今年も大盛況のうちに幕を閉じた、新日本プロレス年間最大のシリーズG1クライマックス。G1の決勝と言えば第1回目の座布団が飛び交ったあの時から、両国国技館というのが定番だったが、今回は改装か何かで使えなかったようで、なんと日本プロレス界史上初となる日本武道館3連戦が行われた。
プロレスにおける日本武道館と言えば、あの馬場VSエリックを皮切りに、猪木VSアリ、そしてあのプロレス夢のオールスター戦など伝説的な大会が行われた場所として有名だが、その反面、国技館なんかとは対照的に非常に満員にし辛い会場としても有名であり、基本的にプロレス団体にとっては鬼門とも言えた。
それが今回、15年ぶりの使用にも関わらず3連戦と、いくらG1と言っても無謀ではないかという懸念があったが、初日こそ6180人だったものの、後半2日は立ち見まで解放されるという掛け値なしの超満員、後楽園ホールも埋められなかった暗黒期を知る者としては新日本プロレス完全復活だな、と感慨にふけっていたものだった。その初日も、他団体であれば普通に11000人は付けれるぐらいは入っているように見えたので、まったくガラガラ、というほどでもなかった。むしろ、平日の金曜であのカードであそこまで入れば及第点、と言ったところだろう。
で、以上のように新日本としては15年ぶりとなった今回の大会だが、私が武道館に足を運んだのは過去2回それも24年前という訳で、今年だけで過去の回数を超えてしまった、という事になる。前置きが長くなったが、今回はその当時の様子を綴っていこうと思う。
1993年、前年までの人気ぶりは落ち着いた感こそあれ、まだまだプロレス界全体は活況を呈していた。新日本はもちろんの事、鶴田がリタイアしつつも三沢を筆頭とする全日本もまだまだ絶好調、後楽園ホールや武道館のチケットはプラチナペーパーとも呼ばれ、ファンクラブに入っていない限り入手は非常に困難であったのだ。
ネットなどなかった当時、プレイガイドか電話予約が基本だ。しかし、これにもその道のプロ的存在がおり、一般人がまともに購入するのは非常に困難、東京ドームなどでもない限り、取れても一番安い席である事がほとんどだ。そこで、一番手っ取り早い方法として、わざわざ全日本プロレスのファンクラブであるキングス・ロードに入る事にした。基本的に新日本ファンの自分としては、今思えば考えられないような話ではあるが、まだ当時はそこまでの拘りはなく、全日本も毎週録画して見ていたから、割とまだ普通の感覚ではいた。
そして、当時のクラスメートの全日本ファンと一緒に、武道館大会へ行こう、と言う話になった。チケットは当然自分が手配したのだが、ファンクラブ経由ながらも2階席を取るのがやっとだった。日付は今でも忘れもしない1993年7月29日。もちろん、カードが発表されてからでは買えないので、どんなカードになるのか期待と不安で一杯だったが、なんと前年の20周年と同じ「三沢VS川田」の黄金カード。全日本と言えばベストバウトを3回も受賞した「三沢VS小橋」の印象が強いが、当時の小橋はまだ戴冠前であり、格的にも田上と同等であり2人の後塵を拝していたので、この当時はまだまだ三沢VS川田が最高のカードだったのだ。
全日本の武道館と言えば、全盛期の猪木よろしくメイン1本で勝負、という印象が強くなっていったが、この頃はまだそれなりに工夫を凝らしており、ダイナマイト・キッドの一夜限りの復活や、WWE殿堂者のビッグ・ボスマンVS田上、もうひとつの黄金カードとも言えた小橋VSハンセン、そしてザ・デストロイヤーの引退試合と、この時期の武道館大会の中でもひときわ際立っていたと言ってもいいぐらい豪華だった。
日付を見るとこの日は平日だったが、夏休みの学生には関係なく、もちろん武道館も掛け値なしの超満員。毎回決まったように16300人発表だったが、アリーナにぎっしり席を詰めても14000人がやっと、そしてこの前の新日本の札止めが12000人だった事からも、水増しは明らか。それでも当時の全日本は一本の花道はなかったし、かなりギリギリまで席を並べていたのも確かなので、実数で12500人前後は入っていた事は間違いない。
そして当時はアプリなど便利なものはなかったので、まさか皇居や靖国神社が側にあるなんて事も知らなかったし、千代田線から表参道乗り換えで、半蔵門線で九段下まで行ける事に気付かず、新宿から都営新宿線経由で向かっていったものだった。
大会はもちろん盛り上がったが、プロレス史を語る上で実はこの7.29は欠かせないメインとなった。それは、三沢光晴が初めて川田を相手に投げっぱなしジャーマン、しかも3連発を披露し、この日をいわゆる四天王プロレスが産声を上げた日、とする人が少なくないからだ。もちろん、その時はそんな事を知る由もなかったが、テリー・ゴーディが来日不能となり、シングルプレイヤーとして開花したスティーブ・ウィリアムスが、同年から殺人バックドロップを解禁するなど、脳天落下系のエスカレートは増すばかり、それが後に三沢光晴の悲劇に繋がる事を思うと、未だ何とも言えない気持ちになってしまう。
そして、2回目の観戦は、翌年2月24日の新日本プロレスだ。この日は何の脈略か不明だが、「プロレスの日にする」などと高らかに宣言し、そのためチケットも全席5000円と言う大盤振る舞い、なんだか面白そう、という訳で別の友人を連れて参戦した。メインは史上初の現役IWGP王者同士の対決、つまり当時の王者である橋本VSライガーであり、そしてこの日はライガーが上半身裸の対ヘビー級仕様コスチュームを初披露した日でもあった。
当然、ノンタイトルではあるが、場内の応援はライガー一色。当時はまだケーフェイは守られていた時代であったので、みなライガーを必死で応援するものの、最後は橋本のフィッシャーマンDDTに敗れた。まあまあ盛り上がったものの、他に覚えている事と言えば、久々にトラブルメーカーの谷津嘉章が参戦したのと、長州力のプランチャが見れたぐらいで、特にインパクトのある興行とは言えず、結局この日付の興行はこの日限りのみ、「プロレスの日にする」という公約はプロレス界恒例の「なかったこと」にされてしまった。
前年8月のG1以降、ガチガチの新日本とUWF系のファンになった事もあり、武道館には足を運ぶ事なく、つまり新日本以外の武道館大会は上記全日本が最初で最後となってしまった。ただ、まだまだプロレス界は武道館大会を定期的に開催するほどの体力が残っており、新日本や全日本はもちろんの事、パンクラスやリングスなども大会を開いていた。今回久々に行ってみて、急すぎる階段は怖いとは言えその分どこからも見やすいというのは武道館の良いところだな、と思いはしたものの、駅の周りはビル街でしかも急坂、武道館の周りも基本的に自販機だけ、しかも今回はグッズ売り場まで10分近く歩くと、周辺環境に関してはアクセスも食事も事欠かない両国の方が「升席がある以外では」上だな、と実感したので、今回のような特別な理由がない限りは別に武道館で開催する必要もないでしょう。