英語が出来る人は頭が良いのか・その1 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

なんとなくではあるけども、学生時代に頭の良いクラスメイトの印象と言えば、英語と数学が良く出来る、と言うのがあった。まあ、ランクの高い高校へ行くためには、どの教科も満遍なく出来なければならないのは当然なのだけれども、対照的に成績が芳しくないような連中は、これも総じて英語と数学が苦手、特に英語は本当嫌い、みたいな印象が強かったので、なおさら頭が良いイコール英語が得意、と言うイメージがついていったのかも知れない。

 

そんなイメージは大人になってからも基本そのままのようであり、ネットの意見を読む限りでは大体7割ぐらいはそう思っているような感じである。もちろん、否定的な意見も多いのだが、なんとなくだけども英語が得意な人間に対する嫉妬などが感じられなくもなく、また、ほとんどの日本人が話せないと言う事もあり、やはり英語が得意、イコール頭も良いと言う印象は基本根付いているものだと思う。

 

で、個人的な意見と言えば、確かに中2のターニングポイント以降、英語が一番好き、かつ特異な教科ではあったものの、その反面数学は壊滅的であったので、自分が頭良いとか思った事は一度もない。今でこそ、日本人としてはかなりのレベルにまでは到達したものの、それは才能ではなくあくまで自身の努力と、周りの環境に恵まれただけ、と言うだけの事であると思っているし、英語と言うものは「諦めずに勉強していけばいずれは必ず話せるようになるもの」だと言う認識だ。

 

しかし、それでもだけども、なんとなくだがやはり英語が出来る人はそれなりに頭も良いのではないか、と思うような理由もまま思いつく。まずその根拠となるのは、中国に返還された以降の香港だ。英国植民地時代は、ほとんどの中学の学校言語が英語、いわゆる英文中学だったそうであるが、返還後は政府が母語教育を推進した事からその数は選抜された100校だけとなり、残りの300校は広東語で授業を行う中文中学となったらしい。

 

その目的としては、母語で授業を行う事により、さらに教科への理解度を深めるためだったと言う。それはもっともな意見であり、それは今の自分に置き換えても分かる。しかし、そんな政府の期待とは裏腹に、英語力だけではなく、教科全体の数値も、英文中学の方がほとんどの面で中文中学を上回っていたというのだ。

 

全ては文献による知識のみなので、実際に当時住んでいたわけではないから本当の理由は断言出来ない。しかし、香港の風土を考えればある程度は理解出来る。香港好きのバイブルとも言える、星野博美さん著の「転がる香港に苔は生えない」によれば、英語が出来なければ職業の選択肢は大幅に狭まる、つまりはお金持ちになれる可能性が閉ざされるという意味でもあるのだ。新年のあいさつが日本語で「お金が儲かりますように」である香港の事、お金への執着心は日本人のそれよりも遥かに高い。よって、ほとんどの親は子供にお金持ちになってもらいたい、そうなるためにはまず英語力を磨く事が最も手っ取り早い道となる。しかし、それが出来るのは一部の恵まれた子供たちのみ、それに加えて英文中学へは優秀な成績を収めた選抜された生徒たちのみ…となれば普通に考えれば英文中学に頭の良い生徒が集まるのは必然と言える。

 

私は広東語は片言程度なので、香港でコミュニケーションを取る手段はもちろん英語のみだ。イコール、英語話者としか直接的なコミュニケーションは取れない事となる。もちろん、前述したように、日本よりも遥かに英語話者の多い香港であるので、これまで何人もの英語話者と会話した事はあるのだが、正直、彼ら彼女らのほとんどが気品があり、会話のセンスも高く話も合う、一緒に居て非常に居心地が良い人たちばかりであったのだ。

 

逆に、広東語しか話せない人たちとは、英語も日本語も話せる現地の友人を通じてでしか関わった事はないのであるが、会話の意味が分からないとは言え、どうしてか品のない面が所々に見えたりして、正直言って、少なくとも共通の知人を通じてでもなければまず関わるような人たちではなかった、と言う事だ。

 

それ以外に英語話者と関わった機会、と言えば、やはりフィリピン留学時代だ。学習環境は抜群とはいえ、一般的日本人が見下しがちな発展途上国のフィリピンにわざわざ向かうような連中は、少なくとも相当真摯に英語に向き合っている人たちばかりであった。もちろん、まずは英語と言う共通項があるため、会話のきっかけを掴むのは難しくはなかった、と言うのもあるだろうが、やはり「こいつ大丈夫か?」のような輩は皆無であり、それはそれは一緒に居て大変居心地の良い人たちばかりであったのだ。

 

日本に帰国後、なかなかそういう機会に恵まれなかった事もあって、ずっと「何故あの時はあんなに話が合う人ばかりで、なんて居心地の良い空間だったのだろう」と言う疑問が度々浮かんできたものだったが、要するにそういう人たちばかりが集まっていたから、と言う事だ。

 

そして、先の方で、「英語は諦めずに勉強さえしていけばいつかは必ず話せるようにはなる」と前述したが、それは間違いなくそうではあると思う。しかし、日本語ネイティブと言う時点で、すでに大きなディスアドバンテージを背負ってしまっている日本人、外国人とコミュニケーションを可能とするレベルになるまでにはそれこそ年単位の努力が必要だ。では、じゃあ学生時代に成績が芳しくなく、勉強が大嫌い、そして「この人大丈夫か?」と心配までしたくなってしまうような人間が、果たしてそこまでの努力が出来るだろうか?少なくとも、大人になってからもそんな学習に挑んでいけるようなレベルでない限り、英語の習得は永久に不可能だろう。

 

そして、これまでも散々触れてきたように、英語を習得すれば目の前の世界が一気に広がる。これまで日本語と言う、非常に限られた範囲内で生きてきた環境から、一気に世界への大海原が広がるのだ。Wikipediaひとつとっても、英語ともなればそれこそ世界中の人間が編集していき、そして閲覧する事が出来る、もうこれだけでも日本語とは比較にならないほどの情報量を得る事が出来る訳である。逆に言えば、英語を理解出来る、と言う事はそれが出来て当然、と言う事にもなるため、当然、単一言語しか理解出来ない人たちより「バカであってはいけない」のだ。別にそうしなかったから、とは言っても何のペナルティもないのであるが、少なくともちゃんと英語に立ち向かっている人であれば、そういう意識が芽生えなければ嘘だと言えるだろう。

 

以上のような経験から、「英語が出来るイコール頭が良い」と言う先入観は、あながち間違ってもいない、とは思う。日本に帰国してからも、わずかではあるが真摯に英語を学んでいる人たちと知り合う事が出来たのだが、総じて自分と話や価値観が合うような人たちばかりであった。もっと端的に言えば、Facebookで私の投稿やシェアにコメントを寄せてくれる人たちだ。逆に言えば、一般的な日本人とは自然と疎遠になりがちとなってしまうのだが、IQの高い人間は友達が少ない、低い人ほど群れを好む、と言う研究結果が出ている以上、自身のレベルが上がれば友達も自然と少なくなってしまうのは必然だ。無駄に多人数とつるむより、価値観の合う人たちとのみ関わりあう方が居心地が良いに決まっていると言うものだ。