英語話者が言われたくない言葉とは。 | ONCE IN A LIFETIME

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フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

非ネイティブかつ成人してから英語を話せるようになった日本人英語話者にとって、言われると不愉快な単語は「うらやましい」とか「いいな」とかである。もし、超リッチな親の元に生まれ、香港やシンガポールのように物心ついた頃から英語の英才教育を受けていたり、そのままインターナショナルスクールへと入学でもしたりしていればそう言われても仕方ないかも知れないし、私から見ても羨ましいとは思うのも確か。しかし、現実はほとんどの人がそうではなく、大抵の英語話者は大変な時間とお金を費やしてマスターしていった人たちばかりである。

 

大人になったのび太が、小学生の自分に「大した努力もせずに、ある日突然えらい人になれると思う?」と語りかける話があったが、それは全くその通りであり、何の努力もせずに「ある日突然英語が話せるようになるわけがない」のである。つまり、英語が話せないのは運や才能ではなく、あくまで自身の努力不足以外にないのである。その辺りを理解せずに、単純に人をうらやましいとか妬むのは、大きな筋違いな事この上ないのだ。

 

そういう訳で、そんな事を言われる度に不愉快な事極まりないのであるが、以前に何回か触れたように、最近はある程度英語力も才能に左右されるのではないか、とは思うようにもなってはきている。塾などでフライングしている子供たちも居るだろうが、基本ほとんどの日本人にとっては英語のスタートラインは一斉に中学1年生から始まる。にも拘わらず、1学期の終了時点ですでに出来る人間とそうでない連中との間にはどうしようもないほどの開きが出来てしまうのがほとんどであり、そして出来る人間は軒並み他の教科の成績も良いのである。

 

もちろん、出来る生徒にとっても、学校のみの英語の授業で英語が堪能になる事はほぼ不可能であると思われるが、それでも前述のように頭が良い生徒は大抵英語の成績も良いものだ。逆に、他の教科は壊滅的であるのに、英語だけがずば抜けて良いという話は滅多に聞くことはない。絶対にないとは言えないが、少なくとも自身の経験ではそのような人間にお目にかかった事はなかった。

 

自分自身はかなり平凡な成績ではあったが、それでも中学2年生で英語に覚醒してからは、英語の成績だけは良く、それだけでもクラスメイトから一目置かれる事が多かったものだ。高校ではプロレスとゲーム三昧の日々が続いてしまったおかげで、通信簿の数値は壊滅的となってしまったが、それでも英語だけは平均点以上は維持していた。

 

もちろん、それで英語が理解出来たり、話せるようになった、と言う事は全くなかった。しかし、「英語は絶対勉強するな」に再度英語に目覚め、そして2010年のフィリピン留学で英語学習のノウハウを学んで以降、少なくとも普通の日本人と比較した場合であれば、かなり英語が出来るという部類にまでは達してきたと思う。英語留学中にも、先生たちの会話の中で「スティーブンはとても頭が良い」と話題になった事からも、少なくとも周りから自分は馬鹿ではなく、それなりに聡明であると言う認識を持たれてい居た事も確かであろう。また、English Fella自体、当時まだ創立5年ほどの若い学校でありながらも、すでにセブ市トップクラスの評価を得ていた事から、生徒自体のレベルも高かったのも幸いだった。

 

しかし、自分の英語力が伸びたのはあくまで努力したおかげ、と言う認識しかなく、英語は努力さえすれば誰でもマスター出来るようになるもの、とほとんど信じ込んでいた。なので、冒頭の発言をされる度に不愉快になってしまったものであるが、普通に考えれば、誰もが自分自身が費やしてきた時間を、英語の勉強に費やせる訳ではないのだ。言語間の距離からして、日本人が英語を習得するのは最低でも3000時間ほどかかかるのは科学的にも証明されているので、いくら中学高校で基礎を学んできたからとは言っても、それでもネイティブと会話出来るまで英語力を高めるのは容易どころの問題ではない。自分自身でも、今振り返ればよくもまあ挫折しなかったな、と思えるほどである。

 

「英語は絶対勉強するな」が大きなターニングポイントとなったのは間違いないが、少なくとも英語をマスターする過程は全てが「勉強」である。高校進学以降であれば、基本的に同じようなレベルの人間が集まるはずなので、偏差値が平均以上であれば、少なくともとんでもなく頭が良くない人間と出会う機会はそれまでと比べたらずっと減る。そしてフィリピン留学においても、周りの人たちも自身と同様に大きく英語力を伸ばしていった人がほとんどなので、そうなると英語と言うものは「誰しもが努力さえすれば身につけられるもの」と言う認識を得てしまうのも当然であったのかも知れない。

 

しかし、ひとたび現実に戻ると、世の中には基本的な文法力すら要していない人たちも決して珍しくはない事を実感する。そんな人たちが、果たして自身と同じような努力を英語のために費やせるだろうか?世の中に100パーセントはないとは言え、改めてこれまでの過去を振り返ってみると…少なくとも相当困難である事は間違いはないだろう。

 

まあ、私が英語を始めた頃と比較すると、スマホやネットのおかげで英語学習へのハードルはとんでもないぐらいに下がっている事は事実であり、敷居自体は大分下がっている事は間違いない。それでも、今でも英語が堪能な日本人に出会う事はなかなか稀である。それだけに、奇跡的にそんな人たちに遭遇すると、やはり品性も高く、聡明な頭脳を備えている人が多い事をまたここで改めて実感するのである。なので、努力しないと英語をマスター出来ない事実は間違いではないものの、それを行えるのもひとつの才能である事も間違いではないだろう。つまり、たまたま自分はその才能を両親から授かっていたがために、挫折する事なく英語をマスターする事が出来た訳であり、そういう意味では非英語話者が我々の事を「うらやましい」と思うのはあながち間違いでもないのかも知れない。