アーケードゲーム回想録〜Part1 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

最近ハマっているのが、おそらく現在世界でも最も有名なゲームセンターのひとつである、高田馬場ミカドのシューティングゲーム祭りの配信。そんな訳で、ここらで私も自身のアーケードゲーム史を振り返ってみようと思う。

 

今では信じられない話だが、私が子供の頃のゲームセンターのイメージは最悪だった。「ゲームセンター=不良の溜まり場」というのが至極一般的な認識であり、小学生以下の子供にとっては「絶対に行ってはいけない場所のひとつ」、すなわちアーケードゲームをプレイ出来る環境というのは非常に限られていた。

 

という訳で、もちろん私も初のアーケードゲームはゲームセンターではない。最近改装して大盛況に生まれ変わった、メガドンキホーテユニー座間店の屋上だ。相当前からすでに一般人は立ち入り禁止となっているが、かろうじて私が中学生ぐらいまでは自由に出入りが可能であり、お金を入れての遊具や、時にはヒーローショーなどが行われる事もあった。そしてその一角にいくつかのテーブルゲームが置いてあり、そこが私のアーケードゲーム原体験の場所となった。

 

初めてプレイしたゲームは、のちにR-TYPEで大ブレイクを果たす事となるアイレム社の「ムーンパトロール」だ。最近、なんとPS4のアーケードアーカイブスで配信されたりもしたが、一応ドンキーコングなどと並び、ゼビウス前夜のゲームセンターでは花形のひとつだった。そして歴史的事実として、多重スクロールを初めてアーケードゲームで実現させたと言われるゲームでもあり、当時のレトロゲームを語る時には必ず触れられる、つまりそれだけのヒット作だった、という事でもある。

 

そんな歴史的ゲームが私にとっての初のアーケードゲームだった訳だが、周りには当時の親友しかいない状況ではそんな事は知る由もない。ムーンパトロールというゲーム名も、中学生になってゲーメストの画面写真を見て初めて知ったぐらいだった。しかし、とにかく私はそのゲームの虜になった。1プレイは100円。週刊少年ジャンプが170円、コロコロコミックが330円で買えた当時の感覚で言えば、6歳の子供にとって100円というのは相当な大金だ。もちろん、そんなに何回も出来る訳がない。ゲームオーバーになる度に、またプレイしたくなって、自宅に走って戻り、当時まだ元気にしていた祖母にお金をせびってまたプレイしに行く。もちろん、当時のゲームは決まって高難易度、ゲーム初体験の子供にとっては歯が立たず、いつも同じ所でハマってゲームオーバーになっていったが、とにかく我を忘れて夢中になっていったものだった。

 

ただ、実際にプレイした日と言えばその時だけだった。なぜ1日限りとなったのかは覚えていないが、とりあえず当時は近所の親友とほぼ毎日遊んでいたし、遊び相手には不自由はしていなかったので、ゲームの事はすぐに忘れて行ったのだろう。しかし、同じ頃同じくユニー座間店にファミコンが設置されており、自由にドンキーコングをプレイする事が出来たが、これが私にとってのファミコン、家庭用ゲーム原体験となる。

 

他に、小学生が合法的にゲームをプレイ出来る場所と言えば、遊園地や観光地のゲームスポットだ。毎年、お盆休みに熱海に旅行に行くのが定番となっていたが、そこでプレイさせてもらったのが、当時としては異彩を放つ緑色の画面が印象的な縦画面モニターのゲーム、そう、あの伝説的名作の「ゼビウス」だ。これに関しては一度限りだったが、当時はファミコン版ですらまだ発売前であり、コロコロコミックもアーケードゲームを扱うなんて事は皆無、という事はそのゲームが「ゼビウス」である事を知った上でプレイした、という訳ではない事。つまり、何も知らない子供さえも、「ゼビウス」は惹きつける魅力があった、という事になる。

 

後にシューティングゲームに開眼する事となるが、初めてプレイした縦画面のゲームがシューティング、しかもゼビウスっていうのは何か運命的なものを感じ、嬉しくなったものだった。まあ、もっとも当時のゲームのヒット作はほとんどがシューティングだったのだけど。

 

その後は翌年にゼビウスのコピー基板である「バトルス」などをホテルのロビーでプレイした程度で、しばらくアーケードとは縁遠くなっていく。そして、ファミコン移植版の「ゼビウス」、ハドソンとコロコロコミックがタイアップ企画した「スターフォース」」、そしてそしてあの「スーパーマリオブラザーズ」の登場により、世の中は爆発的なファミコンブームが到来、ゲームセンター禁止令の小学生にも自由にゲームがプレイ出来る時代が訪れたのだ。

 

その辺りから私にとってアーケードゲーム空白期が訪れる。「沙羅曼蛇」や「ファンタジーゾーン」のように、アーケードのヒット作も立て続けに行われて行くが、ユーザーの嗜好が野球ゲームとRPGにシフトしていた家庭用、私が興味を抱く事はとくになく、もちろん原作がどのようなものなのかも知る由もなかった。旅行などに連れて行かれた時でも、ゲームをプレイした記憶はなく興味を示す事もなかったので、ゼビウス以来数年アーケードゲームとは縁遠い月日が流れていく事となる。

 

そんな自分が久々にプレイしたゲームは、一気に飛んであの「テトリス」だ。初めてテトリスという名前を知ったのは、ファミマガのゲームボーイ版発売の記事だったので、一般人をも巻き込んでの特大ブームが起きていた事など全く知らなかった。あの悪名高き初代ファミコン版のテトリスも同時期に発売されてはいたのだが、私は全く知らなかったので、ミニ四駆に夢中だった私にとってはファミコン自体当時は眼中になかったのだ。

 

しかし、そんな自分が何故かゲームボーイだけは発売とほぼ同時に購入、もちろんテトリスもすぐに購入したものだが、あまりの面白さにとにかく夢中になった。ゲームボーイ版は横移動が遅く、その上密着が早いのでアーケード版よりも実は難易度は高いのだけれども、そんなのはおかまいなしに夢中になった。そんな時、友人たちと遊んだ帰りに寄った、今はなき小田急相模原駅前にあった「ペンギンハウス」でプレイしたのが、アーケード版のテトリスだった。

 

同じゲームが数台並んでいる様は爽快だったが、レバー操作に全く慣れていない自分にとってはやりづらい事この上なく、すぐにゲームオーバーとなってしまった。1階は大型筐体ものであり、ファイナルラップなどもプレイした記憶があるが、個人的には家庭用より遥かに美しい画面のテトリスの方が印象深かった。

 

しかし、それでもゲームセンターに通う事はなかった。当時ですら、「ゲームセンター=不良の溜まり場」という認識は根強く残っており、家庭用すらも堂々とゲームが好き、と言える世の中ではなかったのだ。しかし、相武台前にゲームセンターが出来たのをきっかけとして、次第にゲーセンに通う連中が増えていき、大半はメダルゲームに夢中だったとはいえ、次第に自分にも耳に入るようになっていった。

 

そして、家庭用でも毎月ファミコン通信を買うようになると、記事からもアーケードゲームの情報を得る機会が増えて行った。ファミコンユーザーにも知名度の高い「グラディウス」や「魔界村」の最新作がゲームセンターで出て居るのをみると、さすがに綺麗だな、凄いな、とも次第に興味を示すようにはなっていたものの、どうしてもゲームセンターのイメージの悪さに抵抗を覚えてしまい、連中と一緒にゲーセンに行く事などはありえなかった。

 

そんな自分が通うようになったきっかけ、それはスーパーファミコン発売時の目玉タイトルのひとつである「グラディウスIII」だったのだ。