英語を再学習するきっかけとなったひとつは、
やはり前にも書いたようにブルース・リーだ。
ブルース・リーは香港人なのだから、
母語と言えば広東語になるはずなんだけども、
18歳以降はほとんどアメリカで生活し、
よって現存しているインタビューや肉声の映画、ドラマはほとんどが英語だ。
さらに、ハリウッド映画である「燃えよドラゴン」はもちろんのこと、
香港主演作品まで英語バージョンで公開されたし、
それらの要因のおかげで、ブルース・リーイコール英語な訳です。
ひたすら「ブルース・リーのようになりたい」と願った頃の話である以上、
当然の事ながら言語面でも影響を受け、
彼と同じ言語、つまり英語を話したい、
ひたすらそう願うようになっていったのです。
がしかし、当時発売されていた主演作の日本版ビデオは、
「燃えよドラゴン」と「死亡遊戯」を除き、
全て80年代に作られた広東語バージョンであり、
彼の映画を見て英語を勉強する、と言うのは難しいものがありました。
そしてもうひとつ、
相模大野の駅で電車を待っていたところ、
白人の女性に話しかけられたのにも関わらず、
何にも答える事が出来なかった、と言う屈辱的な経験も、
英語を再勉強する大きなきっかけとなっていきました。
「Isetan? This station?」と言う、
非常に簡単な文章だったんですけども、
そんな質問に対しても普通に答えられない自分が凄く恥ずかしく、
せめてそのぐらいの事に対しては簡単に答えられるようになりたい、
それはかなり大きなモチベーションへと繋がっていきましたよね。
しかし、当然当時はDVDもiPodもなく、
インターネットも黎明期でPCすら持っていない時代、
もちろんフィリピン留学なんか影も形もない頃の話ですから、
英会話をマスターするには駅前留学か、欧米へ行くしかない、
その程度の選択肢しか浮かばないような時代でありました。
当時は当時で別に大きな夢があったし、
さらに後者を実行するには莫大な費用もかかるので、
何より「英語をマスターしての具体的なプラン」と言うのはなかったものですから、
正直そこまでする気などは到底起こりませんでしたね。
そうは言っても、少なくとも日常会話程度は話せるようになりたい、
とは思い続けていたので、
たまに英会話の本を探しに行き、
「数週間でペラペラ」的な本をたまにですが買ったりしていました。
当然、そんな短期間で流暢に話せる訳は絶対ないし、
案の定中身はセンテンスを暗記するだけのものばかりでしたけども、
他にやり方も分からないし、
買ってしばらくしては飽きて、数年はそれの繰り返しでしたね。
それでも英語への憧れは消えませんでしたけども、
良く考えてみれば、
それは日本人の大多数が一生に一度は絶対に願う事でもあるし、
今思えば自分に限った事ではないな、とは思います。
因みに、上記2つのきっかけ以外では、
当時人気絶頂だった「電波少年」からの影響がかなり大きく、
特にキャイーンの国境シリーズや、
ある意味クライマックスとも言えるヒッチハイク3部作などは、
いつも夢中になって見ていたし、特にアフリカ編は夢中になってましたね。
とにかくチューヤンが英語を話せるのが羨ましくて仕方がなかったし、
同時に「英語を話せれば、世界中の人々と交流が出来る」と言う事も、
改めて実感したし、その辺りはかなりモチベーションが高まっていた頃だと思います。
しかし、良い学習への糸口は見付けられず、
したくても分からない、そんな状況がしばらく続いてしまう事になっていったのです。