UWFとは~その1 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

私がプロレスを見始めた時にはすでにUWFは存在していたが、それは後に一大ムーブメントを起こす新生UWFの事ではなく、いわゆる「ユニバーサル・プロレス」と呼ばれた旧UWFの事。基本テレビ放映はなく、もちろんレンタルビデオ屋も黎明期なため、動く映像を見たと言えばかの「世界のプロレス」内だけ。しかし、それは2回で終わったと言うし、もちろん誰と誰の試合が流れたのかも覚えてはいない。

 

そんな自分が初めて前田や藤原らを見たのは、もちろん85年12月以降の業務提携時代。が、前よりもプロレス熱は冷めていたとは言え、それでも憧れは海の向こうのアメプロとルチャ・リブレ、世界のプロレスはもちろんの事、ジャパン・プロレスとの提携以降日本人対決が増えたとは言っても、まだまだアメリカ・マット界に顔の聞いた馬場率いる全日本の方が、やはり外国人においては質量とも新日本を上回っていたため、関心と言えばやはりそちら側であり、よってUWFに関しては「あ、結局戻ってきたんだ」との感覚しかなかった。

 

まあともかく、ようやく自分にとっては「未知の強豪」とも言えた、前田日明の姿をブラウン管で毎週見る事が出来るようになった訳だ。当然、彼らのスタイルはいわゆるキックと関節技主体のUWFスタイル。特に、彼らの象徴的技のひとつとも言えた「アキレス腱固め」の応酬は頻繁に見られたものの、当時関節技と言えば「卍固め」や「足4の字固め」のように、ようは「絡み合った」技でないと痛さが理解出来なかったため、前述の応酬は当時小4ぐらいの子供にはとても理解出来るものではなかった。

 

姉もプロレス雑誌を買ってくるのをやめ、もちろん東スポなど取ってる訳もなく、次第に飽きが生じ始めてしまった。後の前田の著書などで、当時のいきさつなどを知る事となったとは言え、時すでに遅し。プロレスマニアなら熟知していただろうその事実は、当時テレビを見ていただけの一般ファンにとっては知る由もなかった訳で、因縁も確執も理解する事が出来ず、ただひたすらどこが効いているのか分からない関節技を見せられる毎日。1986年のベストバウトとなった藤波VS前田戦は今見ても素晴らしく、視聴率も16パーセントほど取っており、今の基準からすれば合格点過ぎる数字であるものの、当時のテレ朝がプロレスに求める数値は常時20パーセント前後であり、結局視聴者に避けられた新日本は同年秋に金曜8時から撤退する羽目になってしまった。

 

その後は私もプロレスを見なくなった事もあり、覚えている事と言えば巌流島や、あの忌まわしきTPG、たけしプロレス軍団とのアングルが組まれた事による、年末の両国国技館大暴動事件ぐらいだ。よって、それ以前の大阪城での海賊男のミステイクによる暴動や、同日の古舘伊知郎の最後のレギュラー実況も覚えてはいない。当然、UWF勢も覚えているはずはなく、とにかく自分の中で「UWFのスタイルは退屈」と言う印象しかなかった。

 

数年後、中学生になっていた私は当時隔週金曜日に発売されていた「ファミコン通信」を読むようになっていた。ファミマガなどより若干大人向けのこの雑誌、ゲーム以外の文化や流行についての紹介ページもあったりしたが、スタッフに何人かプロレスファンがいたためか、たまに「UWF」の大会の告知もなされていた。

 

いわゆる「長州力への顔面襲撃事件」で、前田日明が新日本を解雇されていた事ももちろん知らず、その後のUWFの行く末も当然知る由もなかったため、さらに自分にとってUWFと言えばいわゆるユニバーサルの事、でもあったから、何故ここに来ていきなりUWFの3文字が復活しているのか、当時はまるで意味不明だった。

 

90年の年末頃、4ページにプロレス特集が組まれ、それで理由がやっと判明そして私自身再びプロレスに興味を持ち始めていったのだけれども、「新生UWF」が存在していた間に私が得た情報はそれだけ、非常に限定的なものだったので、後々になって週刊ゴングのUWF増刊などを改めて手にし、当時の状況などを知るうちに、どうしてあの地味な関節技主体の団体が、チケット完売伝説を作り上げ挙句の果てには東京ドーム進出まで果たすなど、正直最初は不思議で仕方がなかったものだった。

 

週刊プロレスなどを立ち読みし始めてからは、UWFが3派に分かれている事は承知であったものの、別に惹かれるものはなかったし、やはり一番面白いのは新日本と全日本、あとは大仁田のFMWぐらいだったから、よって自分にはUWFスタイルの良さがまだまだ理解出来てはいなかった。