月曜夜の戦争 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

これまで私が見たWWE関係のドキュメンタリーにおいて、最も面白かったのがマンデーナイトウォーズ(Monday Night Wars)、つまりは「月曜夜の戦争」である。これだけならなの事やら意味不明だと思うが、簡潔に言えば月曜日プライムタイムにおける、WWEと、当時存在したWCWというアメリカの2大団体による視聴率争いの事である。

 

今の若い人たちには想像もつかないだろうが、かつては日本においてもプロレス団体が民放の看板番組だった時代があり、ライバル局による視聴率争いが苛烈を極めた時代があった。簡単に言えば、アントニオ猪木率いたテレ朝の新日本プロレスと、ジャイアント馬場が創設した日テレの全日本プロレスの2大団体の争いだ。両者は真裏になった事はないものの、かつて、力道山時代の日本プロレスが金曜夜8時に放映され、馬場・猪木時代になっても視聴率が常に30%をキープしていた事から、「金曜8時はプロレスの時間」というのが完全に日本国民に浸透していた時代があった。

 

これ以降はWikipediaでも読んでいただければわかると思うので割愛するが、1980年代前半まで、そんな因縁もあり金曜夜8時は各局とも看板番組をぶつけ、日テレは太陽にほえろ!、TBSの金八先生、そしてテレ朝のワールドプロレスリングの三つ巴の様相を呈していたのだ。当然、ひとつ蚊帳の外であったのはフジテレビであり、この時間は魔の時間帯と呼ばれ、記憶にある限り黄金期でさえも金曜8時はこれと言ったヒット番組はなかったと記憶している。

 

で、本題のアメリカにおける月曜夜の戦争である。内容自体はググれば色々出てくると思うので、ここでは私がリアルタイムで体験した事を綴っていこう。1980年代前半のWWEの全米侵攻により、PPVの効果もあって当時のアメリカのプロレス事情は完全にWWEが制圧した形となっていた。前にも触れたよう、新日本との提携は1985年6月に打ち切られたので、以降WWEの試合が日本の電波に乗ることはほぼ皆無であったが、その代わりにビデオリリースが活発となっていき、どこのレンタルビデオ店にもレッスルマニアやサマースラムのビデオが置いてあったものだった。

 

それから1990年4月に日米レスリングサミットを開催すると、SWSと提携しビッグマッチに看板選手を派遣、団体が崩壊すると再び単独での進出を虎視眈々と狙い、そして遂に1994年5月にマニア・ツアーを開催した。しかし、前にも触れたように、当時のプロレス界はマニアだけの閉ざされた世界になりつつあり、さらにほとんどのファンは日本のプロレスこそ世界一、アメリカのプロレスなど所詮ショー、と見下す輩がほとんどであったので、案の定ツアーは閑古鳥の嵐で大失敗に終わった。

 

そもそも、長年の看板であったハルク・ホーガンなしで成功するはずもないのであるが、どういう事情かWWEは自信満々だったと言う。さすがの総帥・ビンス・マクマホン(正式な発音はヴィンス・マクマーンであるが、ここは日本の一般的表記に従う)もこれには余程のダメージを受けたか、秋に予定されていたと言われる第二弾も中止となり、ビデオリリースも凍結され、日本におけるアメプロ需要は皆無となった。

 

そこから情報はほぼ雑誌の数ページに限られるようになっていったのだが、この前年である1993年1月に、記念すべき今も続く月曜夜の生中継、WWE・RAWの放映が開始される。この時代、すでにWCWとの2団体時代に入っており、こちらは新日本と提携していた事もあって日本のファンにも馴染みが深かったのであるが、現地の人気ではまるでWWEに歯が立たず、常に後塵を拝する形となっていた。そんな1995年のある日、TBSの総帥であるテッド・ターナーが、当時団体をプロモートしていたエリック・ビショフに「どうしたらWWEに勝てるのか?」と尋ねる。そこでのエリックは、ダメ元で「じゃあ月曜夜の枠をくれ」とお願いした所あっさり了承され、そして、1995年9月、本当にRAWの真裏においてWCWの生中継が開始されたのだ。しかも、RAWに対してMonday Nitroという、当てつけのような番組名までつけられて。

 

最初はビンスも、そして数字的にも相手にならなかったのだが、豊富な資金力において引き抜き攻勢を仕掛け始めて以降、徐々にではあるが形成は逆転していく。そして1996年7月のPPV、Bash at the Beachにおいて、ハルク・ホーガンがスコット・ホールとケビン・ナッシュのジ・アウトサイダーズに加担し、まさかのヒール転向を果たし、ここでかのNew World OrderことNWOの結成を宣言したのだ。

 

これは当時、週刊プロレスで読んで知ったのだが、「ハルク・ホーガン=アメプロの絶対的象徴でありアメリカンヒーロー」という認識が絶対だった世界中のプロレスファンにとっては大変な衝撃であり、WCWに興味を抱かせるのには十分すぎるほどの大事件であったのだ。この1ヶ月ほど前、ストーンコールド・スティーブ・オースチンによる例の3:16発言があり、そこで大ブレイクを果たしたのであるが、少なくとも日本においてはホーガンのヒールターンの衝撃には及ぶべくもなく、ここからWCWが一気呵成を仕掛け、徐々にWWEの経営をも圧迫していくようになるのだ。

 

この年はアメリカのみでストーリーが展開されていったのであるが、このWCWとNWOのアングル自体、エリック・ビショフが新日本の対UWFインターを参考にしただけあって、1997年以降遂に新日本もNWOとのアングルに参加するようになる。その筆頭が、かの蝶野正洋であり、それまでの狼軍団とされた連中とNWOジャパンの結成を宣言、自身も遂にWCWのリングへの登場を果たした。正直、リアルで雑誌を読んでいた私としては、アメリカのスケールの大きさに比べると、日本のそれは何ともショボく感じ、また遂に大ボスのハルク・ホーガンの参戦は皆無に終わり、日本に来るのは下っ端のマーカス・バグウェル程度であったので、個人的にはあまり乗れなかったのであるが、経済効果は抜群であり、ドームツアーの効果もあって新日本は旗揚げ以来の最高益を記録する事となった。

 

また、忘れてはならないのが彼らが着ていたNWOTシャツが大ヒット、それまでプロレスのTシャツなど街では恥ずかしくて着れないものばかりであったのだが、これに関してはそのデザインの良さもあって今だに街で見かける事があるぐらいである。社会現象、と報じたメディアもあったのだが、さすがにそこまではいっておらず、あくまでプロレス村の中で盛り上がっていただけである。

 

私自身はどうだったかと言えば、毎週週刊プロレスでアメプロの情報は得ていたものの、やはりどう見てもWCWの方が面白く、掲載順もWWEより前だった気もする。のち、蝶野や武藤が出てからまもなく、NWOの1年半の総集編的ビデオも発売されレンタルしてみたのであるが、これも何度も見返したほど面白く、久々にアメプロに夢中になったものだった。

 

実際、この時期はアメリカでもWCWが圧倒し、結果的に84週連続でWWEを上回ったそうである。これがWWEの経営を圧迫し、高級取りであったヒットマン・ブレット・ハートの放出が決定、これがかのモントリオール事件の伏線となっていったのであるが、WCWばかりみていた自分としてはほとんど記憶にない事件だった。つまり、日本のファンからしてもアメプロイコールWCW、NWOとなっていたのである。

 

その様相が激変するきっかけとなったのが、1998年1月にWWEが遂にマイク・タイソンを招聘してからである。かつて、冬の時代を迎えた新日本プロレスがビートたけしを頼ったように、いざという時には他業界の大物を招聘するというのはプロレス界のあまり好きにはなれない習慣なのであるが、その是非はともかくこれにより世界中のメディアが注目するようになったのは事実である。それからしばらく、HHHとショーン・マイケルズと共にストーリーが展開され、3月のレッスルマニア14において一旦の決着を見る。実際タイソンはサブレフェリー?みたいな形であり、オースチンがストーンコールド・スタナーを決めた直後に速攻で3カウントを叩き、それにクレームをつけたマイケルズを殴って終了、というたった5分にも満たない出番に終わったが、日本ではNHKすら放映するなど、これだけでも世界中における宣伝効果は半端ではなかったに違いない。

 

一時、タイソンに払ったギャランティーは17億とも言われたが、どうやらそれはデマらしい。プロレスファン的には、猪木・アリの事もあり、ボクシング界の大物に頼るのはあまり快くは思わないのであるが、WWE的には大成功を収めた。そして、さらにオースチンとビンスのバトルも続いていくが、これがアメリカ国民の「上司に鬱積は持っているが、何も出来ない勤め人」の大変な共感を呼び、WWE史上かつてないほどのアメリカン・プロレスブームを全米に巻き起こす発端となっていったのだ。

 

これと同時に、WCWの勢いも弱まり、また日本は猪木引退や、全日本プロレスの初のドーム大会などが話題をさらっていったため、NWOの存在感は前年と比べたら明らかに弱まっていたかと思う。そして、PRIDE開催によるMMAブームの兆しも見え始め、私自身もマンネリを感じたおかげで遂に週刊プロレスも読むのを止めてしまったため、地上波の新日本と全日本以外の情報は遮断されてしまった。一応、WCWはこの頃、ゴールドバーグという新たなスターを発掘、オースチンに匹敵するほどの人気を博していくのであるが、前述の経緯もあって私が知ったのは後追いの事である。

 

なので、リアルタイムで語れるのはここまでなのであるが、一旦倒産の危機まで追い詰められたWWEが、怒涛の攻勢をしかけて今度はWCWを経営の危機、最終的には買収して完全勝利という流れになる、というのはDVDを見ていても非常に痛快だ。これは経営やビジネスに興味がある人にとっても必聴だと思うので、機会があれば是非みて欲しい作品である。