20世紀初頭に客観的な知能の測定に挑んだ専門家によると、英語が出来る人は数学の成績も良く、その他の項目も他の被験者よりも優れていたと言う。イギリスで行われたテストのようなので、英語に多少の下駄は履かせている感もあるのは否めないが、一応この結果を信用するとなると、上記の通り英語話者は知能に恵まれている、と言う結論になるのだろう。
もちろん、これは1世紀以上前のテストなので、現在同じテストを行ったら同じ結果が出るかどうかは分からない。しかし、今自分の人生を振り返ってみても、少なくともノンネイティブの英語話者は知能に恵まれている人が多かったのは間違いではない。確かに、他の国は知らないが、少なくとも日本においては、基本的に英語の勉強のスタートラインは皆同じだ。小学校から塾に通っているような連中は、多少のフライングスタートはあるのかも知れないが、それでも中学の英語教育水準を考えたらそうそう大した差でもないだろう。
もちろん、私も中学入学直後の12歳から英語学習をスタートした。しかし、上記のように皆スタートラインは同じでも、数ヵ月も過ぎれば露骨なまでに成績の善し悪しがはっきりと示されていく。中学は義務教育だったので、当然クラスメイトの能力には大きな個人差があるのは間違いはないのだが、やはりクラス、学年でトップクラスの人間は、総じて英語と数学の成績も良く、逆に下位に位置される人間においては、「他は壊滅なのに英語だけは抜群に出来る」なんて例はほぼ見当たらず、まあ大体が英語は苦手、大嫌いと言う部類であった。
前にも触れたよう、私自身も基本をすっ飛ばしてしまったおかげで、中2の前半まで、英語はとにかく苦手であり、英語が得意なクラスメイトに対してはそれだけでも尊敬に値する存在だった。ここで面白いのは、自分がそう苦手ではなかった、せいもあるのだろうが、国語や社会科が得意な人間に対しては、同じような感情は生まれなかった事だ。さらに、面白い事に英語が得意な人間は、数学を始め他の教科の成績も抜群に良かった。要は、他はオール5であっても、英語だけが1とか2、なんて成績はありえなかった、と言う事だ。もちろん、逆のパターンも存在しない。このあたりの経験が刷り込まれていったおかげで、自然と「英語が出来る=頭が良い」と言う認識が植え付けられていったのだと思う。
ただ、不思議なのは、いくら英語が国際共通語とは言っても、地球上に無数にある言語のうちのひとつにも関わらず、何故それが出来るイコール頭が良い、と言う認識が生まれてしまうのか、と言う事だ。もちろん、ほとんどの国民が話せない日本であれば自然かも知れないが、香港やシンガポールと言った多言語の国々であっても、例えば広東語はろくに話せなくても、英語さえ流暢であれば仕事が出来て頭が良い、と言う認識がされると言うし、香港英語の英語版Wikipediaでも、「英語はエリートの言語である」とはっきりと示されている。
また、さらに面白いのは、香港などの多民族の地域に行くと、東南アジアの言語などは耳障りな事この上ないのに、英語だけは理解が出来なかった頃からそういう不快な思いが一切ない事だ。かつて、「燃えよドラゴン」と「死亡遊戯」以外のブルース・リーの映画のビデオは、広東語で見るしかなかったのだが、英語すら理解出来なかった当時であっても、英語版の方が明らかに雰囲気が締まり、耳障りも良かった。前述のよう、日本以外の国家においてでさえも、「英語イコールカッコいい」と言う認識は強いので、このあたりの要素も英語が世界を支配した理由のひとつであるのかも知れない。
その後大人になり、英語を本格的に学ぶようになってからは、様々な英語話者との出会いに至る事になっていったのだが、国籍、人種、そして性別を問わず、素直に頭が良いと思えるような人たちばかりであった。前と重複するが、フィリピン留学時代などはいわずもがな、セブでは著名な英語学校のひとつを選んだおかげもあるのかも知れないが、そこで会った人たちは軒並み優秀な人たちばかりであり、いわゆるバカなどはひとりも存在しなかった。
これも前回でも触れたが、香港で出会った英語話者たちもほぼ全員が優れた学歴と知性を持った優秀な人たちばかりだった。当然、会話自体のレベルも極めて高く、その話は政治、歴史、さらには不動産までにまで及んだ。さすがに不動産などは完全に専門外なので、それだけは分からないと言わざるを得なかったのだが、幸い香港の政治や歴史であればある程度は学んではいるので、雨傘革命の話などもかろうじて英語で行えたものだった。
香港の国別IQは極めて高く、世界でもトップクラスに位置するのだが、彼ら彼女らの素養を感じればそれも納得だった。しかし、自分が会話できるのはあくまで英語話者のみ。広東語で意思疎通が可能な日本人の方によれば、決して香港人の皆が皆そうではなく、会話自体のレベルも決して高いものではないそうだ。このあたりの例からしても、返還から23年が経った今でも、英語が出来る人とそうでない人たちにははっきりとしたボーダーが存在する事がうかがわれる。
Yahoo知恵袋などでは、頑なに英語と知能の相関関係を嫌でも否定したい人たちが溢れているが、それはあくまで英語が話せる人たちへの嫉妬にしか過ぎず、やはり上記までの自身の経験、そして客観的事実からも、英語と知性の相関関係は切っても切り離せないものだと思うのだ。もちろん例外もあるのだろうが、やはりこれまで会ってきたほとんどのノンネイティブの英語話者が優れた知性の持ち主だった事からも、「英語が出来るイコール頭が良い」と言うのはあながち間違いでもないだろう。
ただし、日本人のTOEICの毎回の平均点がおおよそ570前後であり、そのうち800点を上回れるのはわずか10パーセント。TOEICを受ける時点で、それなりに英語を勉強はしている人たちであるのは間違いないのであるが、それであっても800以上は全受験者の10パーセントしか取れない、と言う訳だ。つまり、仮に全日本人が受けるとなれば、さらにそのパーセンテージは低いものとなるだろう。何が言いたいかと言うと、ここ日本においては英語が出来るようになればなるほど周りとの埋めようのないギャップが広がっていくしかないのだ。それが日本人にとっての英語学習の最大の悩みであるかと思う。