ついに古稀を超えてしまった。現代では70歳以上は少しも稀ではなくなったものの、少しは感慨もある。
 そしてこの齢になってであるが、ここ数年の評論家的立ち位置のコンサルタントから中国の半導体ベンチャーで研究開発業務に復帰・・・ということになりそうである。

 

 

 新卒から42年勤めた会社を上記ブログに書いた事情で退職して以来は、海外中心のコンサル生活が続いていた。

 

 

 上記ブログのように日本では海外というか外部の人間の知見を事業の中枢に活用しようとする企業文化がないので、どうしても顧客は海外に求めるしかないのであるが、それでも仕事としては評論家的な気楽な?業務が多く、まあこんなロートルにプレイさせてくれる職場はないだろうから歳相応かと考えていた。

 それが急転直下して研究開発の現場に復帰することになり、それもあまり経験がない半導体廻りで中国のベンチャーを顧客にしてということで、これまでのコンサル顧客であった欧州の独占企業や韓国の財閥系企業のようなノンビリした社風(ついでに云えば42年勤めた日本企業も、牧歌的雰囲気に惹かれて就職を決めたのだが)とは正反対の雰囲気の中で果たしてやっていけるのか?
 まあやってみなければわからないし、失敗したところで別に失うものもない・・・と開き直れるところが古稀の図々しさだろうか。

 なお10年前の還暦を超えた頃も生涯現役などと嘯いていたので、その頃のブログを引用する。

(2016年05月03日作成のブログから引用)
還暦を超えての今後の(無)計画

 映画“グランドフィナーレ”を観た。
 鬼気迫るマイケル・ケイン82歳、ハーヴェイ・カイテル76歳、ジェーン・フォンダ78歳と、全裸の若い女優たち(マグロ状態で並び食傷気味だが老若セレブがスイスのスパリゾートで過すという設定なので違和感がない)が対照的に描かれ、原題はyouth(若さ)である。



 なお以後の記述にはネタバレも含むが、本当にいい映画というのはむしろストーリーを知っている方が愉しめるものだと思う。
 今年観たというか昨年度の映画では、“完全なるチェックメイト”(原題pawn sacrifice)と“スティーブ・ジョブズ”とこの作品が面白かったが、前2作は有名人の伝記的映画でファンなら誰でも知っているストーリーであり、芝居だって前もってストーリーを知っておかないと楽しめないものが多い。

 マイケル・ケインはパーマー(画像下:007に対抗して製作されたシリアススパイシリーズで、若い頃から渋かった)時代からの大ファンであり、本作は間違いなく彼の最高傑作であろうし欧州系の映画賞を多数受賞した。



 ただアカデミー賞を逃したのは、今年は最初からディカプリオの涙の初受賞が暗黙の了解だった?という事情もあってちょっと運が悪かったかな。
 ケイン-今はケインというと別の意味(笑)を想像するようになったが-の役は半引退状態の老作曲家・指揮者であり、無気力状態で舞台となる超豪華スパリゾートに滞在中である。

 その大親友のハーヴェイ・カイテルはまだ現役にこだわる巨匠映画監督であり、全盛時に女優として発掘してコンビで多くの映画を作ったジェーン・フォンダと新作というか遺作を撮ろうとするが、彼女に“貴方はもう老いて駄作しか撮れない”と出演を拒否される。
 そして彼女の出演なしではとうてい新作製作は認められないという状況で絶望したカイテルは発作的に飛び降りて・・・

 このスパリゾートには様々な老いて過去の名声にすがる人物や、若く今が旬である人物が登場する。



その中でも強烈なイメージを残すのは老いてブクブク太ったマラドーナ(一瞬本人かと思うくらい雰囲気を出していた)を想起させる人物であり、テニスボールで(サッカーの)リフティングする人間業とは思えないテクニックを披露するが、少し続けると倒れて酸素吸入器が必要になるという体たらくである。
 そしてケインとカイテルがスパに漬かって健康話(笑)で盛り上がっているときに、全裸のミス・ユニバース(ルーマニア女優のマドリーナ・ゲネアが素晴らしい)が入ってきて二人が人生最後の?浴場じゃなくて欲情を覚えるというシーンもなかなかひねりがきいている。



 この映画では最初は無気力状態になっているケインとまだやる気満々のカイテルが対照的に描かれるが、最後はカイテルがポキッと折れてしまったのに対しそれを見ていたケインが自分の人生でやりたいことは何かと見つめなおし、そのグランドフィナーレとしてエリザベス女王主催の音楽会でタクトを振るというシーンで終わる。

 俳優はいい役があれば何歳まででもやれるし、歳を重ねて重厚な雰囲気を醸し出すこともできる。
 それでは他の職業・・・例えば私もその一員である一般的な勤め人はどうだろうか?

 自分が研究者として一番仕事に乗っていたのは30歳から45歳くらいまでという気がするが、通常はそのあたりで一線の研究からは退いて管理業務に転じる方が多い。また官民問わずそれなりのコースは準備されているし、いわゆる“大物”研究者というのは自分では研究しない研究管理者であるというケースが大半である。
 ただ私の場合はどこをどう間違ったのか、還暦を越してまだ自分でビーカーを振る生活を続けており、生涯現役などと嘯いている。

 節目節目のブログから思い出してみると6-7年前に年寄りの冷や水と言わんばかりの周囲の猛反対を押し切って始めた研究は、ライフワークのつもりであった。若い頃なら三つも四つも同時に研究プロジェクトを回していたのだが、その当時はもうそんな元気もなければ使える人・モノ・金も充分ではなかったし・・・
 それが還暦を前にしてなかなか完成せず会社からの評価も今一つの状態が続いていた。そこでもう社内はあきらめて海外で自分ごと(笑)この研究を買ってくれる顧客を探そうとして、米国で発表したのだが思いのほか好感触であった。

 

 


 そこで会社とも話し合い、還暦を超えて以後5年以内に海外顧客(国内はNGなのは国内顧客だとどうしても今の会社の競合になってしまうため)に私ごと売り込むという暗黙の了解で研究を継続することになった。

 

 


 しかしながら海外顧客(第一候補はボローニャに本拠を置く多国籍企業)との交渉を重ねてまとまり始めた段階で、急転直下でやはりこの研究を社内採用して社内事業としてグローバル展開しますという結論になった。

 

 


 海外で認められると国内でも認められるといういかにも日本的な事情ではあったが、私もこの歳になって海外で見知らぬ人の間で苦労するよりは社内で気心が知れた人と仕事をするほうが成果をあげやすいことは自明である。
 そこで結果オーライということで今の会社に残留することにした。経済的にもまあまあのオファーがあったし・・・
 社内の旧友からは会社を脅迫した結果じゃないのと皮肉られたが、別にそういう事情ではなく、お互いが最もハッピーになる途を模索した上の結論である。

 ただしその研究の社内でのグローバル展開のために陣頭に立ってほしいという要請は辞退することにした。
 多分私のような年寄りが考案者・発明者だからといってエラそうに口を出せば皆から煙たく思われるであろうし、そういう実務的な事業展開の仕事はおそらく私には向いていないからである。

 というわけでこれまでの研究はグローバル特許網の構築(これだけで7~8年かかりそう)を除いてすべて社内の別のチームに引き継ぎ、私は一から新しい研究を立ち上げることにした。
 これまで30年以上専門にしてきたセラミックスの世界からも離れ、学生時代から新入社員の頃にかけて少し齧っただけの有機合成の研究に戻るつもりである。

 そして何とか私の実験室に小さな合成装置を組み立てた。連休明けから初めての運転開始となる。
 そして来年には北九州に大型設備を導入するスケジュール(獲らぬ狸であるが)になっており、そうなると年に半分以上はそちらに滞在することになる。

 何年かかるか私にもわからないし、あまり考えてもいないという将来計画ならぬ将来無計画である。周囲もあきれてしまい、あと何年やるつもりですかと質問する人もいなくなった。
 マイケル・ケインがこの作品で82歳なら、私もそのくらいまでには何とかしたいものであるが・・・



 そして残酷な現実をカイテルに指摘したジェーン・フォンダ。78歳の御姿を出すとホラーになってしまうので、上画像は若い頃のバーバレラ(1968)から。
 自分は現実を見て華やかな映画女優からTVの汚れ脇役に転身しようとする役であり、久しぶりにスクリーンで観たが鬼気迫る女優魂ではあるもののあまり見たくなかったような気もする。

 自分としてはまあ現実認識ができなくてもいいさ。囲碁みたいにはっきり白黒がつく勝負事ではないので、錯覚から生じるパワーもあるかもしれないし。

 とここまで書いてきて気が付いたのであるが、マイケル・ケインは人生のグランド・フィナーレとして自分の“過去の”代表作で一世一代の晴れ舞台に指揮者として臨んだのであって、これから新作を撮ろうとしたハーヴェイ・カイテルの方は現実認識ができず悲惨な結果に終わっている。

(以上引用終了)

 

 

 ウーム、こうしてみると、古稀を過ぎて研究開発の第一線に復帰しようというのはハーヴェイ・カイテルみたいになる可能性(ましてや私には上記ブログのような”前科“がある)もあり、マイケル・ケインみたいに“昔の名前で出ています”という路線の方が安全かも。
 まあ安全第一というのもつまらないので、思い切って跳んでみるつもり。

映画

ゴッドファーザー (原題 The Godfather)1972

監督 フランシス・フォード・コッポラ (1939-)

キャスト ヴィトー・コルレオーネ:マーロン・ブランド (1924-2004)

     マイケル・コルレオーネ:アル・パチーノ (1940-)

 

原作

ゴッドファーザー (原題 The Godfather)1969

作者 マリオ・プーゾ (1920-1999)

 

 

 云わずと知れた興行面・芸術面を総合して映画史上最も評価が高く、1972年の公開時に世界史上最高の興行収入をあげた映画でもある。

 大ベストセラーとなった原作は1969年刊行であるがその前から大傑作として映画化は決定しており、日本語訳も映画公開前に刊行された。当時高校1年だった私も本屋で何気なく手に取って読んでみるとあまりの面白さに時間を忘れてしまい、読み終えてはっと気が付くと外は真っ暗だったのを覚えている。映画公開後に文庫化されたので購入して読み返したが何回読んでも新しい発見があり、映画と原作の理想的なマッチングだと思う。

 

 映画は原作をほぼなぞるようなストーリーであり、ドン・ヴィトーの若い頃のエピソードはpartⅡ(若きヴィトーとヴィトー死後にドンとなった息子のマイケルがクロスカッティングで描かれる)で映画化されたので、原作の大筋はほぼ完全に映画化されたことになる。

 

 

 ただし映画では時間制約があって500ページ近い原作をそのまま取り上げるわけにはいかないため、ヴィトーとマイケル(画像上:マーロン・ブランドとアル・パチーノ)の親子以外のエピソードは大半を切り捨てている。

 

 これに対して原作は20世紀初頭にイタリアから米国に渡った移民たちの群像劇という趣であり、虐げられた彼らを保護する存在としてコルレオーネファミリーが成長していくというストーリーになっている。

 

 なおこの映画ではマフィアという言葉はホンモノからの圧力があったため使わず慎重にファミリーと呼んでいる。なおマフィアというとイタリア系をすぐに思いつくし、語源も狭義にもイタリア・シシリア系のギャングであるが、イタリア系が力をふるったのは禁酒法時代(1920-1933)から1950年代までのまさにゴッドファーザーpartⅠ・Ⅱの時代であり、米国ギャングの系譜からいえば比較的短期間である。

 

 

 そして1901年に9歳で米国に来たという設定のヴィトーは本名アンドリーニであったが、英語ができなかったためエリス島移民局で故郷シシリーの街コルレオーネが姓だと勘違いされて(画像上はエリス島で自由の女神を見つめるヴィトー少年で名札にコルレオーネと記載されている)こう名乗るようになったが、ちょうど禁酒法時代と重なったことにより一大勢力を確立させることになる。。

 そして禁酒法が終わり、麻薬が主たる収入源になりそうな時代には、この商売を嫌ったマイケルはニューヨークからできたばかりのラスベガスに本拠を移してギャンブルとホテルの合法事業に軸足を移すようになる。

 

 

 その際に邪魔になったのがラスベガスを作った男として知られるバグジー・シーゲル(1906-1947)であり、映画ではモー・グリーンという役名で史実通り左目に銃弾を受けてマフィアに粛清される様子が描かれている。(上画像は1991年の映画“バグジー”でのタイトルロールのウォーレン・ベイティとヴァージニア・ヒル役のアネット・ベニングで二人は後に結婚した)

 

 

 またラスベガス進出にあたってのキーマンとなったのがフランク・シナトラ(画像上、1915-1998)をモデルとしたジョニー・フォンテーンであり、映画では馬の首のエピソードくらいしか取り上げられていないが、原作ではシナトラの生涯とほぼ重なるようにキャラクターが練り上げられている。

 シナトラはイタリア系であることを真正面から出した歌手であり、マフィアとのつながりは周知であって、ゴッドファーザーを映画化するにあたりマフィアと映画関係者の間をとりもってマフィアという言葉を使わないようにするとかイタリア人のイメージを損なわないようにするといった交渉を仕切ったとされている。

 

 馬の首の話はフィクションだが、マフィアの圧力により“地上より永遠に”(1953)の役を得たのは事実らしく、何とアカデミー助演男優賞まで獲得していて原作では“このアカデミー賞というやつは単なる仲間内の名誉賞なのかね?それともお前が大スターとしての人気を復活させるのに役立つのかね?(もしそうなら裏から手を廻して受賞できるようにするよ)”と尋ねられるシーンもある。

 

 

 画像上は地上より永遠の1シーンで左からモンゴメリー・クリフト、バート・ランカスター、シナトラ(主演女優はデボラ・カーで彼女が最高に美しかった)であるが、シナトラが一回り小さいことがわかる。真珠湾攻撃前夜の米軍オアフ島基地でチビのイタ公と虐め殺される正義漢という役であるが、シナトラそのままのキャラで名演であった。

 なおイタリア人にはチビだが好色というステレオタイプのイメージがありロッキーのニックネームが“イタリアの種馬”(スタローンと種馬Stallionをかけたもの)であるのはその好例だし、シナトラはその意味でも典型であった。

 

 

 2番目の妻だった大スタアのエヴァ・ガードナー(画像上はツーショット)のコメントとして“彼(シナトラ)は体重55Kgのチビだけどそのうち50KGはペニスなの”というのがある。ゴッドファーザーの出演俳優はリアルさを出すためにだいたいイタリア系なので小柄な方が多く、特にアル・パチーノは165cmと妻役のダイアン・レインよりも低いが、だからこそ逆にドンとしての迫力・重厚さを醸し出していた。

 

 またシナトラ(がモデルのジョニー・フォンテーン)はコルレオーネファミリーがベガスに本拠地を移す際の重要人物でもあり、彼の大スターとしての集客力とハリウッドとのコネクションが活用され、実際にシナトラはそれだけの力を持つ世界一人気がある歌手でもあった。なおシナトラの後を継いで世界一の人気歌手となったのがエルビス・プレスリーであるが、彼もマフィアとの関係でラスベガスから離れることができずそれが世界中をツアーで廻るビートルズとの人気逆転を許す大きな原因となったことが2022年の映画”エルヴィス“で描かれている。

 

 なおケネディは大統領になるにあたり、シナトラとそのつながりのあるマフィアの力をかなり借りており、これは彼が米国史上初のカトリック教徒にしてアイルランド系大統領であるため従来の特権階級であったWASPとの繋がりが薄かったためである。

 

 

 そのためケネディとシナトラとは個人的にも親しかった(上画像はツーショット)のであるが、当選後はマフィアとのスキャンダルを恐れて繋がりを断とうとしてこれが利権争いから後の暗殺につながったという説が有力である。

 もちろんこれはケネディとシナトラという個人間の対立ではなく背後にいるアイルランド系とイタリア系の利権争いがその背後にある。

 

 そもそもイタリア系ギャングが力を握るようになったのは20世紀の初めであり、それまではアイルランド系ギャングが米国の主流であった。映画でいえば1846-1863のNY・ヘルズキッチン(日本では小室眞子夫妻で有名に)を描いた“ギャングオブニューヨーク“(2002)が名高く、画像下は主演のディカプリオとダニエル・デイ・ルイス。

 

 

 当時はアングロサクソン系のWASPが米国の上流階級を形成していたが、英国からの弾圧に耐えかねたアイルランド人はジャガイモ飢饉(1845-1850この期間にアイルランドの人口は半減)を契機にその大半が米国に移民してしまい、新参者の彼らがのし上がるには非合法行為しかなかったのである。

 

 そしてケネディ家は現在米国では唯一の王族的存在で、NYのメトロポリタン美術館を訪問したとき、ジャクリーン・ケネディ(画像下はジョン・F・ケネディとの結婚式)愛用の化粧品なんてものが、古代エジプトの至宝の隣の展示室に並べてあって笑ってしまったが、この一族もアイルランドからこの時期に移民し、1858年生まれの実質初代パトリックが港湾労働者から酒場の経営へそして酒の輸入業者へとステップアップしていった。

 

 

 次の2代目ジョセフは禁酒法時代に密造酒の生産・販売を行っており、マフィアと緊密な関係にあった。そしていよいよ3代目が大統領になったジョン(1917-1963)であり、選挙において父・ジョセフの依頼でマフィアやマフィアと関係の深い労働組合、非合法組織により、ケネディのために買収や不正な資金調達、複数の州における二重投票など、大規模な選挙不正を行うことにより当選することができたというのが定説となっている。

 

 このように当時のマフィアは世界一の大国である米国の国政を左右するほどの実力を備えており。ゴッドファーザーで描かれたようなキューバやローマ法王庁の政争に介入したりするようなこともほぼ史実であって決してオーバーに描かれているわけではない。

 

 

 

 ただしその後は世界の非合法組織の主たる資金源である麻薬ビジネスは上記ブログのようにイタリア系マフィアから中南米の原産地を支配するラテン系に勢力が移るようになり、最初はコロンビア系がそして現在ではメキシコ系のギャング団が支配するようになって、イタリア系時代より桁外れに大きな資金力と軍事力(政府の軍隊とガチで戦えるくらい)を誇るようになっている。

 

 なおシシリーマフィアの発祥は、南イタリアからシシリーにかけて支配したフランスのアンジュー家(初代はシャルル・ダンジュー:シチリア王1266-1282、ナポリ王1282-1285)に対する抵抗であるとされている。

 シチリアのパレルモはホーエンシュタウフェン朝のフリードリヒ2世(シチリア王1197-1250、神聖ローマ皇帝1220-1250、西欧封建社会に君臨した事実上最後の皇帝でありエルサレムをムスリムから平和裏に奪還したことでも有名)が宮廷をおいていた世界の中心の一つであり、コルレオーネ村を建設したのもフリードリヒ2世であるとされている。

 

 

 ところが彼の死後、その後継者たちを虐殺してシシリアを支配したのがフランス・カペー朝の傍系であるアンジュー家であり、これに対して1282年にパレルモで反乱(シシリアの晩祷事件、上画像はフランチェスコ・アイエツによる絵画でヴェルディもオペラ化している)を起こした勢力のスローガンが“Morte alla Francia Italia anela”(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)で、その頭文字をつなげたのがMAFIAだというもので、異説も多いがこの説が一番ドラマチックだろうか。

 

 なおゴッドファーザーpartⅢのラストシーン、パレルモのマッシモ劇場における“カヴァレリア・ルスティカーナ”はまさにシシリアを舞台にした復讐の連鎖・ヴェンデッタを描く作品であり、このオペラをバックに関係者が次々と殺されていく血みどろの抗争劇は700年前のシシリア晩祷事件をモチーフにしたものと思われ、まさに“パレルモの悲劇”としての大団円は南イタリアにルーツを持つマリオ・プーゾとフランシス・フォード・コッポラの執念を感じる。

 

 現代国家は予算の多くを社会保障費や道路建設費などに廻しているが、ついこの間までは世界中どこでも国家予算の大半は防衛費・軍事費にあてるのが当り前であった。
 命あっての物種であるから、健康で便利な暮しよりもまず他国から攻められて殺されないように防衛が最優先ということである。

 日本は少なくとも歴史記述が始まって以後は強大な異民族が列島内に常住していなかったため、それほど大規模な防衛施設は必要ない場合が多かった。

 

 

 しかし対外的に緊張した時代-例えば天智天皇の時代、白村江の戦(663年)で唐に大敗(上記ブログでその古戦場の訪問記を引用)した直後は、大宰府防衛のための日本版万里の長城である水城(みずき・画像下はその航空写真であり規模の大きさがわかる)や北部九州・山口の各地に残る神護石(こうごいし)を築き、唐・新羅からの侵攻に備えた。



 画像下は福岡県行橋市に今も残る御所ケ谷神護石であるが、山全体を石垣で囲む壮大な要塞であり、もし関東・関西にあれば全国的に著名な大観光地になっているだろう。



 当時の宮殿である飛鳥板葺宮が文字通りの板葺きの掘っ立て小屋みたいなものだったのと比較しても、まさに国富と傾けた大工事であったと思う。
 ただし神籠石は山中にあるためか長い間忘れられた存在であり、その名前からも宗教施設であると誤解されていて、これが防衛施設・山城であることが確定したのは1960年代である。

 これが異民族との絶え間ない抗争の連続である大陸の国家となるとその規模は壮大になり、国家構成員全員が篭城できるような城壁都市が各地に建設されることになる。

 また戦国大名か誰かが云った諺?として“篭城戦に勝ったためし無し”というのがある。しかしこれは日本・海外を問わず全くの逆であって、通常の戦争というものは篭城側が勝つのが当り前であり、城にこもられると攻め手はお手上げなので周囲を略奪してお茶を濁すというのが常態であった。何となく攻城戦というのは攻め手の側が勝つことが多いような印象があるが、それは落城というのが非常に珍しい歴史に影響を与える大事件であるので、インパクトが強いというだけなのである。
 したがって国という漢字が城壁の中に玉がいることを示すように城壁に囲まれた地域を中心に国家というものは成立していたのである。

 そのため多民族を征服した大帝国というのは攻城戦に長けた国である。歴史に残る大帝国といえば、まずはアッシリア、次にアケメネス朝ペルシアを経てアレクサンダーとその後継者の諸国、真打としてローマというところだろうが、これらはすべて攻城・工兵技術の伝統が伝わってきた国・時代であるといえる。
 また攻城技術に長けているということは築城技術も優れているということであり、これらの大帝国は各地に堅固な城を築き防衛にあたったので、基本的に篭城側優位という状況は変わっていない。

 しかしローマ帝国が衰え中世の暗黒時代が始まると、それらの技術は失われ時代は再び群雄が各自の小規模な城に割拠する封建時代になっていった。
 なおヨーロッパではグレコローマンの栄光から1000年近く暗黒時代が続いたことからもわかるように、時代は常に進歩しているというのは我々の世代に多い短期間の自分の経験からしか考えられない錯覚・楽観論に過ぎない。もっとも最近の若い人はむしろ退歩の時代を肌で感じているかもしれないというのはちょっと残念な時代になったものであるが。



 また中国の万里の長城(画像上は北京近郊の八達嶺の部分)といえば、無用の長物の代名詞のように現在では考えられているが、これは全くの逆であって世界の大半を征服したモンゴル軍団くらいでないと踏み破れないほど防御効果があったというべきである。
 そうでなければ春秋戦国時代からつい最近に至るまで延々と建設され続けた(秦の始皇帝が建設したというイメージが強いが現存するのは明代のものが多い)わけがなく、明が清に滅ぼされた時も天下分け目のサルフの戦い(1619)で明に完勝した清軍も山海関(満州の関東軍というのは箱根の関より東という意味の関東とは関係なく、この山海関より東という意味)から延びる長城を越えることは不可能であり、それが可能になったのは守将呉三桂の裏切り(背後から李自成の反乱軍が迫っておりやむを得ない面もあった)によるものであった。

 古代の遺跡・歴史的建造物観光といえば、宗教施設と防衛施設が双璧であるが、防衛施設はまさにその機能美というか“用の美”のようなものを感じる。
 数世紀にわたり敵の攻撃を跳ね返してきた城壁はその代表であり、日本では加藤清正が築いた熊本城は近代戦の時代になっても西南戦争で薩軍の攻撃をしのいだ。天守などが西南戦争で焼失しなかったら、姫路城なんか問題ならないくらい日本一の城として認知されていたのではないだろうか。



 個人的にはネブカドネザル(在位紀元前605-562)が築いたバビロンの城壁(画像上は想像図で中央を流れるのはユーフラテス川)に一番興味があるが、とうの昔に地中に埋まってしまい、その一部は残念な復元のやり方で・・・

 このような技術的な進歩や衰退はあったものの、古代からほぼ一貫して続いてきた篭城側・防御側優位の時代に幕が降りたのは新しい技術である大砲の出現の要素が大きい。史上最大の攻城戦といえば、日本では豊臣家が滅んだ大阪冬の陣・夏の陣(1614-1615年)、海外では2000年以上続いたローマ帝国が最終的に滅んだコンスタンチノープル攻略戦(1453年:画像下)であろうが、いずれも当時の新技術である大砲が大きな役割を果たしている。



 そして大砲の進歩により城壁というものは存在価値が低下していく。現代では利便性の観点からほとんどの城壁が破壊されてしまい、完全な形で残っていて観光客を集めているのは西安(唐代の花の都長安だが現代に残る城壁は一回り小さい明代のもの)、エルサレム(大半はオスマン・トルコ時代のもの)、ニュールンベルク(大戦時の空爆で壊滅的な打撃を受けたがここまで完璧に復元させればある意味オリジナル以上の見ものかも)など限られた都市であるのは遺跡オタクの私としては残念である。

 そして現在では航空機・ミサイルや核兵器の出現により攻撃側優位はますます顕著になりつつある。今や”防衛”という概念そのものが敵の攻撃を直接防ぐというよりも、敵に攻撃されたときに報復攻撃の準備をしておくことに重点が移っている。

 しかしそういう時代だからこそ”防衛のための攻撃”ではなく、”防衛のための防衛”技術というのは世界平和のために意義があるのではないだろうか。

 私は以前に大砲のような物理的な力に対する防御と核兵器のような放射線(その中でも特に有害なのは中性子線)に対する防御の両方を可能にする防護材料というのを研究していたことがある。
 これは物理的な衝撃というのは防護材中を伝わる衝撃波の速度と拡がりで決定され、それは単位重量あたりの弾性率の函数であるというballistic materialの考え方と、防護材そのものの原子核変換による中性子吸収をハイブリッドさせた設計思想(特許や論文で公開しているので機密事項でも何でもない)であった。

 特に当時将来核兵器の主流となると予想されていた中性子爆弾に対する防御としては最適と考えられ、その旨下記ブログようにペンタゴンでプレゼンをしたこともある(防衛庁にはそのような危機感は全く無かったため、結局は物理的衝撃に対する防御のみが議論の対象に)。

 

 

 中性子爆弾はその後核兵器の主流からは外れることになり、結局は私の研究も中性子吸収材料に関しては下記ブログのように中性子の有効利用(特に医療・バイオ分析の分野)に重点を移すことになった。

 

 

 私が防衛分野に関わったのはそのときだけであるが、日米の防衛に関する意識の差には考えさせられたものである。
 また世界で最も防衛に関して敏感なのはイスラエルであり、下記ブログのようにウジ―マシンガンやメルカバ戦車で有名なIMI社に売り込みをかけた際の先方の“我々の基本設計原理はまず生き延びることです”というコメントは非常に強く印象に残っている。

 

 


 現代は実に平和な時代であり、少し前まで人類にとって最重要であった”敵の攻撃に対してどう防衛して生き残るか“という課題に対して、通常はあまり考える機会もない。
 しかしこれはまさに例外中の例外の異常な時代であり、明日にもその状況は変わるかもしれない。そう考えれば我々日本人の平和ボケは、周囲にどのような国が存在するかを考慮すれば大きな問題であろう。



原作者:イアン・フレミング (1908-1964)

<ジェームズ・ボンド:ショーン・コネリー (1930-2020)>
ドクター・ノオ(1962) 原作 Dr. No(1958)
ロシアより愛をこめて(1963) 原作 From Russia, with Love(1957)
ゴールドフィンガー(1964) 原作 Goldfinger(1959)
サンダーボール作戦(1965) 原作 Thunderball(1961)
007は2度死ぬ(1967) 原作 Only You Live Twice(1964)

<ジェームズ・ボンド:ジョージ・レーゼンビー (1939-)>
女王陛下の007(1969) 原作 On Her Majesty’s Secret Service(1963)

<ジェームズ・ボンド:ショーン・コネリー (1930-2020)>
ダイヤモンドは永遠に(1971) 原作 Diamonds are Forever(1956)

<ジェームズ・ボンド:ロジャー・ムーア (1927-2017)>
死ぬのは奴らだ(1973) 原作 Live and Let Die(1954)
黄金銃を持つ男(1974) 原作 The Man With The Golden Gun(1965) 
わたしを愛したスパイ(1977) 原作 The Spy Who Loved Me(1962)
ムーンレイカー(1979) 原作 Moonraker (1955)
ユア・アイズ・オンリー(1981) 原作 For Your Eyes Only (1960)
オクトパシー(1983)
美しき獲物たち(1985)

<ジェームズ・ボンド:ティモシー・ダルトン (1946-)>
リビングデイライツ(1987)
消されたライセンス(1989)

<ジェームズ・ボンド:ピアース・ブロスナン (1953-)>
ゴールデンアイ(1995)
トゥモロー・ネバー・ダイ(1997)
ワールド・イズ・ナット・イナフ(1999)
ダイ・アナザー・デイ(2002)

<ジェームズ・ボンド:ダニエル・クレイグ (1968-)>
カジノ・ロワイヤル(2006) 原作 Casino Royale(1953)
慰めの報酬(2008)
スカイフォール(2012)
スペクター(2015)
ノー・タイム・トゥー・ダイ(2021)

(シリーズ以外の番外作品)
カジノ・ロワイヤル(1967)  原作 Casino Royale(1953)
ネバーセイ・ネバーアゲイン(1983)  原作Thunderball(1961)

 映画は現在までシリーズで1962年から25作制作されており今後も当分続くと予想されるので世界史上最も成功した映画シリーズといえるだろう(興収だけならスターウォーズとかマーベルのシリーズの方が上かもしれないが)。
 私も1965年のサンダーボール作戦からは封切りで、それ以前の3作はリバイバルか名画座でと全て劇場で観ており、子供心にボンドのカッコ良さとボンドガールの色気(下画像は初めて観たサンダーボール作戦のクローディーヌ・オージェでビキニに水中銃という姿が衝撃的)に圧倒されたものである。



 イアン・フレミングによる原作は1953年からで長編12作にプラスして短編集や雑誌掲載分もありほぼすべてがハヤカワミステリと創元から邦訳されており私も全部読んでいる。
 なお小説としては最初からそれほどヒットしたわけではなく、映画化第一作のドクターノーも低予算映画だったし、映画が第三作のゴールドフィンガーくらいから有名になりそれから小説も売れ始めたというのが実態に近い。

 フレミングはイートン校から欧州各地に遊学という典型的な英国紳士であり、第二次大戦中に諜報活動に関わったことから自分の経験を基にボンドシリーズを書き始めた。
 その作風は、従来の英国における主流であった重厚なリアリズム派スパイ小説(代表作としてサマセット・モームの“アシェンデン”やグレアム・グリーンの初期諸作)とは対極にあり、米国のハードボイルド的な暴力やアクションを描くが背景設定としては華やかで享楽的というもので、あまり”文学“としては評価されなかったが映画には向いていた。
 なおフレミングは文学的低評価に反発したのか1962年の私を愛したスパイ(The Spy Who Loved Me)では性的描写を含むリアリズム調の異色作を発表したが、単なるポルノと酷評され、1977年の映画化時には採用されたのはそのタイトルだけだった。

 したがってボンド役には典型的な英国紳士(のように見える)役者をフレミングは希望していたのだが、選ばれたのはガサツな(よく言えばエネルギッシュな)ショーン・コネリー(下画像は”ドクター・ノオ“撮影時のフレミングとコネリーのツーショット)であり、フレミングは自分のイメージと正反対と反対したらしい。



 しかしこの人選は大正解であり、以後のボンドのイメージを決定付けることになった。
 またボンドはスコットランド人という設定であるがこの点でも典型的なスコットランド気質であるショーン・コネリーはぴったりと思われたのかもしれない。

 なおショーンとかシェーンとかいうのは典型的なケルト系(アイルランド・スコットランド・ウェールズ)の名前であり、英語ならジョン、他言語ならジャン、ヨハン、ヨハネス、ハンス、フアン、ジョアン、ジョヴァンニ、イヴァン、イアン、ヤーノシュ、ヤンなどに対応している。(下記ブログ参照)

 

 

 2000年にわたるゲルマン人とケルト人との抗争は、アングロサクソンのブリテン島への侵攻以来、イングランドとスコットランドの対立感情に受け継がれている。

 そして2012年の”スカイフォール“(個人的には一番傑作だと思う)はボンドの出自がスコットランドであることを正面から取り上げた作品であり、ラストシーンのボンドらが原始的な武器で強大な敵をスコットランドの生家で迎え撃つのはカローデンの戦い(1746)でのハイランダーをイメージしたものであろう。

 英国紳士のというかフレミングの嗜みとしては酒とギャンブルがまず挙げられるが原作と映画にもたっぷりと取り上げられている。
 酒では”ウォッカ・マティーニ、ステアでなくシェイクで“という名セリフが有名であるが実は原作にはそんなシーンは少ない。

 

 

 ボンドのイメージからしてもカクテルなんて軟弱な?ものは似合いそうもなく(上記のブログのような混ぜるためにできた酒はないと言った開高健のイメージも同様で影響を受けたかも)、原作で好んで飲んでいるのはストレートのウォッカであり、またシェイクなんかしたら水で薄まってしまう。これはおそらくはマティーニはオリーブが飾られているので一目でわかること(下画像はダニエル・クレイグ)とシェイクの動作はステアに比べて派手なため、映画向きであることからの脚色であろう。



 なお原作にはウォッカにコショウを加えて“昔のソ連のウォッカはフーゼル油が混じっていたのでコショウで沈降させて飲んでいるうちに癖になってしまって”とつぶやくシーンがあり、こういう武骨な飲み方がボンドには似合っていると思う。

 ギャンブルに関してはカードゲームで有名なシーンが多く、特に2006年の“カジノ・ロワイヤル”は悪役ル・シッフルとのカジノでのカード対決(画像下)がクライマックスとなっている。



 ところでこの画像でプレイされているのはポーカーのバリエーションであるテキサス・ホールデム(2枚の手札と最大5枚の場札を組み合わせて役を作り、場札が公開されるごとにベットしていく)であるが、1953年の原作ではバカラであり、番外編のカジノロワイヤル(1967:画像下、ボンドが5-6人出てくるドタバタコメディーであるが、同時期のシリーズ作”007は2度死ぬ”よりもむしろ大作)でプレイされているのももちろんバカラである。



 これは50年代から60年代にかけての欧州社交界が華やかであった頃のカジノでのカードゲームといえばバカラだったからである。
 しかしながらバカラはカードカウンティングのイカサマ(といっていいのかわからないが現在ほとんどのカジノで禁止されている)を本質的に防止できないし、アジアのカジノがバカラの本場になって欧州上流階級のシンボルとしての位置付けも微妙になったし、ルールがあまりにも単純(だからこそ奥が深いという見方も)ということもあって、しだいにテキサス・ホールデムに他のカジノ・カードゲームも含めて欧米では駆逐されつつあるようだ。

 なお原作でのカジノはフランス・ノルマンジーのローカルなカジノという設定であったが映画ではモンテネグロ(ロケ地はチェコ)という設定であり、要はモンテカルロのようなド派手で観光客だらけのカジノではなく落ち着いた場所だからこそ血なまぐさいシーン(原作も映画もBDSMシーンは最も強烈)が映えることを狙っているのだろう。 

 またカードゲームシーンを詳しく解説している作品としては、“ムーンレイカー”の原作ではコントラクトブリッジのシーンが10数ページにわたってお互いにイカサマをしかけ合う詳細な手の描写と共に書き込まれている。しかしながら訳者がブリッジのルールを全く知らないので、抱腹絶倒の珍訳(少なくとも初版は)になっていた。
 これはブリッジというのは親になったプレーヤーがパートナーの手をさらして二人分プレーするというゲームであるのに、訳者はこれを知らずにナポレオンと副官のつもりで訳しているのでとんでもない展開になっている。

 それだけブリッジというのは日本ではあまり人気がないゲームなのであるが、1964年のゴールドフィンガーでは、オリジナルではグランドスラム(ブリッジでは一番高い役)計画といっていたのが、字幕では満塁ホーマー計画と意訳?されていたこともあった。
 なおコントラクトブリッジは欧米では非常に人気があって世界選手権のバーミューダボウル等が有名で、チェスと並んで最も多種の戦略書籍が出版されているスポーツ(海外ではこの種ゲームはスポーツ扱い)とも云われている。

 私はゲームフリークでありブリッジも本で少しだけ齧ったが、私の友人で囲碁とブリッジの両方で何度も全日本を制したK氏のパートナーとして少し教えてもらったものの、本からの知識は全く通用しなかった。囲碁では本を読むだけの2年間で下記ブログのように初段くらいまでいったのだがやはりブリッジは対人ゲームで対盤ゲームの囲碁とは異なり実戦を重ねないとその本質が理解できないようだ。

 

 

 K氏は常に穏やかな物腰で試合中も殺気立った表情を見せない“本物の勝負師”で、私が囲碁で頂点に立てなかった(団体戦では学生・社会人時代を通じ何度も日本一になったのだが)大きな原因の精神面の未熟さをいつも反省させらる。



 さてこのような”飲む”・鬱(原作のボンドはフレミングの気質を反映しているのかかなり鬱気味なのだが)じゃなくて”打つ”ときたら次はボンドの真骨頂である女性関係であるが、最新作では飾り物的なボンドガール(今はボンドウーマンというらしい)は出てこないどころか007その人に黒人女性が起用される(画像上、ダニエル・クレイグ=ボンドは引退したという設定のため)というストーリーで驚いた。
 Mに女性(ジュディ・デンチ)がマネーペニーに黒人(ナオミ・ハリス)が起用された時は驚くどころかこれまでで一番のハマリ役でいいと思ったがさすがに007本人が黒人女性とは・・・まあこれが世の中の流れというものだろうか。

 食べ放題とか飲み放題とかの“放題”は何か人をウキウキさせる響きがある・・・というかあった。
 しかし“飲み放題”に関しては居酒屋での宴会では幹事の手間を省くために当り前になり、食べ放題ではホテル・旅館の朝食メニューでは店の手間を省くためにこれも当り前になった。



 一時流行ったバイキング(これは日本独自の呼び名で北欧にはそんな料理はない)とかビュッフェ(本来はセルフサービス形式のパーティーという意味であるが店舗で採用すれば結果的に食べ放題になる)といったレストランもほとんどが廉価店となり、例えば50年ほど前の開店時にはお洒落なピッツェリアチェーンだったシェーキーズは今や高校生御用達のピザ食べ放題店である。
 これは元々米国に数多くあった“All You can Eat”方式のレストランが廉価エスニック料理中心であることからも当然の帰結である。

 現段階でまだ人気がある形式としてはオードブルビュッフェにメイン料理をプラスするコース料理仕立て(日本で有名なのはニューヨークグリル)であるが、私が40年ほど前に初めてフランスを訪問した時は中級程度(ワイン込みで一人3-5千円ほどであり、あの頃の円は強く欧州の物価は安かった)のレストランでこの形式が大流行していた記憶がある。

 まあ料理の全て(又はその大部分)が食べ放題だと原価計算上もそんなに美味しいものが出てくるはずもないが、その一部だけが食べ放題ならばどうか?



 そういう意味では私は味とCPの両方で最強だと思うのは丸亀製麺のネギかけ放題であり、店舗自体もうどんが見えなくなるくらいネギをトッピングすることを推奨?しているので私も罪悪感(笑)なしでその推奨に乗っかっている。
 まあネギにそれほど興味がない方にとってはこのサービスはあまり食指をそそられないであろうが、私は香味野菜が大好きで日本のものだと特にネギを好み、お好み焼き店に行けばネギ焼きを注文し、ラーメンチェーン店なら魁力屋(なぜか京都発祥のラーメン屋はネギ入れ放題の店が多い)をよく利用している。



 またタイでは下記ブログのようにレストランでは無料のパクチーがボウルに山盛り(上画像はイメージ)でサービスされるのをあらゆるメニューに料理が見えないくらい手づかみでぶっかけて、さらにお代わりボウルをもらうのを常としていた。

 

 


 おまけに丸亀製麺は最近入れ放題トッピングにネギに加えてワカメを追加して、ライバルのはなまるうどんをさらに引き離しにかかかったようだ(現在店舗数が倍、売り上げ4倍に利益10倍)。正直うどんだけならはなまるの方が少し美味しいと思うが、どちらももちもちした讃岐うどんであることに大差はない(下記ブログ参照)ので、やはり“放題”の魅力には勝てないと思う。

 

 

 なお丸亀製麺は“釜揚げ”の方が“かけ”や”ぶっかけ“より安いという異常な値段設定でも知られているが、これは看板メニューの釜揚げに顧客を誘導したい(早くさばかないと熱湯内で保存しているのでふやけてしまう)という意味にプラスして、つけつゆのお椀は丼に比べると小さいためネギをそんなに大量には入れられないという理由もあるのかもしれない。もっともそういう客のためにネギ(等)を入れる別容器を準備しているという至れり尽せりのサービスぶりではあるのだが。

 また魅力的な食べ放題としてはわんこそばや韓国料理のバンチャン・ブラジル料理のシュラスコ等も有名であるが、何と云っても横綱格はチーズワゴンだと思う。



 フランス料理のコースで最後のチーズは日本ではだいたい有料であるが、フランスでは原則的に無料で、ワゴンで数多くサービスされるものを何でもいくらとっても良く、私はだいたい(数がそれほどでもなければ)全種類試してみることにしている。
 まあこれは日本ではチーズをそれほど大量に食べる方は少ないので無料にしては不公平になるし、フランスで無料なのはチーズに合わせてのワインの追加注文を期待しているからだろう。

 私は学生時代の一時期、晩飯はチーズ数種類とパンに赤ワインだけで済ましていたほどのチーズ好きであり、特に山羊やウォッシュ等の癖が強いものを好んでいる。
 そして仕事でフランスに滞在していた時のこと、ロックフォールの産地を通りかかった時に田舎のレストランに入ると、看板メニューがロックフォールのパスタとあったので、日本でもよくあるゴルゴンゾーラを溶かしてパスタに絡めたものだろうと思って注文してみると、意外にもサラダ仕立てでパスタ以上の大量のロックフォールであえた料理であって感激したのを覚えている。

 また買収したロワール川中流域(ホテルの庭にはシャロレー牛が放牧?されているほどのド田舎)の工場に技術指導(私が開発した技術が採用されていた)で滞在していた時、現地のローカルなチーズであるサントモール・ドゥ・トゥーレーヌ(画像下:円筒形のシェーヴルで中央に藁を刺している)を毎日のように食べていたが(周辺には一切レストランはなくホテルのダイニングでシャロレービーフとこのチーズが定番)、その後このチーズはブレイクして世界中で有名になり日本でもちょっとしたチーズ専門店なら買えるようになった。



 そして上記のフランス工場(プラス西ドイツ工場で2工場体制の企業)の買収(といってもマイノリティーだが)にあたっては所有者であるフランスの世界最大のセメント会社から株を譲ってもらう必要があった。
 そしてその会社の創業一族夫妻との最初の顔合わせの席となったのが、パリのトゥール・ダルジャン(画像下は改装後の店のホームページからで、当時はこんな開放的な雰囲気ではなかったがセーヌ川とノートルダム大聖堂を臨む大パノラマはよく覚えている)であり、この私が開発した技術がいかに双方の会社にとってまた人類の進歩にとって有益であるかに関して熱弁をふるった覚えがある。



 私にとっては海外どころか日本でもしたことがない初めてのホスト役接待で、英語での会話も負担になりどんな料理が出たかなんて全く覚えておらず、有名な鴨のナンバープレートも記憶にない。
 ただ唯一憶えているのが食後の豪勢なチーズワゴンであり、交渉がうまくいって(まあだいたい下交渉で合意はとれていたのではあるが)ほっとして我に返り、例によって全部と・・・さすがにおかわりまではしなかったがゲスト夫妻とはチーズに関して話が弾んだ。

 なお私はセラミックス系の素材開発を新入社員時代から退職してフリーランスになった今も専門としているのだが、この件をきっかけにして外国人相手の交渉力に長けていると思われるようになり、この手の仕事がよく廻ってくるようになった。(下記ブログ参照)

 

 

 

 


 外国人は一般的には日本人より大量に食べ飲酒量も多いが、この点では私はあまり人に負けたことがなく(所謂鯨飲馬食であるが酒を飲まない時は少食)、これは相手と打ち解けて交渉をスムーズに進めるのに役立っているかもしれない。

 母が享年100歳で亡くなってからもう5年になる。(下記ブログ参照)

 

 

 最後の10年ほどは病院に連れていくために月に一度くらいは故郷の松山に帰省していたのだが、それ以後は松山との縁が切れてしまい最近は高校の卒業50周年同期会に出席したくらいである。(下記ブログ参照)

 

 


 したがって両親の墓参りにもほとんど行けていないのだが、母の口癖で”お墓とか葬式とかは生き残った人の自己満足のためにあるのだから、死んだ人を気遣う必要は全くない“というのに私も同感して、あまり気にしないことにしている。
 なお本当に気になる場合には、下記ブログに書いたように青森県の恐山を訪問して直接本人?とコンタクトしてみるという手段もあるので、参考までに。

 

 

 まあ私もそのうち死ぬのだが、その後のことなんか全く興味がなく子供たちが勝手にすればよいと思っている。たいした遺産もないし、先祖代々の菩提寺も後継者が数年前にいなくなったし(両親が墓を寺から市営墓地に移したのは正解だった)、そもそもその頃は宇宙葬の時代になっているかも。



 松山には高校卒業までしかいなかったので所謂“夜の街”(画像上の大街道の東側であり、中四国では広島に次いで賑やかだった。なお西側は子供でもOKの“昼の街”)にはあまり詳しくなかったのであるが、頻繁に帰省するようになると馴染みの店もできそこでの偶然の?出会いの話を以下の日記から引用する


(2014年06月12日 作成)
 最近母の調子が思わしくないので故郷の田舎町によく帰省するようになった。
 思わしくないとはいえ93歳にしては驚異的に元気であり、先日生まれて初めて!の入院で癌の摘出手術をしたのだが、転移もたいしたことがなく主治医からこの癌で死ぬことは無いですと太鼓判を捺されるくらいである。

 しかし以前のような夜更かし(母と深夜まで囲碁を打っていると私の方が先にダウンしてしまったものだったのだが・・・)をすることがなくなったので、母が眠った後に私が夜の街に飲みに出かけることが多くなった。
 故郷の町は所謂地方中心都市であるが、ここ数十年は帰省するたびに夜の街が淋しくなっているようだ。

 これは日本全国どこに行っても感じることであり、今や日本の都市の盛り場は京浜・阪神・博多の三大都市圏(もう30年以上行っていないのでわからないが札幌は勢いがあると聞くので四大都市圏か)以外はジリ貧になりつつあるようだ。



 例えばこの三十数年の半分近く住んでいた北九州のシャッター街化(これを逆手に取って画像上のようにシャッターアートで街興しなんてのもあるが)は目を覆うほどであり、名古屋・京都の繁華街も昔の賑わいは無い様に感じる。
 これはおそらく都市のドーナツ化現象であり、所謂飲み屋街が昔ながらの中心部繁華街から郊外の住宅街の近くに移ってしまったからであろう。
 この現象は米国が先輩格であり、初めての都市に出かけるときにダウンタウンにホテルをとってほしいと依頼すると、私は繁華街に泊まりたいと希望したつもりなのに、先方から“淋しいダウンタウンになぜ宿泊したいのか?賑やかな郊外(笑)にしておきなさいよ”とよくいわれたものである。

 そんな故郷の町のさびれつつある繁華街であるが、先日の夜にうろついていたとき(私は下記ブログのようにバーホッピングで夜の散歩?が大好きだった)に路地裏に珍しく人が溢れている立ち飲みバーを見つけてふらりと入ってみた。

 

 

 驚いたことにカウンター内のスタッフはカタール人(アラブ人)、パキスタン人(ロシア系とのことで見かけは普通の白人)、韓国人女性二人(バイトで入った交換留学生)であり、そして左隣の客はアルゼンチン人、右隣の客はポーランド人とバラエティー?に富んでいる。
 そしてどの酒もショットで3-500円という安さであり、カウンターに椅子を並べれば8席くらいしか取れそうもないスペースに50人程度の客が入り、半分近くは路地に溢れ出ている。

 どこでも外人客が多い店は安いとしたものだが、これは私が現在住んでいる茅ヶ崎はサーフィンのメッカ?であるため、(一般的には金がない)サーファーが集まる店は安いというのと同じ理由であろう。
 なお私はサーフィンどころか茅ヶ崎の海に入ったことすらないが、この基準で飲み屋を選ぶためレジェンドクラスも含め(というか湘南の波はショボいので昔の著名人が残っているだけかも)サーファーたちとはずいぶん親しくなり、彼らのサーフィンのために生きるという人生観は何か理解できるような気がしている。

 さてその故郷の町の立ち飲みバーで、後ろで飲んでいたトルコで発掘中というヒッタイト史学者と知り合い話がはずんだ。



 彼によればヒッタイト(画像上)が製鉄技術を発明(少なくとも最初に普及)したため鉄製武器でオリエント諸国の覇者(紀元前1274のカデシュの戦いでエジプトを破ったのが有名で史上初の国際平和条約を締結した)になったという一般的常識?は全くの間違いであり、当時の鉄は貴重品で武器にするなんてとんでもない話で、せいぜい装飾品程度ということである。
 後で調べてみると、大学の製鉄史研究センターだかの所長でヒッタイト史の世界的権威みたいなので、どうやらこれが最新の学説のようである。

 

 

 私の専門はセラミックスであるがどちらかというと粉体工学寄り(詳細は上記ブログ参照)であるため、このセラミックスで培った粉体工学の知見を金属-特に最もメジャーな金属である鉄の製造に応用したいというのは昔からの夢であった。
 もちろん粉末冶金というのは昔からある製法だし日本刀の世界は典型的な粉末冶金技術であるが、私が考えているのは砂鉄からではなく鉄鉱石からの直接粉末冶金技術である。

 十数年前に思い付いて特許だけは取得したのだが、残念ながら実用化のための要素技術が不足でこれまで放置してきた。



 北九州に長年住んでいたため製鉄会社の技術陣に相談したこともあるが、彼らの反応は“鉄の精錬はヒッタイト以来3500年かけて現在の高炉(画像上)・転炉の形に進歩してきたものであり、素人が思いつきでモノを云ってもねえ・・・”というものであった。
 そして鉄の粉末冶金では世界最先進国であるスウェーデンから前記特許の引き合いが来たこともあるが、私が実用化のための要素技術のアイデアを持ち合わせていないことがわかると当然ながら引かれてしまった。

 

 

 今実用化に向け米国でのマーケティングを立ち上げようとしている研究テーマ(その顛末は上記ブログ参照)は、もちろんセラミックスを第一ターゲットにしたものであるが最終的には粉末冶金-特に鉄の製造に応用するための要素技術になるのではないかと密かに期待している。

 先日のバーで製鉄史の権威に出会ったというのも、偶然ではなく何かのめぐり合わせかもしれない・・・というのは楽観(私の囲碁関係者内でのニックネームは楽観派のキョショーであり、囲碁の形勢判断に限らず何でも楽観的に考えるのは子供時代から)を通り越してオカルトか神頼みのレベルかもしれないが。

 先日7月25日発行の月間アフタヌーンで幸村誠の“ヴィンランド・サガ”が20年の連載を終え、全220話で完結した。



 私が一番好きだった漫画であり、突然の終了は残念であるがストーリー的に余韻を残してこの辺りで終わるのが妥当かもしれない。

 ヴィンランド・サガはバイキング全盛時代の11世紀初頭に、コロンブスに500年近く先駆けて北米に植民したバイキングの一団を描いたもので、主人公のトルフィンは実在の人物であるソルフィン・カルルセヴニ(970-?)をモデルにしている。
 画像下はフィラデルフィアにある彼の像であるが、コロンブスよりは平和のシンボルとして好適で、この漫画は欧米でも人気であるから今後ブレークするかも。



 物語の最初の2/3はアイスランド・イングランド・デンマーク・バルト海南岸を舞台にクヌート大王(在位1016-1035)の覇権確立と並行してトルフィンが成長し、最後の1/3がトルフィン率いる開拓団の北米での活動が描かれている。

 フランスの大河小説でシリーズ映画化(画像下はタイトルロールのミシェール・メルシエのクレタ島での奴隷市場シーン)されたり、木原敏江による漫画化を原作に宝塚でも何回もミュージカル化されたりもした“アンジェリク”が、邦訳された分の全26巻では最初の1/3が欧州・地中海・北アフリカで、新大陸(カナダのフランス植民地ヌーベルフランス)に渡ってからが残り2/3というのと似ている。



 なお映画も漫画も宝塚も最初の欧州時代しか取り上げていないが、この小説の本題は新大陸に移ってからであり、邦訳終了以後もカナダでの活躍が延々と続き、最後はフランスに帰国してルイ14世と再度対決するというストーリーらしい。

 ヴィンランド・サガも同じようなペースだと私が(作者も?)生きているうちは完結しないのではないかと懸念していたのであるが、幸いなことに・・・
(以後は最終回のネタバレが含まれます)


幸いなことに急転直下で完結して正直ほっとしている。ひょっとしたらさらに奥地に移動して延々と開拓が続き彼らの行方は誰も知らない・・・という終わり方かもと思っていたのだが。
 なお史実ではこの植民事業は原住民との対立により結局成功せずにグリーンランドに引き上げたわけであるので、史実通りの結末といえるだろう。ただしそれは単なる失敗ではなく、欧州での争いを逃れて理想の国を創るための企てでありその理想を達成するためには原住民と争うわけにはいかないということで、さらに理想に向けて再度挑戦しようというポジティブな終わり方になっている。

 私が漫画に一番嵌っていたのは昭和30年代の月刊誌全盛時代(下記ブログ参照)

 

 

であって、当時は手塚治虫の”鉄腕アトム“、横山光輝の”鉄人28号“、白戸三平の”サスケ”などに夢中になっていた。
 それが週刊誌全盛時代になるとどうもそのペースの速さがうっとおしく感じるようになり、またストーリー漫画そのものにあまり興味が持てなくなった(いしいひさいちのギャグ・4コマは大好きだったが)こともあって、長年漫画から遠ざかっていた。

 それが20年ほど前から下記の三つの漫画に嵌って、連載を追いかけるようになった。
 この”ヴィンランド・サガ“に加えて、岩明均の”ヒストリエ“と羽海野チカの”3月のライオン“であり、ストーリーも絵も図抜けて素晴らしいと思う。



 ヒストリエは古代ギリシア・アレクサンダー時代の実在の人物・エウメネス(紀元前362-316)の一代記であり、彼はアケメネス朝ペルシアを滅ぼして世界帝国を築いたアレクサンダー大王の死後、後継者争い(ディアドコイ戦争)における一方の旗頭である。
 したがってアレクサンダーが亡くなってからがこの作品の本番と予想されるにもかかわらず、20年連載してようやくアレクサンダーが父王の暗殺後戴冠という段階であり、これはもう未完結に終わるのが既定路線?のようなものであったが、昨年夏についに長期(無期限?)休載が発表された。

 トルフィンもエウメネスの歴史上の実在人物とはいえ、それほどその生涯が明らかになってはいないのいくらでも想像力を働かせてストーリーを作る余地はあるが、その背景となる歴史上の有名人物はしっかりと史実をふまえて描写されている。
 特にヴィンランド・サガのクヌート大王とヒストリエのアレクサンダー大王は世界史上の最重要人物の一人であり、どちらも父親が征服王的存在であったがその暗殺(クヌートの父のスヴェン1世は史実では暗殺ではないとされるが急死のタイミングが・・・)により後継者となりそれをはるかに凌駕する大王となるという点で共通している。

 なおアレクサンダーは繰り返し映画(画像下はオリヴァー・ストーンとコリン・ファレルによる”アレキサンダー“2004)・小説・歴史書に取り上げられているが、クヌートに関してはそれほど有名ではなく、これほど詳しく取り上げられたのはヴィンランド・サガが初めてだと思う。



 またクヌートはデーン人であるがデンマークとイングランドの王を兼ねており、ハムレットに描かれるように(舞台はクヌートより200年近く前のデンマークであるが、ハムレットがイングランドに派遣されるシーンがある)両国が密接な関係にあったのは、イングランドの広大な国土がバイキングに占領されてデーンロー地域になっていたため。

 なおイングランドは最終的に同じくバイキングがフランス・ノルマンディー地域に土着したノルマン人に1066年に征服され、この体制が何と現在まで続いている。このノルマンコンクエストはノルマンディー公ウィリアムがアングロサクソン系の諸王やクヌート大王と姻戚関係にあることから王位継承権を主張したもので、単純なバイキングによる侵略ではない。

 ヴィンランド・サガはこういう時代を背景に英国編に大きなスペースを割いており、デーン人とアングロサクソンの対立にプラスして原住民であるケルト系(序盤の最重要人物であるアシェラッドはウェールズ出身の母方の先祖がアーサー王であるという設定で、アーサー王とウェールズの関係については下記ブログ参照)も交えてクヌートの覚醒とトルフィンの成長を描いている。

 

 


 こういう歴史物語をフィクションにするのはこれまでは小説や演劇が主流だったのであるが、漫画で絵的に表現するという途を開いたという意味でヴィンランド・サガとヒストリエは歴史に残る傑作だと思う。

 これに対して“3月のライオン”はプロ将棋の世界を題材としており、ヴィンランド・サガとヒストリエが20年ほどの連載でストーリー上同程度の時間経過だったのに対し、3年ほど(その間主人公はC1からB2へ昇級)と短い。



 私が囲碁をはじめとする盤上ゲームマニアであるが、それを差し引いても(というか将棋のルールすら知らなくても愉しめる)この漫画は傑作だと思うし、将棋人気が囲碁人気を上回るのようになったのも、藤井聡太の登場(下記ブログ参照)と並んで重要な役割を果たしているのではないだろうか。

 

 

 囲碁でも“ヒカルの碁”は有名だが、あくまで囲碁漫画としては傑作という位置付なので・・・

 また現実の将棋界では藤井聡太のような化物が登場して漫画にならなくなった(こんな棋士が登場して毎回勝つのではストーリーにならない)し、コンピューター将棋の発達でロマンが無くなった(下記ブログ参照)こともあり、この漫画の連載開始時期がちょうど旧き良き?将棋界の雰囲気が残る最後の時代(対戦相手の棋譜をコピーするアナログなシーンもある)であったことも幸いしたと思う。

 

 


 というわけでこの20年で将棋界は根本的に変わったが、ストーリーの進行上はまだ3年しかたっていないため、色々と設定に無理が生じている。
 ということはそろそろ連載終了が近付いているのか・・・

 大友啓史・神木隆之介のコンビによる前後編の実写映画化も傑作であったが、そのラストシーンは主人公が竜王戦の挑戦者となり、宗谷名人と山寺で第一局を開始するところで余韻を残して終わり、これは最初のシーンである書寫山圓教寺(どちらもタイトル戦にふさわし雅趣に富む古刹)での名人の対局(画像下)と対になっている。



 漫画では現在竜王戦の挑戦者決定戦決勝に進んだところまで連載が進んでおり、これは映画版と同様ならそろそろ・・・

 ということになれば、私がこの20年嵌っていた漫画がすべて終了してしまうことになり残念である。
 まあ漫画(特にストーリー漫画)というのは私が生まれた頃から本格的に始まった歴史が比較的浅い芸術(以前は漫画を芸術などというと笑われたが、今や日本を代表する文化に)であるためまだまだ進歩の伸びしろが大きく、これからもこれまで以上の傑作が出てくるであろう・・・多分。

映画
ベン・ハー (原題 Ben-Hur)1959
監督 ウィリアム・ワイラー
キャスト ベン・ハー:チャールトン・ヘストン
     メッサラ:スティーヴン・ボイド

原作
ベン・ハー (原題 Ben-Hur A Tale of the Christ)1880
作者 ルー・ウォーレス (1827-1905)

 私は映画フリークであり、この50年以上年間50-100本を映画館で観てきた。
 最近はブログのネタがなくなってきた(今日はアレ食べたコレしたという日記形式では私のことに興味がある人などはいないはずなので、誰も読んでくれないだろう)ので、これまで観た映画とそのオリジナルの原作について書いてみたいと思う。
 なお原則として誰でも知っている有名な作品を取り上げるつもりなので、ストーリーの説明などはしない。



 というわけで第1回は1959年の“ベン・ハー”。
 さすがに封切りでは観ていないが、小学生時代にリバイバル上映で観て洋画に嵌るきっかけとなった。

 ローマ帝国支配時代のユダヤ人貴族ベン・ハーの数奇な半生にイエス・キリストの生涯を交差させて描く作品であり、何と云っても画像下の戦車競走シーンが映画史上最高傑作と云っても良く、これをCGではなくリアルで撮影(実際に死者も出たとか)したのは大群衆シーンと共に現代では絶対に不可能であろう。



 それにしても4頭立ての戦車9台がトラック幅いっぱいに横一列に並んでデモ走行するシーンは実に美しく、これがレース開始と共に入り乱れて大乱戦になる映像美はおそらく史実以上の迫力であったと思われる。



 なお戦車(チャリオット)というのは当時既に騎兵の発達により実践では用いられなくなっており(下記ブログ参照)、

 

 

もっぱら凱旋式のようなセレモニーもしくは当時の最高の娯楽としての戦車競走(現代でいえばF1のようなものというかそれ以上に金がかかりステイタスも高い)に用いられるだけであった。

 戦車がいつ頃から実戦では廃れたのかは民族・地域によって異なるが、戦車競走の本場でありオリンピックの最高人気種目でもあった古代ギリシアでは、アレクサンダー時代にはとっくに忘れられた戦術であった。

 そしてガウガメラ(BC331)では騎兵を率いて突進するアレクサンダーに戦車軍団を主力とするペルシア軍は惨敗し、史上空前の世界帝国(アケメネス朝)ペルシアはあっけなく滅んでしまった。

 この映画はアカデミー賞も作品、ワイラー(監督)、ヘストン(主演男優)を含め史上最多の11部門で受賞し、ハリウッド超大作史劇時代を代表する名作として世界中で記録的大ヒットとなり、私がこれまで観た映画の中でも一番感激した作品でもある。
 もっとも今観ると戦車競走終了後のイエスがらみのシーンが続いて冗長と感じるのは、原作がどちらかというとイエスの方に重点に置いて書いているからであろう。これは物価換算すれば史上最高のヒット作とされる“風と共に去りぬ(1939 ただしこの映画は下記ブログに書いたようにpolitical correctnessの立場から現代米国では語るのもおぞましいタブー扱い)が、前半クライマックスの南北戦争後にレットとスカーレットの夫婦喧嘩が延々と続いて退屈になるのと似ている。

 

 

 要は原作をリスペクトしてなるべくそのストーリーに忠実になろうとすると、小説と映画では映えるパートが異なるので冗長になってしまうのである。

 さてその原作であるが、ルー・ウォーレスは米国の軍人・政治家・外交官で1880年の出版時にはニューメキシコ準州の知事であった。
 その知事時代にはリンカン郡戦争(ジョン・ウェインの晩年の傑作“チザム(1970)”に詳しく描かれている)の裁判を担当し、ビリー・ザ・キッドに逮捕状を出したりした。なお牧場主側の盟主チザム=ウェイン陣営にビリーとパット・ギャレットが属し、後に敵味方に分かれて殺し合うのが西部劇の定番である。

 映画版ベン・ハーでは敵役のメッサラは戦車競争に敗れ事故死するが、ウォレスの原作では志々雄真実のような姿で生き残りしつこくローマまでベンを狙うもののベンは赦しの心をもって・・・という筋でイエスによる赦しと重ねており、映画版のイエスのシーンよりストーリーに整合性がある。
 ウォーレスはリンカン郡戦争とその後の復讐の応酬でビリー等多くが殺された事に心を痛め、赦しの精神で臨むべしとこの小説を書いたという説もある。

 またこの小説は発売直後から米国で大ベストセラーになってベストセラー原作から映画化というパターンの嚆矢となり、その名声からウォーレスはオスマン帝国(当時はパレスチナを含む中東全域はオスマン帝国領)駐在の米国大使に任命されている。

 なおリメイクの“ベン・ハー(2016)”では何とメッサラは戦車競走後にベン・ハーと和解して彼の妹と結婚するというハッピーエンドになっており、これはいくら何でも・・・戦車競走のシーンも今一つ迫力に欠けていた(いやこの映画だけを見ればスゴイのだがどうしても1959年版と比較してしまうもので)し、ビデオスル―になったのもやむを得ないかな。



 一説によると1959年版では、ベン・ハーとメッサラ(画像上)は青年時代に同性愛関係にあってそれが二人の愛憎ドロドロの関係を生んだという裏設定(原作ではそういう雰囲気はない)があり、そのイメージを払拭するために2016年版は脚色されたとか。

 なお”ベン・ハー(1925)”はサイレント映画時代の超々大作であり、戦車競走シーンは1959年版に比べてちょっと編集が粗いもののその迫力は負けていない。そしてエウボイア海峡(ギリシア本土と細長いエウボイア島との間の細長い海峡で映画版ではマケドニア沖と軽く触れられるだけであるが、原作では両軍の動きを克明に描写)の海戦は、59年版(いかにも船がミニチュアで興ざめ)をはるかにしのぐ大迫力で、実写海戦シーン(画像下・CG時代になる前は金がかかるのであまりいい作品はなく、この映画は別格)では史上最高ではないだろうか。



 歴史上の実在人物として登場するのはイエスとその周囲の人たちを除いては、ユダヤ属州総督のピラト(在任 26~36でイエスの処刑は30年)とローマ皇帝のティベリウス(在位 14~37)であり、エルサレムの戦車競走ではティベリウス記念としてピラトが開催を宣言するシーンがある。

 ボブ・グッチョーネの怪作“カリギュラ(1980)”ではタイトルロールにマルカム・マクダウエル(”時計じかけのオレンジ(1970)”のアレックスと重なりハマリ役)、ティベリウスにピーター・オトゥールと豪華版で、カリギュラ効果という言葉を生むほど話題に。カプリ島に隠棲するティベリウスはスターウォーズ等の悪の皇帝の原型だろうが、オトゥールの迫力はそれらしく魅せたのに対しベン・ハーでは軽い皮肉屋皇帝というキャラで拍子抜けだが、実態はこんなものだったかも。
 なおこの種の作品では怪物ティベリウスが新怪物のカリグラに殺されるのが定番だが史実では病死である。

 ベン・ハーのフルネームはユダ・ベン・ハーであり、王族という設定なのでユダ部族からとったのであろう。
 なおイスラエル12部族の中でもユダ部族は現在まで残る中心となった部族であり(下記ブログ参照)、

 

 

その最初の王族であるダビデ・ソロモンからイエスは連綿とつながる血統とされ、ユダという名前は多い。
 キリスト教世界ではユダ(イスカリオテのユダ)は12使徒のうちイエスを裏切った裏切者のイメージが強いが、他の12使徒も含めて聖書には大勢のユダが登場する。

 周知のようにハリウッドはユダヤ資本が支配する世界であるが、タイトルロールの名前をユダとして繰り返し映画化されたのもその一環であろう。(下記ブログ参照)

 

 

 なおこのようなユダヤ礼賛映画で主役までユダヤ人では一般受けが良くないという理由からかアングロサクソン(+スコットランド)のヘストンがタイトルロールに起用されたが、役柄だけを考えたら当時既に大スターだったポール・ニューマンが妥当か?

 ヘストンは当時“十戒(1957)”のモーゼや”大海賊(1958)”のアンドリュー・ジャクソン(大戦争の司令官から米国大統領になったのは独立戦争のワシントン、米英戦争のこのジャクソン、南北戦争のグラント、第二次大戦欧州戦線のアイゼンハワーといて、マッカーサーがこの系譜に連なっていれば現代史はかなり変わっていたであろうが自滅したのは残念)等の重々しい老け役を若いながら得意としていた。
 それがこのベン・ハー一本で大ブレイクして肉体美の正義のヒーローという唯一無二の立ち位置をハリウッドで確立することになった。

 ヘストンの事実上の遺作(もう1本くらいあるかも)となったティム・バートン版の“猿の惑星(2001)”ではタカ派?の猿に扮して銃推進派の面目躍如たるところを見せていた。バートンは(悪意のある)シャレで起用したのだろうが、さすがに貫禄が違うかな。

 なおヘストンの経歴に関して良く語られる保守主義への転向?については…
 これはヘストンが変わったのではなく米国の方が変わったのだと思う。ヘストンの信念はキング牧師と共にワシントン大行進に加わったときから変わっていないだろう。

 下画像はその時のスナップで左からシドニー・ポワチエ、ハリー・ベラフォンテ、ヘストン。皮肉にも背後のリンカーン像が猿の惑星のラストシーン(自由の女神ではなくこのバートン版の方が原作に忠実)では・・・
 あまり政治的なことは書きたくないのでこれ以上は云わないが。



 特に悲しいのはヘストンの遺作?となったのが“ボウリング・フォー・コロンバイン(2002)”ということである。

 上記のバートン版“猿の惑星”以後にもう1本あるかもというのはこの作品のことで、完全にマイケル・ムーアの騙し討ちであり、事実と異なる印象を与える編集スタイルなどある意味イエロージャーナリズムの傑作(完全に事実に即したドキュメンタリーで一般受けする面白い作品ができるはずがない)といえるかもしれないが、ヘストンの印象が決定的に悪くなってしまったのは残念である。

 今年はミュージカル“レ・ミゼラブル”のロンドン初演(1985)から40周年ということで、帝劇(1987初演)のクロージング公演や、もうすぐ始まるワールドツアースペクタキュラー等で次々と取り上げられるようだ。

 なおこのスペクタキュラーというのはコンサート形式の大がかりのものであり、レミゼで成功して以来様々なミュージカルで上演されるようになったが、やはりオリジナルの舞台でないと愉しめないし(一番観たいのは下記ブログに取り上げたラミン・カルムルーのジャン・ヴァルジヤン)、

 

 

まあレミゼは飽きるほど観ているから変わった形式のものをという上級者?向けだろうか。

 

 この芝居の“顔”としてポスター等に良く取り上げられるのは1862年に出版されたユーゴ―(1802~1885)の原作のユーグ版(1879)の挿絵(エミール・バヤールの木版画)からとった幼少時代のコゼットの顔の背後に三色旗を配した下画像で、このデザインを見ると反射的に“レ・ミゼラブル”を思い出すという仕掛けになっている。

 

 

 この芝居は1832年パリの6月暴動がクライマックスとなっており、ユーゴーはまさにリアルタイムでバリケードの現場に居合わせていた。そしてその前後のエポニーヌがオンマイオウンを歌いながら街を歩くシーンや、パリの下水道を彷徨うシーンがあり、ユーゴーが育ち愛したパリ、そして19年にわたる国外亡命中でパリを想いながらこの小説を書いたこと等が思い出される。

 

 そして映画化されたのは2012年であるが、その公開直後に書いたブログを以下に引用する。

 

(2013年01月11日 作成)

                           

 先日評判のミュージカル映画“レ・ミゼラブル”を観た。

 前評判に違わぬ力作で、映画館中が啜り泣きの声に満、最近老化のせいか涙腺がゆるくなった私も視覚がかすんできて・・・

 

 評判になったミュージカルの映画化で舞台以上に成功した作品というのはウェストサイドストーリー(これは舞台としてはたいしてヒットせず、最近ステージアラウンド版で観たのは良かったが・・・)くらいしか知らないし、しかもレミゼは世界ミュージカル史上で最も成功した作品のひとつであり、それに勝るとも劣らぬ映画化というのは奇跡的かもしれない。

 

 

 レミゼの舞台はパリのバリケードのすばらしいセット(画像上)がトランスフォーマーのように文字通り“立ち上がる”のに驚嘆させられたが、当時のパリをスペクタキュラーに鳥瞰する映画の迫力はそれに負けていない。

 また舞台の一番の強みである目の前で歌手の生の声が聞こえるという点も、ミュージカル映画の常識だった口パクをやめて生で歌いながら演じる方式を採用することにより臨場感を醸し出している。

 

 ミュージカルというのはなぜ普通の台詞を歌で表現するのかわからないと思い昔は苦手であったが、最近はむしろストレートプレイより好きになってきた。

 考えてみれば詩は散文より歴史が旧く、文芸よりもさらに歴史が旧いのが音楽であるから、音楽に乗せて唄うというのは最も普通のパーフォーマンスアートの表現形式かもしれない。歌舞伎だって文字通りその起源・基本は歌い踊ることだし、オペラや各国の民俗芸能も同様である。

 

 ブロードウェーはミュージカルのメッカとして名高く私もNY訪問のたびに観るようにしているが、ここしばらくはロンドン発のミュージカルが幅を利かすようになってきた。

 そしてこのレミゼも1985年ロンドンが実質的初演で、今も世界中で上演が続いている。

 

 レ・ミゼラブルは云うまでもなく19世紀の大文豪ユーゴーの長編小説であり、“ああ無情”のようなジュヴナイル版で日本でもストーリーは知らない人は少ないくらいで、知名度としては世界でも抜群の原作である。

 しかしながらどう考えてもミュージカル向きの小説とは思えないので、次の2点を強調して舞台に映えるようにしている。

 

 第1点は前述のパリ市街でアンジョルラスらが立てこもる壮大なバリケードのセットであり、登場人物以上に強烈な印象を与える“主役”といってもいい。

 

 第2点は、原作では脇役の一人であるジャヴェル警部を主役のジャンヴァルジャンと対等の主役にして、二人の対照的な個性と両者の闘争を主題にもってきている点である。

 そしてパリの闇の中に紛れ込んだジャンヴァルジャンを、必ず見つけてやるとノートルダムから夜の街を見下ろしながらジャヴェルが”stars”を唄うシーン(画像下)は強烈な印象を与える。なお舞台版では前半最後の見せ場として感情をあらわに歌い上げるのであるが、映画版のラッセル・クロウは静かに闘志を燃やすという態であるのは評判が悪かったようだが、映画はアップになるので感情が伝わりやすいためこの方が良いと思った。

 

 

 パリの城壁内はわずか10キロ四方程度であるが、ここに潜伏されると国家権力をもってしても一人の犯罪者を探し出すことはできないというのはまさに犯罪集団による地下組織のようなものがあるためであり、まさに犯罪都市パリを象徴している。

 

 このような退廃的で妖しげなな魅力に満ちた印象の街といえば、戦前の上海、アルジェのカスバ(下画像はジュリアン・デュヴィヴエとジャン・ギャバンの”望郷”)、カポネ時代のシカゴ等が思い浮かぶが、やはりその歴史やスケールからパリをしのぐものはないような気がする。

 

 

 なお鬼平などが強大な闇の犯罪組織と対決する江戸の街というのはフィクションだけの世界で、実際の江戸は世界一の大都会でありながら衛生的で健全な街だったようだ。

 

 そのパリには歴史的にフィクション・ノンフィクションが入り混じった巨大な犯罪組織とそれと対決する強力な警察組織というイメージがあり、ジャヴェルをもう一人の主役としてもってきたというのもそのイメージに乗っかってのことだろう。

 

 パリの警察といえばまず名前が出てくるのがアンジェリクなどに登場するデグレ警部であり、実在の人物でルイ14世の時代に数々の宮廷の陰謀を暴いて歴史に名を残した。

 また犯罪者の側ではルパン(日本ではルパン3世のことになってしまったのでアルセーヌ・ルパンと云わないと通じないかも)とファントマ(子供向けの翻訳全集が出版されていたが今はもう絶版)が世界的に有名な双璧であり、それぞれガニマール警部・ジューヴ警部というライバルの警察官が配されている。特にファントマは魔都パリを跳梁する残虐・不気味な怪人として子供心に強く印象付けられ怖かったのを憶えているが、映画化シリーズ(画像下)ではタイトルロールのジャン・マレーとルイ・ド・フュネス(ジューヴ警部役)のコンビでドタバタコメディーになってしまったのは拍子抜けであった。

 

 

 また第二次大戦時のパリのレジスタンス組織だって何か今は正義の味方というイメージであるが、ヴィシー政権にとってみれば闇の犯罪組織と大差はなく、そのような組織が活躍できたというのも魔都パリのなせる業であろう。

 

 レミゼに登場するパリの犯罪組織では、その下っ端ではあるがなかなかしたたかな存在としてテナルディエが重要な人物として登場し、彼は全体のストーリーの中で最初から最後まで主人公たちと宿縁の存在として関わってくる。

 ジャンヴァルジャンが出所する1815年はワーテルローの年であるが、このときテナルディエは戦場泥棒としてナポレオン軍将校であったマリウスの父と邂逅することから腐れ縁が始まり、最後にマリウスにジャンヴァルジャンの誠実さを期せずして告げてしまうところまで、あらゆる重要なタイミングで狂言回し的に必ずからんでくる。

 

 

 そして彼の妻・娘・息子も主人公たちといろいろな因縁でからんでくるというまさに腐れ縁のテナルディエ一家(画像上はコゼットをはさんだサシャ・バロン・コーエンとヘレナ・ボトム・カーターのテナルディエ夫妻で、一番お得な役かも)であるが、原題のレ・ミゼラブル(惨めな人々)から考えても、むしろユーゴーはテナルディエのキャラクターに思い入れがあったのかもしれない。

 そういう意味ではパリの浮浪児にして地下犯罪組織?にも顔が利き、バリケードで撃たれて悲劇的な最期となるガヴローシュ(子役の夜間就労制限でよく問題になる)はテナルディエの息子というのはかなり重要な設定だと思うのに、ミュージカル化ではその点にふれていないのはちょっと残念である。

 

 現在のパリの街は明るく健康的で、退廃的で妖しい雰囲気というのはあまり感じることができない。キャバレー(特にクレイジーホースとムーラン・ルージュ)も観光客向けが露骨になったし、ファントムが出てきそうなオペラ座も機能的な新オペラ座に替わってしまった。

 これはパリに限らずどこの大都会も同様であり、数十年前にはあちこちにあった猥雑な街が姿を消しつつあるのは残念な気がする。

 現在公開中の映画”F1“をIMAXで観た。



 レースシーンは評判に違わぬ大迫力で、実際のF1グランプリの映像とシームレスにつながっており、製作費300億円というのも頷ける。
 もっともタイアップメーカーからの協賛費?も莫大であるが、F1の興行そのものが協賛メーカー(昔のタバコメーカーに代わって今はハイテク企業が中心)の費用で支えられているようなものであり、堂々と協賛メーカーのロゴを出しても逆にリアルに見える。

 また後半9レースをすべてストーリーに取り入れているのだが、鈴鹿の扱いが一番小さかったのはまあその“協賛費”をあまり出せなかったという日本の経済力の低下(下記ブログ参照)を象徴しているのであろう。

 

 




そして逆にアブダビの最終レース(画像上、暑いのでレース終盤は夜になる時間に開催)はブラッド・ピットが優勝するというストーリー上の重要性以上にアブダビの観光ビデオ的要素がふんだんで、オイルマネーの潤沢さをよく示していると感じた。

 この映画のストーリーはブラピがデイトナ24Hレース(画像下)に優勝するところから始まる。



 このレースはル・マン24Hレース(スティーブ・マックイーンの”栄光のル・マン“はこの形式のレースをよく描写した傑作)と並ぶ耐久レースの最高峰であり、毎年フロリダのデイトナビーチのデイトナ・インターナショナル・スピードウェイで開催され、F1にこれまであまり人気がなかった米国では最も人気があるレースの一つである。逆に言えばだからこそF1と比較する意味で映画冒頭にもってきたのであろう。

 そしてデイトナ・スピードウェイは米国で最も人気があるNASCARレースの最高峰であるデイトナ500(画像下)の舞台でもある。



 私は2015年のデイトナ24Hレースの開催日にデイトナビーチにいた。
 下記ブログに書いたデイトナビーチでのセラミックスの国際会議で発表するためであり、ある意味人生がかかっていたため2日ほど早めに投宿して準備していた。

 

 

 そのため当日が24Hレースだとは全く知らなかったのであるが、郊外にあるレース場からの大爆音が市内を1日中鳴り響いており驚いた覚えがある。

 そして国際会議も一段落して暇ができた時話のタネにと思いデイトナ・スピードウェイを見物に出かけた。
 するとNASCARにレースドライバーと同乗して時速300KM(米国だから時速180マイル)の世界を愉しむというアトラクションが開催されており、ちょっと高かった(2-300$だったかな)が参加してみた。

 ヘルメットをかぶって窓から乗り込む(ドアがないため)のはむしろシートが車体に囲まれているのだから安心なくらいであるが、1周4Kmのオーバルコース3周の走行が始まるとまさに絶叫の世界でスピードメーターを見る余裕もない。特にバンクの最大傾斜角度31度!というのは直角かと思う位でGがすごい。助手席ながら素晴らしい経験で、もし子供時代だったら車の魅力に取りつかれていたかもしれない。

 ・・・とはいえ、ジェットコースター的なアトラクションとして誰でも愉しむことができるのであるから案外たいしたことはないと云えるかもしれない。
 これはレース並みの時速300KMといっても、Gがかかるのは加速度が影響するのであって、実際には加速度はレースみたいにはかけていないのであろう。
 速度だけなら新幹線が時速300KM、ジェット機が900KMであり、さらにいえば地球の自転速度が日本の緯度で1500KM、公転速度が11万KM、宇宙の膨張速度が40億KMだそうだから、要は加速度さえかかっていなければ速度は気がつくことすらないのである。
 なお地表で感じるG(重力)は地球の質量が主要因であり。自転の遠心力で相殺されるものの僅かであり、赤道のGは極地より0.5%程度小さいに過ぎない。

 ・・・などと考えること自体が私は車の“速さのロマン”に興味がないからかもしれないが、そもそも私は車に乗らないし、全く車には興味がなかった。
 それが何の因果か、30年ほど前にセラミックス塗料を用いた”汚れない車“というコンセプトカーの実現のために、車の開発を手がけたことがある。(下記ブログ参照)

 


 世界中の、特に欧州や米国の自動車メーカーを廻って提携関係を築いたりしたものの、結局は会社の年間利益を吐き出すほどの大失敗に終わった。各社との契約は厳重な守秘義務があるものの、今はとうに契約期限切れであるから書いてもいいのだがあまり思い出したくもないので・・・ 

 個人的にも死の一歩手前まで追い詰められるなど、このプロジェクトに関わらなければ・・・という思いは逆にいい経験をしたというプラス面も含めてその後ずっと引きずっている。

 そしてこのプロジェクトが失敗した原因の一つとして,私が車に対して何の愛着もなく車の歴史や文化も知らなかったため、顧客の車というものに対する単なる移動手段ではない“想い”が全く理解できなかったことが挙げられる。

 これは最初の段階では車に対して何の知識もない素人だからこそ斬新な発想ができると自惚れてこの業界の参入したのだが、確かにそういう面もあったものの最後はそこで引っかかったような気がする。



 最近は“フォードVSフェラーリ”や”フェラーリ“(画像上:マイケル・マンのおそらく最後の傑作)など、欧州と米国の車文化を正面から取り上げた名作映画が次々と封切られ、この”F1“がその集大成だろうか。

 私も30年前のあの黒歴史(笑)以来、文化としての車?には少しは興味を持つようになり、10年前のデイトナ・スピードウェイでの経験もその一助となっている。