PCエンジンを語る・その1 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

任天堂が家庭用ゲーム機市場をほぼ独占していた1980年代後半、それに対する対抗馬としてNECホームエレクトロニクスから発売されたのが、白いフォルムがまばゆいPCエンジンである。当時、ファミコン一辺倒であったコロコロコミックで何故か大プッシュされた事により、当時の小学生層にもその存在は発売前から一気に知名度が広がっていった。

 

前述のよう、コロコロコミックはセガハードなどには一切目を向けなかったので、何故突如としてこのPCEをプッシュしていたのかは長らく謎だったのであるが、理由は簡単、当時コロコロと蜜月な関係であったハドソンが開発に関わっており、ちうか実質ハドソン主導で動いていたプロジェクトであったからである。当然、当時は大人の事情によりそれは伏せられていたが、とにかくコロコロ、そして小学館とのコラボにより猛烈なプッシュを受けたおかげで、ファミコンよりも1万円も高い24800円と言う、当時の感覚としては目玉が飛びそうな高額でありながらも、ぼちぼちとその存在は広まっていった。

 

しかし、私の感覚で言えばさすがに出足は鈍かったと思われる。1987年の10月と言えば、まずは超大作である「ドラゴンクエストIII」、そして当時はまだ注目されなかった「ファイナルファンタジー」、家庭用初の移植となる「ウィザードリィ」など、綺羅星の如きRPGが発売予定に名を連ねており、先がどうなるか分からない新ハードに目を向ける余裕など誰もなかったからである。

 

そんな状況が好転し始めたのは、まず1月に発売された「邪聖剣ネクロマンサー」のリリースからだ。ドラゴンクエストIIIのリリース直前ぐらいであったかと思うが、当時のファミコンRPGの概念を遥かに超越していたグラフィックにまず注目が集まった。全体的なクオリティではドラクエの足元にも及ばないのであるが、当時の家庭用は完全にRPGへとシフトしていた時代であったため、まずこれによりPCEに興味を抱いた人たちは多かったのではないかと思う。

 

そして、PCEのセールスを一気に押し上げたと言われているのが、1987年にアーケードにおいてリリースされた、グラディウスと並ぶ伝説的シューティングゲームである「R-TYPE」だ。もちろん、当時の私はオリジナル版などは見たこともなかったのだが、アーケードと見間違うほどのそのクオリティに各ゲーム雑誌は絶賛の嵐、本体の普及の大きな引き金になったのだ。

 

そして、ナムコと言う超強力なサードパーティも加入し、ファミスタのバージョンアップ版である「ワールドスタジアム」や、アーケードからも「妖怪道中記」や「ドラゴンスピリット」が移植され、ラインナップはさらに強化されていく。そして、1988年10月には、早くも世界初のCD-ROMユニットが発売。当時、親会社のNECは「国民機」とまで呼ばれていたPC-98シリーズを発売していたが、それですらもまだフロッピーが主流であり、CD-ROMをメインメディアとした富士通のFM-TOWNSもまだ発売前の事である。

 

それを考えると随分と時代を先取りしていたんだな、と思わざるを得ないが、当時のROM媒体は多くても4Mビット、つまりは0.5メガバイトの容量しかなく、当時540メガバイトとされたCD-ROMの容量は巨大すぎ、さらにそれに対して本体のRAMが512Kビット、つまりはファミコン並の容量しか読み込めなかったために、生音以外にはまだまだCDの本領を発揮するには至らなかった。

 

それを打開すべく、本体発売前からCDのプロモ的作品とも言える「天外魔境」が開発されており、紆余曲折を経て1989年6月に遂に発売。当時の家庭用ゲーム機の常識を遥かに超えたビジュアル、そして3曲ながら坂本龍一氏作曲の曲まで収録と、当時のゲーマーを引き込むには十分すぎるほどの大作であったのだが、さすがに社会人でもない限り、ゲーム機に57300円プラス消費税を払えるような金持ちはそうそういなかった。それでも、この年だけでも8万台のユニットを売り切ったというから大したものである。

 

この辺りになると、ファミコン通信などはファミコンのみではなく、PCEはもちろんメガドライブのゲームもクロスレビューの対象となっており、1994年に次世代機が発売されるまで、ゲーム業界は三つ巴の様相を示していく。しかし、一番スペックは劣っていながらも、やはり1200万台以上売り切っていたファミコン、そしてテトリスの大ヒットにより一気にシェアを獲得したゲームボーイの任天堂には全く太刀打ちが出来ず、私自身もPCEを所有していながらも、ほとんど稼働する事はなかった。

 

その理由としては、まずはまだアーケードゲーマーではなかったので、アーケードの大作でも求心力が弱かった事。そして、確かに画面は512色で綺麗なのだが、それに対して背景が1枚しかなく、多重スクロールの表現力が乏しかった事。そして、ファミコンが意外とそれなりの音色を出せる、かつコナミやナムコなどのメーカーは拡張音源まで積んだおかげで、BGMの幅が広がっていったのに対し、PCEの波形メモリ音源は同じような音色しか出せず、バラエティに乏しかった事、などが挙げられた。

 

特に、BGが1枚と言うのはアーケードの移植中心であったPCEにはかなり致命的であり、特に横スクロールシューティングの見栄えの悪さと言ったらなかったものだった。スプライト機能が強力だけあり、「スーパーダライアス」以降は、うまく背景にスプライトを使用し、疑似的な2重スクロールを再現していたものの、それでもゲームによっては完全な再現は不可能だった。のちに、それを可能にしたスーパーグラフィックスも発売されたが、39800円と高価であり、さらに専用ソフトは通常本体との互換性が存在しなかったために、まるで普及される事無く消えていった。

 

また、Huカードにはバックアップ機能が積めなかったので、ファミコンでは当たり前であったバッテリーバックアップ機能が存在せず、記録にはパスワードかもしくは外部記憶装置が必要であった事、対戦プレイには必ずマルチタップ系の周辺機器が必要だった事からも、どうも長らくのゲームハード屋であった任天堂やセガと比べてユーザーの心理を理解していない趣もあった。

 

それにも関わらず、1990年の時点でもそれなりのシェアを獲得はしていたのには驚きである。スーパーファミコンの発売が遅れた事、セガはマニア向けのイメージがまだ強すぎた事などもプラスに働いたのだとは思うが、とりあえず任天堂に次ぐナンバー2の地位は確固たるものにはしていた。
 

そんな私は、結局1990年代を迎えてもめぼしいソフトはなく、「イースI・II」や「スーパーダライアス」はCD媒体として発売されていったため、当時の私にはとても手が出るものではなかった事もあり、相変わらず「ドラゴンクエストIV」や「ファイナルファンタジーIII」らの大作により、他を寄せ付けないファミコンばかりに夢中になっていったのである。