セガも相当昔から自社ハードを開発していたメーカーであるが、任天堂がファミコンをリリースして以来は全く歯が立たなかった。一定の普及はしていたのかも知れないが、小学生ご愛読のコロコロコミックがその存在すらほぼ無視していたのと、その他のファミコン専門誌すらも同様だったので、ファミコンからビデオゲームの世界に入った人たちにとっては正直視界にすら入っていなかったと思う。
それが一変したのは、言うまでもなく1988年10月にリリースされたメガドライブからである。ここからファミ通のクロスレビュー対象になり、他のファミコン雑誌も紹介程度はあったため、ようやく多くのユーザーが存在を意識するようになった。ただ、やはりファミコン雑誌としては当然ファミコンのライバル機の紹介となるため、その辺り、特に創刊時から任天堂の全面協力を仰いでいたファミマガとは一悶着あったようである。
私自身がその存在が視界に入り始めたのは、1989年にファミ通を読み始めてからである。当然、ファミコン通信である以上ファミコン中心の誌面作りではあるのだが、実際はその当時からすでにゲーム総合誌的な誌面作りに傾いていたので、とりあえずファミ通買っておけばゲーム業界全体の情報は得る事が出来ていた。そして、本題のメガドライブが初めて注目されたと言っていいのは、当時としては究極に近いレベルの「大魔界村」の移植であった。
容量は、家庭用としては当時最高レベルの5メガビットを使用していたのであるが、それでもアーケード版には及ばず、所々のグラフィックが簡素化されていた。しかし、プレイ感覚はほぼそのままであり、アーケードと家庭用では天と地ほどの差があった当時としてはまさに驚異的なレベルであったと思う。そして、メガドライブもFM音源搭載という利点を活かし、こちらもアーケード版のそれにかなり近い。さらに、MD版は音質に難ありとは言え、一応ステレオである。その辺りはオリジナルを超えていた。
それでも、RPGがメインジャンルの当時としては、家庭用のみのユーザーにとっては求心力は弱かった。一応、セガもそれは理解はしていたので、ファンタシースターなどのRPGもリリースはしていたのだが、やはりドラクエとFFを抱えるファミコンの超強力な布陣、そしてイースや天外魔境を引っ提げるPCEにはどうしてもかなわなかった。
MD陣営には、アーケードではライバルであるはずのナムコやタイトーも参入していた。しかし、同時発色数以外ではほとんどがMDが勝っているにも関わらず、ワルキューレや源平討魔伝、奇々怪界やニンジャウォーリアーズと言った華々しいタイトルが移植されたPCEに比べると、MDのそれは今ひとつマニアックなラインナップが続き、余程のゲーセンマニアでなければ食指はそそられなかったと思う。それは後にコナミが参入した時も同様であり、いきなりグラディウスと沙羅曼蛇という看板タイトルをリリースしたPCEに対し、MD版はアーケードの移植は皆無と、露骨な差を感じたものだった。MDで沙羅曼蛇を移植すれば、2重スクロールもFM音源も容易に再現可能だっただけに、これは本当に疑問だった。
そんなセガが、起死回生を果たしたのが1991年の事。いうまでもなく、「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」である。まずは任天堂を凌ぐほどの成功を収めた北米から初めにリリースされたこの大傑作は、瞬く間にユーザーに受け入れられ、そして7月に日本でのリリースとあいまった。やや難易度が高く、そしてパスワードコンティニューなどもないのが気にはなったものの、SFCのソフトにすら全く見劣りしないその素晴らしいグラフィック、そしてBGMは一瞬にしてMDの看板タイトルへと上り詰めたのだ。
それでもしばらくは購入はしなかったのであるが、1992年年末に、遂に初代ソニック同梱版を購入した。当時はコンポジットしかなかったのだが、それでもSFCに負けず劣らず綺麗に見えたものだった。しかし、他のソフトを起動したとたん一気に地味に。後者が、MDの弱点のひとつであった画面出力の弱さであったのだが、ソニックのグラフィックはそれらを一変させてしまうほど、美しかった、という事だ。
ほぼ時を同じくして、当時最新作のソニック2も新品で購入したのだが、ROMカセットで新品購入したのはこれが最初で最後であったかと思う。なので、他は全て中古で揃えた。PCE以上に格安で購入できたので、大魔界村はもちろん、ストライダー飛竜や雷電伝説などを一気にまとめ買いしたものだった。翌年、本体をコンパクトにしたMD2、そして価格をぐっと下げたメガCD2も発売される。