私は子供の頃にすでに変わり者で、なにか周りとは違うみたいな空気を常に吸っていたが、その最たるもののひとつが当時小学2年生の分際ですでにルチャ・リブレに興味を持っていたという事。大体、その当時の小学生男子がまず興味を持つもの、と言えば少年ジャンプの漫画か読売ジャイアンツの試合であろうから、その時点でその2つに全く興味がなく、挙句の果てにプロレス、さらにその中でもマニアックなルチャに関心を得たほどだったから、良くそんなんで周りと孤立しなかったものだと今でも思う。
ただ、数年後に発売された「たけしの挑戦状」の完全解決本において、「じっとみつめるなどを選んで、放送終了のメッセージを見た奴はいるかい?そういう変な奴も、なかなか有望だぜ。ありきたりの事ばかりしてるんじゃ、生きてる意味がねえんだよな。」と言う文章には子供ながらに勇気付けられた。もちろん、本当はたけし自身が書いているはずもないんだけれども、当時のビートたけしと言えば日本一人気があった日本人、と言っても過言ではないぐらいの大スターであったし、当のたけし自身の生きざまからしても非常に説得力のあった言葉でもあったから、その言葉が自分に与えた影響は今なお大きかったりもする。
まあそれはさておき、とにかく当時8歳の自分はルチャ・リブレに夢中だった。そのきっかけは、当時の日本なら確実に一番、今でも世界で最も著名なメキシコ人のひとりであろう「ミル・マスカラス」だ。ただ、実を言うと1983年末以降、しばらく来日が途絶えていたので、ちょうどプロレスを見始めた頃は全日本プロレスの中継で試合を見る機会を失っていた。しかし、爆発的な「スカイ・ハイ」ブームを巻き起こしたマスカラスの事、当時どこにでも売っていた子供向けのプロレス本では確実に特集がなされており、当然空中殺法や絶対に素顔をさらさないミステリアスさ、そして日本人にはなかなか身に付けるのが難しい、見事なまでにビルドアップされた逆三角形の肉体と、もうそれだけで当時の私は自然とマスカラスの大ファンになってしまった。
となれば、当然母国であるメキシコと、ルーツであるルチャ・リブレに関心が向くのは必然の事。そして、当時はタイミングが良くテレビ東京において「世界のプロレス」がゴールデンで放映されており、アメリカンプロレス同様に、たまに放映されるルチャの試合を毎週楽しみにしていたものだった。
因みに、Wikipediaなどによれば、1985年の第1回のレッスルマニアも放映されたそうだが、全く記憶にない。当時はテリトリー制だったから、NWAやAWA圏、そしてエリックファミリーの本拠地ダラス、さらに2回だけ放映されたと言われる旧UWFの試合ぐらいだ。旧UWFはノーテレビであったため、新日本提携以前に放映されたのはそれだけのはずだったが、派手なアメプロやルチャとは対極に位置するスタイルだけに、豊田商事のスキャンダルがなくともいずれ打ち切られていた可能性は高い。
因みに、後々知った事だが、メキシコでは91年ぐらいまで「教育上の理由」からルチャ・リブレのテレビ放映は厳禁だったらしい。よって、例えば伝説的なレスラーでありメキシコの力道山、とも言える「エル・サント」の試合などもほとんど残っていない、YouTubeで観れるのも映画の1シーンであるので、一体どれほどの熱狂的な支持を得ていたのかが分かりえぬのが残念な所だ。で、それが何故世界のプロレスで放映されていたか、と言う話だが、何のことはない、北米在住のメキシコ人ら向けに撮影されていただけの事らしい。
ただ、肝心のマスカラスの試合は流れず、軽量級の試合が主だったが、やはり子供にはリアル特撮ヒーローであるルチャとの相性は抜群に良いため、その頃はすでにマスカラスよりもルチャそのものの大ファンになっていた。そしてその絶頂期、たまたま姉が買ってきた雑誌に「ルチャ・リブレガイド」なる超マニアックなムックの懸賞があり、応募してみた所なんと当選してしまった。が、実際発送されたのは半年後ぐらいだったので拍子抜けも良い所だったが、非常に良く出来たムックであり、小学3年生ながら何度も何度も読み返し私にとってはお宝のような存在だった。
その後、プロレスに興味をなくした時に、親が勝手に処分してしまったが、2004年にヤフオクを始めた時におおよそ20年ぶりぐらいに再入手する事が出来た。ルチャ・リブレは当然メキシコのもの、つまり技もリングネームもスペイン語であり、さらにそのムックにはメキシコへの行き方や簡単なスペイン語も載っていたため、つまり中学1年生で英語の授業を受けるまでは、英語よりもスペイン語の方が多く知っていたかも知れない、それも今考えたら非常に変わっている子供だった。
もちろん、プロレスを通じて英単語やアメリカの地名も同時に学んでいったが、それでも興味あるのはメキシコの方だった。つまり、私の人生において、初めて行きたいと思った国がメキシコだ。実際、その後はそれ以上ルチャに興味を持つ事もなかったし、さらに実際に行くとなるとゆうに20時間はかかるので、さすがにそれは未だ実現していない夢だし、正直実行に移す気もない。さらに、もちろん英語も通じず、さらに治安面で不安があると言えば尚更の事だ。
そして、その本が届いた頃、遂にマスカラスが全日本プロレスに2年ぶりの来日を果たす。確かゴールデンタイムに復帰する直前だったと思うが、ぶっちゃけ言うと実際にマスカラスの試合を見てからは一気に冷めてしまった。猪木の「落日の闘魂」のように、マスカラスも「飛べなくなったマスカラス」と言われていたが、確かに当時すでに43歳、全盛期はとうに過ぎており、それはそれで仕方のない面もあったとは言え、さすがに空中殺法がドロップキックと、なんだか誰でも出来そうなフライングクロスアタック、そしてフィニッシュのプランチャと、繰り返しルチャをテレビ観戦し目が肥えていた自分にとってはあまりにも物足りなかった。
それでも、ドクトル・ルチャの異名を持つ、元週刊ゴング編集長の清水勉氏によれば、デビューしたての1960年代はメキシコを代表する空中殺法の使い手とあった。日本に来たのはぎりぎり20代ぐらいで、当時全盛のBI砲と試合のVTRも残されているが、たしかに肉体も若々しく、動きもスピーディーだ。ただ、それでも跳躍力は特別凄いとも思えなかったし、日本初公開とされグレート小鹿に対してかけたウラカン・ラナ・インベルティダの連続写真も、途中まるでパワーボムの失敗であるかのように頭を打ち付けたモーションもあったりして、マスカラス自体の運動神経にも疑問符が付き始めてしまっていた。それらに関して言えば、後にカネックと共にUWA繋がりで新日本に来日した弟のドス・カラスの方がよっぽどセンスがあると思ったが、それでも日米でスーパースターに登り詰めたのはマスカラスなのだからプロレスと言うのは難しい。
また、当時はマスカラスのマスクが欲しくてたまらなかったが、メキシコで買うとめちゃ安いはずなのに、日本だと3万円ほどするので子供の私にはとても手が出ないものだった。その代わり、インチキ商法で有名で、世の中の純粋な子供を騙しまくった悪名高き「日武会」が、粗悪なレプリカを売っていたりしたので、親にせがんで買ってもらった事もあった。当然今では自分の金で買えるようになったが、結局その後一度たりともマスクに手を出した事はない。
その後、大人になってグローバル志向が強まっていったのは、言うまでもなくブルース・リーの存在と、フィリピン留学がきっかけだったが、それらはプロレスとも親和性があるものであり、特に1980年代までは数あるプロスポーツやエンタメの中で最もグローバル性が強いものであったのだから、子供ながら自分がプロレスに惹かれていったのは運命的なものだったのかも知れない、と今なお思う。