士、別れて三日、刮目して相対せよ。 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

かつて、初代タイガーマスクである佐山聡が引退後、新日本プロレスの若手時代から常に理想としていた「総合格闘技」を具現化するために、「スーパータイガージム」という格闘技ジムを開いた。それはもちろん、プロレスとは一線を画したものであったのだが、日本全土に大ブームを巻き起こした初代タイガーマスクこと佐山聡が開いた道場、という事で、初期の入門者はプロレスファンと志望者が圧倒的だったと言う。

 

それは至極当然の話ではあるが、前述のように佐山聡が理想としたものは決してプロレスではなく、かつては彼が憧れ、しかも誕生日まで一緒というブルース・リーが「燃えよドラゴン」の冒頭シーンで、彼が独自で開発したオープンフィンガーグローブを装着し、サモ・ハン・キンポーと闘った時のような打・投・極の総合格闘技である。全く新しい事を始める以上、佐山聡としてはどうしても過去のイメージを払拭せざるを得なかった。そこでどうしたか、それはプロレスそのものの徹底的な否定である。

 

その代表的な例が、かの「ケーフェイ」である。タイトルだけならなんのことやら意味不明であるのだが、簡単に言えば暴露本である。最もタブーとされる「プロレスの勝敗」までには踏み込んではいなかったようであるが、それでも当時としてはかなりギリギリまで触れた内容であった。ただ、まだまだ小学生の間でもプロレスごっこが流行っていた当時、「プロレス技は相手の協力がないと決してかからない」というのは自然と理解出来た事であったので、いわゆる勝敗云々はともかく、さすがに子供心にも「これはくさいな」ぐらいは思っていた。普通に考えて、ブレーンバスターをかけるとき、100キロ以上ある人間があんなタイツを軽く掴んだだけで綺麗に持ち上がる訳もないのだ。そのぐらいはバカでも分かる事だろう。

 

結局、全てのプロレスマスコミは黙殺し、私もその存在を知ったのはかなり後の事であったのであるが、その後も佐山聡は事ある事にプロレスを否定し、さらには彼を一躍スーパースターに押し上げた初代タイガーマスク時代の事でさえも、「生き恥」「虎の仮面を被ったピエロ」とその存在すらも抹消しようとしていた。

 

当然、シューティングに専念した事もあって、プロレス関係のイベントにはほとんど顔を出さなかった。一度、梶原一騎の追悼興行で、当時2代目タイガーマスクであった三沢光晴と絡んだ事はあったようだが、知られている限りではそのぐらいだろう。もう2度とプロレス界に関わる事はないと思われたのだが、1994年3月、新日本のオファーを受けた彼は実に11年ぶりに新日本プロレスのリングに登場し、同年5月には福岡ドームで獣神サンダーライガーとのエキシビションを行う。

 

タイガーマスクの姿で現れるのでは、と噂もされたが、実際は素顔でOFG、そして全身シューティングスーツの完全修斗スタイルであった。当然、プロレス技など一切なく、本当にシューティングのスパーリングスタイルに終始した。さすがのライガーも大人の対応をしたが、完全にライガーの持ち味を殺した内容に周辺からは非難轟々であった。しかも、数日後の修斗の大会において、「先日福岡ドームにて試合、いや芝居をしてきました」と言い放つ始末。当然、全プロレス関係者は激怒、2度とプロレスに関わる事はないと思われた。

 

しかし、その予想に反し、1995年12月の猪木フェスティバルにおいて小林邦昭と久々の対戦、しかラウンド制とは言え内容は完全なプロレススタイルと、それは往年のファンを狂気させるのには十分すぎるほどの内容だったのだ。これより3ヶ月ほど前、小林邦昭がMMAの大会において佐山聡とエキシビションを行った際、佐山が誤ってKOさせてしまった事への詫びとされたが、これにより本格的にプロレス復帰となる。

 

結局、メインである格闘技を続けながらプロレスも、という2足のわらじ状態ではあるものの、以降の活躍を見ての通り三度のプロレス復帰となった。以前の発言はなんだったのか、と思わざるを得ないのであるが、おそらく本人的には格闘技でそれなりの地位を築き、初代タイガーマスクの佐山聡ではなく、シューティング創始者としての佐山聡、と言う認知を築き上げる事が出来た達成感みたいなものがあったからだと思う。

 

なので、まだ世間知らずであった私としては、結果的にプロレスに戻るのなら、過去の言動や振る舞いはなんだったんだ?と疑問と憤りを覚えずにはいられなかったのであるが、今にして思えばその気持ちは分かりすぎるほど分かる。とにかく、一度固定されたイメージがついてしまうと、それを周りから払拭させるというのは大変難しく、時間がかかる事であり、ならどうするのが手っ取り早いのかと言うと、ではとにかく以前の自分を否定し、そして非難するしかないのだ。

 

なぜそれが分かるのか、と言うと、詳しくは言及できないものの、この私自身も同じような経験があるからだ。自分が好きでやっている事ならともかく、上から言われてやらされていただけなのに、それが自分の代名詞かのようなイメージづけされるのはたまったものではない。ならどうすれば良いのか、と考えたらとにかく否定、非難する以外はなかったのだ。佐山聡自身も、別にタイガーマスクがやりたかった訳ではなく、猪木と新間寿の命令で仕方なくマスクを被っただけの事である。しかも、UKで大人気を得ていた佐山聡は、強引に帰国させられた上、なおかつ1試合だけ、と言う話だったのが、予想以上の大反響を生んでしまい、本人との気持ちとは裏腹に続けざるを得なかったのだから、余計に過去を否定したくなる気持ちは本当によく分かる。

 

また、1990年代前半頃は、プロレス界においてもUWF系のような真剣勝負的なスタイルが持て囃され、私自身もそれに昏倒していた事があった。そんな頃、スーパーファイヤープロレスリングIIIの攻略本において、スーパー・タイガーをモチーフとしたキャラクターの解説に「俺がやりたい事は、こんな見せ物じゃない。本物の格闘技がやりたいんだ」という佐山聡の心情を綴ったような解説があったのだが、プロレスを否定している文章ながら私でもカッコいいな、と思ったほどだった。

 

で、そのUWFとファンの心情も、かつての佐山聡に近いものがあった。UWFスタイルはあくまでプロレスの範疇内のものであったが、そのスタイルは通常のプロレスとは一線を画しており、初めてプロレスのリングでMMAに近いものが行われたスタイルであった。当然、彼らとそのファンたちは、「これは従来のプロレスとは違うものだ」という誇りと自負があったのであるが、プロレスとつく以上世間は決してそう見ない。そこでどうしたか、当然過去のプロレスの否定である。

 

まず、エースである前田日明自身が、格闘技通信の表紙において「プロレスという名前が嫌いな人、この指に止まれ」というフレーズと共に登場する。おそらく初代週刊プロレス編集長のアイデアとされているが、今なお語り継がれるほど、ショッキングかつ関係者の怒りを買ったフレーズであった。その後、新生UWFが旗揚げし、大成功を収めると今度はファンが選民思想化し、当然の事ながら従来のプロレスを否定、UWFこそ本物のスタイルと称賛していった。

 

新生UWFはリアルタイムでは経験していないものの、その後のUWF分裂〜MMAの襲来の流れはリアルで経験しているので、後追いながらもこの辺りのファンの心情は実に良く理解出来る。従来のプロレスしかイメージがなく、見下しているような人間に対し、UWFの映像を見せ、「お前らにこの高度な関節技の応酬は理解出来るのか?」的な、今で言えばマウントを取るような行動は当時よくあった事である。

 

で、結局何が言いたいかと言えば、「物事や人を同じ先入観でいつまで見るな」と言う事だ。これを最も表した有名な故事として、かの三国志の呂蒙による「士別れて三日、刮目して相対せよ」というのが挙げられる。当時、これは横山光輝三国志の解説本によって知ったのであるが、要は人間は日々進歩していくのだから、ひとりの人間をいつまでも同じ先入観で見るな、と言う事だ。前述したように、私自身このように見られた経験が山ほどあるので、その度にいつもこの故事を思い浮かべるのだ。当然、この文章はそのようないつまでも先入観に捉われる人間を否定、頭の悪い人間と非難しているものであり、決してそう言う愚かな人間になるな、という戒めでもある。