の「餓狼MOW」であった。ネオジオの移植など楽勝レベルであったとは言え、BGMが圧縮前のCDクオリティであるので、その点は現行のPS4版などと比べても優れている。

 

また、MIL-CDなる規格も搭載されていたのだが、全く普及しなかった。その代わり、これに対応している本体はエミュレータを焼いたCD-Rを起動させる事が出来る。せいぜい、1980年代前半のアーケードゲーム程度しか動かず実用的とは言えなかったのだが、この分野に関しても家庭用としては先鞭をつけたと言える。その他に秋葉原ではBleem!というPS用ソフトのエミュレータも売られており、実際に私も鉄拳3などを起動し、初代PSよりもはるかに綺麗に映るポリゴンには驚いたものだった。

 

こうして今振り返ると、寿命は短かったながらもそこそこ思い出が詰まったハードだったな、と言える。家庭用でネットとDL販売がノーマルになったのはPS3以降であったので、それよりも8年早かったDCはやはり時代を先取りしすぎていたと思わざるを得ない。まさに、「Dreamcast」の名前の通り、未来への夢が詰まったハードだった。