現代国家は予算の多くを社会保障費や道路建設費などに廻しているが、ついこの間までは世界中どこでも国家予算の大半は防衛費・軍事費にあてるのが当り前であった。
 命あっての物種であるから、健康で便利な暮しよりもまず他国から攻められて殺されないように防衛が最優先ということである。

 日本は少なくとも歴史記述が始まって以後は強大な異民族が列島内に常住していなかったため、それほど大規模な防衛施設は必要ない場合が多かった。

 

 

 しかし対外的に緊張した時代-例えば天智天皇の時代、白村江の戦(663年)で唐に大敗(上記ブログでその古戦場の訪問記を引用)した直後は、大宰府防衛のための日本版万里の長城である水城(みずき・画像下はその航空写真であり規模の大きさがわかる)や北部九州・山口の各地に残る神護石(こうごいし)を築き、唐・新羅からの侵攻に備えた。



 画像下は福岡県行橋市に今も残る御所ケ谷神護石であるが、山全体を石垣で囲む壮大な要塞であり、もし関東・関西にあれば全国的に著名な大観光地になっているだろう。



 当時の宮殿である飛鳥板葺宮が文字通りの板葺きの掘っ立て小屋みたいなものだったのと比較しても、まさに国富と傾けた大工事であったと思う。
 ただし神籠石は山中にあるためか長い間忘れられた存在であり、その名前からも宗教施設であると誤解されていて、これが防衛施設・山城であることが確定したのは1960年代である。

 これが異民族との絶え間ない抗争の連続である大陸の国家となるとその規模は壮大になり、国家構成員全員が篭城できるような城壁都市が各地に建設されることになる。

 また戦国大名か誰かが云った諺?として“篭城戦に勝ったためし無し”というのがある。しかしこれは日本・海外を問わず全くの逆であって、通常の戦争というものは篭城側が勝つのが当り前であり、城にこもられると攻め手はお手上げなので周囲を略奪してお茶を濁すというのが常態であった。何となく攻城戦というのは攻め手の側が勝つことが多いような印象があるが、それは落城というのが非常に珍しい歴史に影響を与える大事件であるので、インパクトが強いというだけなのである。
 したがって国という漢字が城壁の中に玉がいることを示すように城壁に囲まれた地域を中心に国家というものは成立していたのである。

 そのため多民族を征服した大帝国というのは攻城戦に長けた国である。歴史に残る大帝国といえば、まずはアッシリア、次にアケメネス朝ペルシアを経てアレクサンダーとその後継者の諸国、真打としてローマというところだろうが、これらはすべて攻城・工兵技術の伝統が伝わってきた国・時代であるといえる。
 また攻城技術に長けているということは築城技術も優れているということであり、これらの大帝国は各地に堅固な城を築き防衛にあたったので、基本的に篭城側優位という状況は変わっていない。

 しかしローマ帝国が衰え中世の暗黒時代が始まると、それらの技術は失われ時代は再び群雄が各自の小規模な城に割拠する封建時代になっていった。
 なおヨーロッパではグレコローマンの栄光から1000年近く暗黒時代が続いたことからもわかるように、時代は常に進歩しているというのは我々の世代に多い短期間の自分の経験からしか考えられない錯覚・楽観論に過ぎない。もっとも最近の若い人はむしろ退歩の時代を肌で感じているかもしれないというのはちょっと残念な時代になったものであるが。



 また中国の万里の長城(画像上は北京近郊の八達嶺の部分)といえば、無用の長物の代名詞のように現在では考えられているが、これは全くの逆であって世界の大半を征服したモンゴル軍団くらいでないと踏み破れないほど防御効果があったというべきである。
 そうでなければ春秋戦国時代からつい最近に至るまで延々と建設され続けた(秦の始皇帝が建設したというイメージが強いが現存するのは明代のものが多い)わけがなく、明が清に滅ぼされた時も天下分け目のサルフの戦い(1619)で明に完勝した清軍も山海関(満州の関東軍というのは箱根の関より東という意味の関東とは関係なく、この山海関より東という意味)から延びる長城を越えることは不可能であり、それが可能になったのは守将呉三桂の裏切り(背後から李自成の反乱軍が迫っておりやむを得ない面もあった)によるものであった。

 古代の遺跡・歴史的建造物観光といえば、宗教施設と防衛施設が双璧であるが、防衛施設はまさにその機能美というか“用の美”のようなものを感じる。
 数世紀にわたり敵の攻撃を跳ね返してきた城壁はその代表であり、日本では加藤清正が築いた熊本城は近代戦の時代になっても西南戦争で薩軍の攻撃をしのいだ。天守などが西南戦争で焼失しなかったら、姫路城なんか問題ならないくらい日本一の城として認知されていたのではないだろうか。



 個人的にはネブカドネザル(在位紀元前605-562)が築いたバビロンの城壁(画像上は想像図で中央を流れるのはユーフラテス川)に一番興味があるが、とうの昔に地中に埋まってしまい、その一部は残念な復元のやり方で・・・

 このような技術的な進歩や衰退はあったものの、古代からほぼ一貫して続いてきた篭城側・防御側優位の時代に幕が降りたのは新しい技術である大砲の出現の要素が大きい。史上最大の攻城戦といえば、日本では豊臣家が滅んだ大阪冬の陣・夏の陣(1614-1615年)、海外では2000年以上続いたローマ帝国が最終的に滅んだコンスタンチノープル攻略戦(1453年:画像下)であろうが、いずれも当時の新技術である大砲が大きな役割を果たしている。



 そして大砲の進歩により城壁というものは存在価値が低下していく。現代では利便性の観点からほとんどの城壁が破壊されてしまい、完全な形で残っていて観光客を集めているのは西安(唐代の花の都長安だが現代に残る城壁は一回り小さい明代のもの)、エルサレム(大半はオスマン・トルコ時代のもの)、ニュールンベルク(大戦時の空爆で壊滅的な打撃を受けたがここまで完璧に復元させればある意味オリジナル以上の見ものかも)など限られた都市であるのは遺跡オタクの私としては残念である。

 そして現在では航空機・ミサイルや核兵器の出現により攻撃側優位はますます顕著になりつつある。今や”防衛”という概念そのものが敵の攻撃を直接防ぐというよりも、敵に攻撃されたときに報復攻撃の準備をしておくことに重点が移っている。

 しかしそういう時代だからこそ”防衛のための攻撃”ではなく、”防衛のための防衛”技術というのは世界平和のために意義があるのではないだろうか。

 私は以前に大砲のような物理的な力に対する防御と核兵器のような放射線(その中でも特に有害なのは中性子線)に対する防御の両方を可能にする防護材料というのを研究していたことがある。
 これは物理的な衝撃というのは防護材中を伝わる衝撃波の速度と拡がりで決定され、それは単位重量あたりの弾性率の函数であるというballistic materialの考え方と、防護材そのものの原子核変換による中性子吸収をハイブリッドさせた設計思想(特許や論文で公開しているので機密事項でも何でもない)であった。

 特に当時将来核兵器の主流となると予想されていた中性子爆弾に対する防御としては最適と考えられ、その旨下記ブログようにペンタゴンでプレゼンをしたこともある(防衛庁にはそのような危機感は全く無かったため、結局は物理的衝撃に対する防御のみが議論の対象に)。

 

 

 中性子爆弾はその後核兵器の主流からは外れることになり、結局は私の研究も中性子吸収材料に関しては下記ブログのように中性子の有効利用(特に医療・バイオ分析の分野)に重点を移すことになった。

 

 

 私が防衛分野に関わったのはそのときだけであるが、日米の防衛に関する意識の差には考えさせられたものである。
 また世界で最も防衛に関して敏感なのはイスラエルであり、下記ブログのようにウジ―マシンガンやメルカバ戦車で有名なIMI社に売り込みをかけた際の先方の“我々の基本設計原理はまず生き延びることです”というコメントは非常に強く印象に残っている。

 

 


 現代は実に平和な時代であり、少し前まで人類にとって最重要であった”敵の攻撃に対してどう防衛して生き残るか“という課題に対して、通常はあまり考える機会もない。
 しかしこれはまさに例外中の例外の異常な時代であり、明日にもその状況は変わるかもしれない。そう考えれば我々日本人の平和ボケは、周囲にどのような国が存在するかを考慮すれば大きな問題であろう。



原作者:イアン・フレミング (1908-1964)

<ジェームズ・ボンド:ショーン・コネリー (1930-2020)>
ドクター・ノオ(1962) 原作 Dr. No(1958)
ロシアより愛をこめて(1963) 原作 From Russia, with Love(1957)
ゴールドフィンガー(1964) 原作 Goldfinger(1959)
サンダーボール作戦(1965) 原作 Thunderball(1961)
007は2度死ぬ(1967) 原作 Only You Live Twice(1964)

<ジェームズ・ボンド:ジョージ・レーゼンビー (1939-)>
女王陛下の007(1969) 原作 On Her Majesty’s Secret Service(1963)

<ジェームズ・ボンド:ショーン・コネリー (1930-2020)>
ダイヤモンドは永遠に(1971) 原作 Diamonds are Forever(1956)

<ジェームズ・ボンド:ロジャー・ムーア (1927-2017)>
死ぬのは奴らだ(1973) 原作 Live and Let Die(1954)
黄金銃を持つ男(1974) 原作 The Man With The Golden Gun(1965) 
わたしを愛したスパイ(1977) 原作 The Spy Who Loved Me(1962)
ムーンレイカー(1979) 原作 Moonraker (1955)
ユア・アイズ・オンリー(1981) 原作 For Your Eyes Only (1960)
オクトパシー(1983)
美しき獲物たち(1985)

<ジェームズ・ボンド:ティモシー・ダルトン (1946-)>
リビングデイライツ(1987)
消されたライセンス(1989)

<ジェームズ・ボンド:ピアース・ブロスナン (1953-)>
ゴールデンアイ(1995)
トゥモロー・ネバー・ダイ(1997)
ワールド・イズ・ナット・イナフ(1999)
ダイ・アナザー・デイ(2002)

<ジェームズ・ボンド:ダニエル・クレイグ (1968-)>
カジノ・ロワイヤル(2006) 原作 Casino Royale(1953)
慰めの報酬(2008)
スカイフォール(2012)
スペクター(2015)
ノー・タイム・トゥー・ダイ(2021)

(シリーズ以外の番外作品)
カジノ・ロワイヤル(1967)  原作 Casino Royale(1953)
ネバーセイ・ネバーアゲイン(1983)  原作Thunderball(1961)

 映画は現在までシリーズで1962年から25作制作されており今後も当分続くと予想されるので世界史上最も成功した映画シリーズといえるだろう(興収だけならスターウォーズとかマーベルのシリーズの方が上かもしれないが)。
 私も1965年のサンダーボール作戦からは封切りで、それ以前の3作はリバイバルか名画座でと全て劇場で観ており、子供心にボンドのカッコ良さとボンドガールの色気(下画像は初めて観たサンダーボール作戦のクローディーヌ・オージェでビキニに水中銃という姿が衝撃的)に圧倒されたものである。



 イアン・フレミングによる原作は1953年からで長編12作にプラスして短編集や雑誌掲載分もありほぼすべてがハヤカワミステリと創元から邦訳されており私も全部読んでいる。
 なお小説としては最初からそれほどヒットしたわけではなく、映画化第一作のドクターノーも低予算映画だったし、映画が第三作のゴールドフィンガーくらいから有名になりそれから小説も売れ始めたというのが実態に近い。

 フレミングはイートン校から欧州各地に遊学という典型的な英国紳士であり、第二次大戦中に諜報活動に関わったことから自分の経験を基にボンドシリーズを書き始めた。
 その作風は、従来の英国における主流であった重厚なリアリズム派スパイ小説(代表作としてサマセット・モームの“アシェンデン”やグレアム・グリーンの初期諸作)とは対極にあり、米国のハードボイルド的な暴力やアクションを描くが背景設定としては華やかで享楽的というもので、あまり”文学“としては評価されなかったが映画には向いていた。
 なおフレミングは文学的低評価に反発したのか1962年の私を愛したスパイ(The Spy Who Loved Me)では性的描写を含むリアリズム調の異色作を発表したが、単なるポルノと酷評され、1977年の映画化時には採用されたのはそのタイトルだけだった。

 したがってボンド役には典型的な英国紳士(のように見える)役者をフレミングは希望していたのだが、選ばれたのはガサツな(よく言えばエネルギッシュな)ショーン・コネリー(下画像は”ドクター・ノオ“撮影時のフレミングとコネリーのツーショット)であり、フレミングは自分のイメージと正反対と反対したらしい。



 しかしこの人選は大正解であり、以後のボンドのイメージを決定付けることになった。
 またボンドはスコットランド人という設定であるがこの点でも典型的なスコットランド気質であるショーン・コネリーはぴったりと思われたのかもしれない。

 なおショーンとかシェーンとかいうのは典型的なケルト系(アイルランド・スコットランド・ウェールズ)の名前であり、英語ならジョン、他言語ならジャン、ヨハン、ヨハネス、ハンス、フアン、ジョアン、ジョヴァンニ、イヴァン、イアン、ヤーノシュ、ヤンなどに対応している。(下記ブログ参照)

 

 

 2000年にわたるゲルマン人とケルト人との抗争は、アングロサクソンのブリテン島への侵攻以来、イングランドとスコットランドの対立感情に受け継がれている。

 そして2012年の”スカイフォール“(個人的には一番傑作だと思う)はボンドの出自がスコットランドであることを正面から取り上げた作品であり、ラストシーンのボンドらが原始的な武器で強大な敵をスコットランドの生家で迎え撃つのはカローデンの戦い(1746)でのハイランダーをイメージしたものであろう。

 英国紳士のというかフレミングの嗜みとしては酒とギャンブルがまず挙げられるが原作と映画にもたっぷりと取り上げられている。
 酒では”ウォッカ・マティーニ、ステアでなくシェイクで“という名セリフが有名であるが実は原作にはそんなシーンは少ない。

 

 

 ボンドのイメージからしてもカクテルなんて軟弱な?ものは似合いそうもなく(上記のブログのような混ぜるためにできた酒はないと言った開高健のイメージも同様で影響を受けたかも)、原作で好んで飲んでいるのはストレートのウォッカであり、またシェイクなんかしたら水で薄まってしまう。これはおそらくはマティーニはオリーブが飾られているので一目でわかること(下画像はダニエル・クレイグ)とシェイクの動作はステアに比べて派手なため、映画向きであることからの脚色であろう。



 なお原作にはウォッカにコショウを加えて“昔のソ連のウォッカはフーゼル油が混じっていたのでコショウで沈降させて飲んでいるうちに癖になってしまって”とつぶやくシーンがあり、こういう武骨な飲み方がボンドには似合っていると思う。

 ギャンブルに関してはカードゲームで有名なシーンが多く、特に2006年の“カジノ・ロワイヤル”は悪役ル・シッフルとのカジノでのカード対決(画像下)がクライマックスとなっている。



 ところでこの画像でプレイされているのはポーカーのバリエーションであるテキサス・ホールデム(2枚の手札と最大5枚の場札を組み合わせて役を作り、場札が公開されるごとにベットしていく)であるが、1953年の原作ではバカラであり、番外編のカジノロワイヤル(1967:画像下、ボンドが5-6人出てくるドタバタコメディーであるが、同時期のシリーズ作”007は2度死ぬ”よりもむしろ大作)でプレイされているのももちろんバカラである。



 これは50年代から60年代にかけての欧州社交界が華やかであった頃のカジノでのカードゲームといえばバカラだったからである。
 しかしながらバカラはカードカウンティングのイカサマ(といっていいのかわからないが現在ほとんどのカジノで禁止されている)を本質的に防止できないし、アジアのカジノがバカラの本場になって欧州上流階級のシンボルとしての位置付けも微妙になったし、ルールがあまりにも単純(だからこそ奥が深いという見方も)ということもあって、しだいにテキサス・ホールデムに他のカジノ・カードゲームも含めて欧米では駆逐されつつあるようだ。

 なお原作でのカジノはフランス・ノルマンジーのローカルなカジノという設定であったが映画ではモンテネグロ(ロケ地はチェコ)という設定であり、要はモンテカルロのようなド派手で観光客だらけのカジノではなく落ち着いた場所だからこそ血なまぐさいシーン(原作も映画もBDSMシーンは最も強烈)が映えることを狙っているのだろう。 

 またカードゲームシーンを詳しく解説している作品としては、“ムーンレイカー”の原作ではコントラクトブリッジのシーンが10数ページにわたってお互いにイカサマをしかけ合う詳細な手の描写と共に書き込まれている。しかしながら訳者がブリッジのルールを全く知らないので、抱腹絶倒の珍訳(少なくとも初版は)になっていた。
 これはブリッジというのは親になったプレーヤーがパートナーの手をさらして二人分プレーするというゲームであるのに、訳者はこれを知らずにナポレオンと副官のつもりで訳しているのでとんでもない展開になっている。

 それだけブリッジというのは日本ではあまり人気がないゲームなのであるが、1964年のゴールドフィンガーでは、オリジナルではグランドスラム(ブリッジでは一番高い役)計画といっていたのが、字幕では満塁ホーマー計画と意訳?されていたこともあった。
 なおコントラクトブリッジは欧米では非常に人気があって世界選手権のバーミューダボウル等が有名で、チェスと並んで最も多種の戦略書籍が出版されているスポーツ(海外ではこの種ゲームはスポーツ扱い)とも云われている。

 私はゲームフリークでありブリッジも本で少しだけ齧ったが、私の友人で囲碁とブリッジの両方で何度も全日本を制したK氏のパートナーとして少し教えてもらったものの、本からの知識は全く通用しなかった。囲碁では本を読むだけの2年間で下記ブログのように初段くらいまでいったのだがやはりブリッジは対人ゲームで対盤ゲームの囲碁とは異なり実戦を重ねないとその本質が理解できないようだ。

 

 

 K氏は常に穏やかな物腰で試合中も殺気立った表情を見せない“本物の勝負師”で、私が囲碁で頂点に立てなかった(団体戦では学生・社会人時代を通じ何度も日本一になったのだが)大きな原因の精神面の未熟さをいつも反省させらる。



 さてこのような”飲む”・鬱(原作のボンドはフレミングの気質を反映しているのかかなり鬱気味なのだが)じゃなくて”打つ”ときたら次はボンドの真骨頂である女性関係であるが、最新作では飾り物的なボンドガール(今はボンドウーマンというらしい)は出てこないどころか007その人に黒人女性が起用される(画像上、ダニエル・クレイグ=ボンドは引退したという設定のため)というストーリーで驚いた。
 Mに女性(ジュディ・デンチ)がマネーペニーに黒人(ナオミ・ハリス)が起用された時は驚くどころかこれまでで一番のハマリ役でいいと思ったがさすがに007本人が黒人女性とは・・・まあこれが世の中の流れというものだろうか。

 食べ放題とか飲み放題とかの“放題”は何か人をウキウキさせる響きがある・・・というかあった。
 しかし“飲み放題”に関しては居酒屋での宴会では幹事の手間を省くために当り前になり、食べ放題ではホテル・旅館の朝食メニューでは店の手間を省くためにこれも当り前になった。



 一時流行ったバイキング(これは日本独自の呼び名で北欧にはそんな料理はない)とかビュッフェ(本来はセルフサービス形式のパーティーという意味であるが店舗で採用すれば結果的に食べ放題になる)といったレストランもほとんどが廉価店となり、例えば50年ほど前の開店時にはお洒落なピッツェリアチェーンだったシェーキーズは今や高校生御用達のピザ食べ放題店である。
 これは元々米国に数多くあった“All You can Eat”方式のレストランが廉価エスニック料理中心であることからも当然の帰結である。

 現段階でまだ人気がある形式としてはオードブルビュッフェにメイン料理をプラスするコース料理仕立て(日本で有名なのはニューヨークグリル)であるが、私が40年ほど前に初めてフランスを訪問した時は中級程度(ワイン込みで一人3-5千円ほどであり、あの頃の円は強く欧州の物価は安かった)のレストランでこの形式が大流行していた記憶がある。

 まあ料理の全て(又はその大部分)が食べ放題だと原価計算上もそんなに美味しいものが出てくるはずもないが、その一部だけが食べ放題ならばどうか?



 そういう意味では私は味とCPの両方で最強だと思うのは丸亀製麺のネギかけ放題であり、店舗自体もうどんが見えなくなるくらいネギをトッピングすることを推奨?しているので私も罪悪感(笑)なしでその推奨に乗っかっている。
 まあネギにそれほど興味がない方にとってはこのサービスはあまり食指をそそられないであろうが、私は香味野菜が大好きで日本のものだと特にネギを好み、お好み焼き店に行けばネギ焼きを注文し、ラーメンチェーン店なら魁力屋(なぜか京都発祥のラーメン屋はネギ入れ放題の店が多い)をよく利用している。



 またタイでは下記ブログのようにレストランでは無料のパクチーがボウルに山盛り(上画像はイメージ)でサービスされるのをあらゆるメニューに料理が見えないくらい手づかみでぶっかけて、さらにお代わりボウルをもらうのを常としていた。

 

 


 おまけに丸亀製麺は最近入れ放題トッピングにネギに加えてワカメを追加して、ライバルのはなまるうどんをさらに引き離しにかかかったようだ(現在売り上げ3倍で利益は10倍)。正直うどんだけならはなまるの方が少し美味しいと思うが、どちらももちもちした讃岐うどんであることに大差はない(下記ブログ参照)ので、やはり“放題”の魅力には勝てないと思う。

 

 

 なお丸亀製麺は“釜揚げ”の方が“かけ”や”ぶっかけ“より安いという異常な値段設定でも知られているが、これは看板メニューの釜揚げに顧客を誘導したい(早くさばかないと熱湯内で保存しているのでふやけてしまう)という意味にプラスして、つけつゆのお椀は丼に比べると小さいためネギをそんなに大量には入れられないという理由もあるのかもしれない。もっともそういう客のためにネギ(等)を入れる別容器を準備しているという至れり尽せりのサービスぶりではあるのだが。

 また魅力的な食べ放題としてはわんこそばや韓国料理のバンチャン・ブラジル料理のシュラスコ等も有名であるが、何と云っても横綱格はチーズワゴンだと思う。



 フランス料理のコースで最後のチーズは日本ではだいたい有料であるが、フランスでは原則的に無料で、ワゴンで数多くサービスされるものを何でもいくらとっても良く、私はだいたい(数がそれほどでもなければ)全種類試してみることにしている。
 まあこれは日本ではチーズをそれほど大量に食べる方は少ないので無料にしては不公平になるし、フランスで無料なのはチーズに合わせてのワインの追加注文を期待しているからだろう。

 私は学生時代の一時期、晩飯はチーズ数種類とパンに赤ワインだけで済ましていたほどのチーズ好きであり、特に山羊やウォッシュ等の癖が強いものを好んでいる。
 そして仕事でフランスに滞在していた時のこと、ロックフォールの産地を通りかかった時に田舎のレストランに入ると、看板メニューがロックフォールのパスタとあったので、日本でもよくあるゴルゴンゾーラを溶かしてパスタに絡めたものだろうと思って注文してみると、意外にもサラダ仕立てでパスタ以上の大量のロックフォールであえた料理であって感激したのを覚えている。

 また買収したロワール川中流域(ホテルの庭にはシャロレー牛が放牧?されているほどのド田舎)の工場に技術指導(私が開発した技術が採用されていた)で滞在していた時、現地のローカルなチーズであるサントモール・ドゥ・トゥーレーヌ(画像下:円筒形のシェーヴルで中央に藁を刺している)を毎日のように食べていたが(周辺には一切レストランはなくホテルのダイニングでシャロレービーフとこのチーズが定番)、その後このチーズはブレイクして世界中で有名になり日本でもちょっとしたチーズ専門店なら買えるようになった。



 そして上記のフランス工場(プラス西ドイツ工場で2工場体制の企業)の買収(といってもマイノリティーだが)にあたっては所有者であるフランスの世界最大のセメント会社から株を譲ってもらう必要があった。
 そしてその会社の創業一族夫妻との最初の顔合わせの席となったのが、パリのトゥール・ダルジャン(画像下は改装後の店のホームページからで、当時はこんな開放的な雰囲気ではなかったがセーヌ川とノートルダム大聖堂を臨む大パノラマはよく覚えている)であり、この私が開発した技術がいかに双方の会社にとってまた人類の進歩にとって有益であるかに関して熱弁をふるった覚えがある。



 私にとっては海外どころか日本でもしたことがない初めてのホスト役接待で、英語での会話も負担になりどんな料理が出たかなんて全く覚えておらず、有名な鴨のナンバープレートも記憶にない。
 ただ唯一憶えているのが食後の豪勢なチーズワゴンであり、交渉がうまくいって(まあだいたい下交渉で合意はとれていたのではあるが)ほっとして我に返り、例によって全部と・・・さすがにおかわりまではしなかったがゲスト夫妻とはチーズに関して話が弾んだ。

 なお私はセラミックス系の素材開発を新入社員時代から退職してフリーランスになった今も専門としているのだが、この件をきっかけにして外国人相手の交渉力に長けていると思われるようになり、この手の仕事がよく廻ってくるようになった。(下記ブログ参照)

 

 

 

 


 外国人は一般的には日本人より大量に食べ飲酒量も多いが、この点では私はあまり人に負けたことがなく(所謂鯨飲馬食であるが酒を飲まない時は少食)、これは相手と打ち解けて交渉をスムーズに進めるのに役立っているかもしれない。

 母が享年100歳で亡くなってからもう5年になる。(下記ブログ参照)

 

 

 最後の10年ほどは病院に連れていくために月に一度くらいは故郷の松山に帰省していたのだが、それ以後は松山との縁が切れてしまい最近は高校の卒業50周年同期会に出席したくらいである。(下記ブログ参照)

 

 


 したがって両親の墓参りにもほとんど行けていないのだが、母の口癖で”お墓とか葬式とかは生き残った人の自己満足のためにあるのだから、死んだ人を気遣う必要は全くない“というのに私も同感して、あまり気にしないことにしている。
 なお本当に気になる場合には、下記ブログに書いたように青森県の恐山を訪問して直接本人?とコンタクトしてみるという手段もあるので、参考までに。

 

 

 まあ私もそのうち死ぬのだが、その後のことなんか全く興味がなく子供たちが勝手にすればよいと思っている。たいした遺産もないし、先祖代々の菩提寺も後継者が数年前にいなくなったし(両親が墓を寺から市営墓地に移したのは正解だった)、そもそもその頃は宇宙葬の時代になっているかも。



 松山には高校卒業までしかいなかったので所謂“夜の街”(画像上の大街道の東側であり、中四国では広島に次いで賑やかだった。なお西側は子供でもOKの“昼の街”)にはあまり詳しくなかったのであるが、頻繁に帰省するようになると馴染みの店もできそこでの偶然の?出会いの話を以下の日記から引用する


(2014年06月12日 作成)
 最近母の調子が思わしくないので故郷の田舎町によく帰省するようになった。
 思わしくないとはいえ93歳にしては驚異的に元気であり、先日生まれて初めて!の入院で癌の摘出手術をしたのだが、転移もたいしたことがなく主治医からこの癌で死ぬことは無いですと太鼓判を捺されるくらいである。

 しかし以前のような夜更かし(母と深夜まで囲碁を打っていると私の方が先にダウンしてしまったものだったのだが・・・)をすることがなくなったので、母が眠った後に私が夜の街に飲みに出かけることが多くなった。
 故郷の町は所謂地方中心都市であるが、ここ数十年は帰省するたびに夜の街が淋しくなっているようだ。

 これは日本全国どこに行っても感じることであり、今や日本の都市の盛り場は京浜・阪神・博多の三大都市圏(もう30年以上行っていないのでわからないが札幌は勢いがあると聞くので四大都市圏か)以外はジリ貧になりつつあるようだ。



 例えばこの三十数年の半分近く住んでいた北九州のシャッター街化(これを逆手に取って画像上のようにシャッターアートで街興しなんてのもあるが)は目を覆うほどであり、名古屋・京都の繁華街も昔の賑わいは無い様に感じる。
 これはおそらく都市のドーナツ化現象であり、所謂飲み屋街が昔ながらの中心部繁華街から郊外の住宅街の近くに移ってしまったからであろう。
 この現象は米国が先輩格であり、初めての都市に出かけるときにダウンタウンにホテルをとってほしいと依頼すると、私は繁華街に泊まりたいと希望したつもりなのに、先方から“淋しいダウンタウンになぜ宿泊したいのか?賑やかな郊外(笑)にしておきなさいよ”とよくいわれたものである。

 そんな故郷の町のさびれつつある繁華街であるが、先日の夜にうろついていたとき(私は下記ブログのようにバーホッピングで夜の散歩?が大好きだった)に路地裏に珍しく人が溢れている立ち飲みバーを見つけてふらりと入ってみた。

 

 

 驚いたことにカウンター内のスタッフはカタール人(アラブ人)、パキスタン人(ロシア系とのことで見かけは普通の白人)、韓国人女性二人(バイトで入った交換留学生)であり、そして左隣の客はアルゼンチン人、右隣の客はポーランド人とバラエティー?に富んでいる。
 そしてどの酒もショットで3-500円という安さであり、カウンターに椅子を並べれば8席くらいしか取れそうもないスペースに50人程度の客が入り、半分近くは路地に溢れ出ている。

 どこでも外人客が多い店は安いとしたものだが、これは私が現在住んでいる茅ヶ崎はサーフィンのメッカ?であるため、(一般的には金がない)サーファーが集まる店は安いというのと同じ理由であろう。
 なお私はサーフィンどころか茅ヶ崎の海に入ったことすらないが、この基準で飲み屋を選ぶためレジェンドクラスも含め(というか湘南の波はショボいので昔の著名人が残っているだけかも)サーファーたちとはずいぶん親しくなり、彼らのサーフィンのために生きるという人生観は何か理解できるような気がしている。

 さてその故郷の町の立ち飲みバーで、後ろで飲んでいたトルコで発掘中というヒッタイト史学者と知り合い話がはずんだ。



 彼によればヒッタイト(画像上)が製鉄技術を発明(少なくとも最初に普及)したため鉄製武器でオリエント諸国の覇者(紀元前1274のカデシュの戦いでエジプトを破ったのが有名で史上初の国際平和条約を締結した)になったという一般的常識?は全くの間違いであり、当時の鉄は貴重品で武器にするなんてとんでもない話で、せいぜい装飾品程度ということである。
 後で調べてみると、大学の製鉄史研究センターだかの所長でヒッタイト史の世界的権威みたいなので、どうやらこれが最新の学説のようである。

 

 

 私の専門はセラミックスであるがどちらかというと粉体工学寄り(詳細は上記ブログ参照)であるため、このセラミックスで培った粉体工学の知見を金属-特に最もメジャーな金属である鉄の製造に応用したいというのは昔からの夢であった。
 もちろん粉末冶金というのは昔からある製法だし日本刀の世界は典型的な粉末冶金技術であるが、私が考えているのは砂鉄からではなく鉄鉱石からの直接粉末冶金技術である。

 十数年前に思い付いて特許だけは取得したのだが、残念ながら実用化のための要素技術が不足でこれまで放置してきた。



 北九州に長年住んでいたため製鉄会社の技術陣に相談したこともあるが、彼らの反応は“鉄の精錬はヒッタイト以来3500年かけて現在の高炉(画像上)・転炉の形に進歩してきたものであり、素人が思いつきでモノを云ってもねえ・・・”というものであった。
 そして鉄の粉末冶金では世界最先進国であるスウェーデンから前記特許の引き合いが来たこともあるが、私が実用化のための要素技術のアイデアを持ち合わせていないことがわかると当然ながら引かれてしまった。

 

 

 今実用化に向け米国でのマーケティングを立ち上げようとしている研究テーマ(その顛末は上記ブログ参照)は、もちろんセラミックスを第一ターゲットにしたものであるが最終的には粉末冶金-特に鉄の製造に応用するための要素技術になるのではないかと密かに期待している。

 先日のバーで製鉄史の権威に出会ったというのも、偶然ではなく何かのめぐり合わせかもしれない・・・というのは楽観(私の囲碁関係者内でのニックネームは楽観派のキョショーであり、囲碁の形勢判断に限らず何でも楽観的に考えるのは子供時代から)を通り越してオカルトか神頼みのレベルかもしれないが。

 先日7月25日発行の月間アフタヌーンで幸村誠の“ヴィンランド・サガ”が20年の連載を終え、全220話で完結した。



 私が一番好きだった漫画であり、突然の終了は残念であるがストーリー的に余韻を残してこの辺りで終わるのが妥当かもしれない。

 ヴィンランド・サガはバイキング全盛時代の11世紀初頭に、コロンブスに500年近く先駆けて北米に植民したバイキングの一団を描いたもので、主人公のトルフィンは実在の人物であるソルフィン・カルルセヴニ(970-?)をモデルにしている。
 画像下はフィラデルフィアにある彼の像であるが、コロンブスよりは平和のシンボルとして好適で、この漫画は欧米でも人気であるから今後ブレークするかも。



 物語の最初の2/3はアイスランド・イングランド・デンマーク・バルト海南岸を舞台にクヌート大王(在位1016-1035)の覇権確立と並行してトルフィンが成長し、最後の1/3がトルフィン率いる開拓団の北米での活動が描かれている。

 フランスの大河小説でシリーズ映画化(画像下はタイトルロールのミシェール・メルシエのクレタ島での奴隷市場シーン)されたり、木原敏江による漫画化を原作に宝塚でも何回もミュージカル化されたりもした“アンジェリク”が、邦訳された分の全26巻では最初の1/3が欧州・地中海・北アフリカで、新大陸(カナダのフランス植民地ヌーベルフランス)に渡ってからが残り2/3というのと似ている。



 なお映画も漫画も宝塚も最初の欧州時代しか取り上げていないが、この小説の本題は新大陸に移ってからであり、邦訳終了以後もカナダでの活躍が延々と続き、最後はフランスに帰国してルイ14世と再度対決するというストーリーらしい。

 ヴィンランド・サガも同じようなペースだと私が(作者も?)生きているうちは完結しないのではないかと懸念していたのであるが、幸いなことに・・・
(以後は最終回のネタバレが含まれます)


幸いなことに急転直下で完結して正直ほっとしている。ひょっとしたらさらに奥地に移動して延々と開拓が続き彼らの行方は誰も知らない・・・という終わり方かもと思っていたのだが。
 なお史実ではこの植民事業は原住民との対立により結局成功せずにグリーンランドに引き上げたわけであるので、史実通りの結末といえるだろう。ただしそれは単なる失敗ではなく、欧州での争いを逃れて理想の国を創るための企てでありその理想を達成するためには原住民と争うわけにはいかないということで、さらに理想に向けて再度挑戦しようというポジティブな終わり方になっている。

 私が漫画に一番嵌っていたのは昭和30年代の月刊誌全盛時代(下記ブログ参照)

 

 

であって、当時は手塚治虫の”鉄腕アトム“、横山光輝の”鉄人28号“、白戸三平の”サスケ”などに夢中になっていた。
 それが週刊誌全盛時代になるとどうもそのペースの速さがうっとおしく感じるようになり、またストーリー漫画そのものにあまり興味が持てなくなった(いしいひさいちのギャグ・4コマは大好きだったが)こともあって、長年漫画から遠ざかっていた。

 それが20年ほど前から下記の三つの漫画に嵌って、連載を追いかけるようになった。
 この”ヴィンランド・サガ“に加えて、岩明均の”ヒストリエ“と羽海野チカの”3月のライオン“であり、ストーリーも絵も図抜けて素晴らしいと思う。



 ヒストリエは古代ギリシア・アレクサンダー時代の実在の人物・エウメネス(紀元前362-316)の一代記であり、彼はアケメネス朝ペルシアを滅ぼして世界帝国を築いたアレクサンダー大王の死後、後継者争い(ディアドコイ戦争)における一方の旗頭である。
 したがってアレクサンダーが亡くなってからがこの作品の本番と予想されるにもかかわらず、20年連載してようやくアレクサンダーが父王の暗殺後戴冠という段階であり、これはもう未完結に終わるのが既定路線?のようなものであったが、昨年夏についに長期(無期限?)休載が発表された。

 トルフィンもエウメネスの歴史上の実在人物とはいえ、それほどその生涯が明らかになってはいないのいくらでも想像力を働かせてストーリーを作る余地はあるが、その背景となる歴史上の有名人物はしっかりと史実をふまえて描写されている。
 特にヴィンランド・サガのクヌート大王とヒストリエのアレクサンダー大王は世界史上の最重要人物の一人であり、どちらも父親が征服王的存在であったがその暗殺(クヌートの父のスヴェン1世は史実では暗殺ではないとされるが急死のタイミングが・・・)により後継者となりそれをはるかに凌駕する大王となるという点で共通している。

 なおアレクサンダーは繰り返し映画(画像下はオリヴァー・ストーンとコリン・ファレルによる”アレキサンダー“2004)・小説・歴史書に取り上げられているが、クヌートに関してはそれほど有名ではなく、これほど詳しく取り上げられたのはヴィンランド・サガが初めてだと思う。



 またクヌートはデーン人であるがデンマークとイングランドの王を兼ねており、ハムレットに描かれるように(舞台はクヌートより200年近く前のデンマークであるが、ハムレットがイングランドに派遣されるシーンがある)両国が密接な関係にあったのは、イングランドの広大な国土がバイキングに占領されてデーンロー地域になっていたため。

 なおイングランドは最終的に同じくバイキングがフランス・ノルマンディー地域に土着したノルマン人に1066年に征服され、この体制が何と現在まで続いている。このノルマンコンクエストはノルマンディー公ウィリアムがアングロサクソン系の諸王やクヌート大王と姻戚関係にあることから王位継承権を主張したもので、単純なバイキングによる侵略ではない。

 ヴィンランド・サガはこういう時代を背景に英国編に大きなスペースを割いており、デーン人とアングロサクソンの対立にプラスして原住民であるケルト系(序盤の最重要人物であるアシェラッドはウェールズ出身の母方の先祖がアーサー王であるという設定で、アーサー王とウェールズの関係については下記ブログ参照)も交えてクヌートの覚醒とトルフィンの成長を描いている。

 

 


 こういう歴史物語をフィクションにするのはこれまでは小説や演劇が主流だったのであるが、漫画で絵的に表現するという途を開いたという意味でヴィンランド・サガとヒストリエは歴史に残る傑作だと思う。

 これに対して“3月のライオン”はプロ将棋の世界を題材としており、ヴィンランド・サガとヒストリエが20年ほどの連載でストーリー上同程度の時間経過だったのに対し、3年ほど(その間主人公はC1からB2へ昇級)と短い。



 私が囲碁をはじめとする盤上ゲームマニアであるが、それを差し引いても(というか将棋のルールすら知らなくても愉しめる)この漫画は傑作だと思うし、将棋人気が囲碁人気を上回るのようになったのも、藤井聡太の登場(下記ブログ参照)と並んで重要な役割を果たしているのではないだろうか。

 

 

 囲碁でも“ヒカルの碁”は有名だが、あくまで囲碁漫画としては傑作という位置付なので・・・

 また現実の将棋界では藤井聡太のような化物が登場して漫画にならなくなった(こんな棋士が登場して毎回勝つのではストーリーにならない)し、コンピューター将棋の発達でロマンが無くなった(下記ブログ参照)こともあり、この漫画の連載開始時期がちょうど旧き良き?将棋界の雰囲気が残る最後の時代(対戦相手の棋譜をコピーするアナログなシーンもある)であったことも幸いしたと思う。

 

 


 というわけでこの20年で将棋界は根本的に変わったが、ストーリーの進行上はまだ3年しかたっていないため、色々と設定に無理が生じている。
 ということはそろそろ連載終了が近付いているのか・・・

 大友啓史・神木隆之介のコンビによる前後編の実写映画化も傑作であったが、そのラストシーンは主人公が竜王戦の挑戦者となり、宗谷名人と山寺で第一局を開始するところで余韻を残して終わり、これは最初のシーンである書寫山圓教寺(どちらもタイトル戦にふさわし雅趣に富む古刹)での名人の対局(画像下)と対になっている。



 漫画では現在竜王戦の挑戦者決定戦決勝に進んだところまで連載が進んでおり、これは映画版と同様ならそろそろ・・・

 ということになれば、私がこの20年嵌っていた漫画がすべて終了してしまうことになり残念である。
 まあ漫画(特にストーリー漫画)というのは私が生まれた頃から本格的に始まった歴史が比較的浅い芸術(以前は漫画を芸術などというと笑われたが、今や日本を代表する文化に)であるためまだまだ進歩の伸びしろが大きく、これからもこれまで以上の傑作が出てくるであろう・・・多分。

映画
ベン・ハー (原題 Ben-Hur)1959
監督 ウィリアム・ワイラー
キャスト ベン・ハー:チャールトン・ヘストン
     メッサラ:スティーヴン・ボイド

原作
ベン・ハー (原題 Ben-Hur A Tale of the Christ)1880
作者 ルー・ウォーレス (1827-1905)

 私は映画フリークであり、この50年以上年間50-100本を映画館で観てきた。
 最近はブログのネタがなくなってきた(今日はアレ食べたコレしたという日記形式では私のことに興味がある人などはいないはずなので、誰も読んでくれないだろう)ので、これまで観た映画とそのオリジナルの原作について書いてみたいと思う。
 なお原則として誰でも知っている有名な作品を取り上げるつもりなので、ストーリーの説明などはしない。



 というわけで第1回は1959年の“ベン・ハー”。
 さすがに封切りでは観ていないが、小学生時代にリバイバル上映で観て洋画に嵌るきっかけとなった。

 ローマ帝国支配時代のユダヤ人貴族ベン・ハーの数奇な半生にイエス・キリストの生涯を交差させて描く作品であり、何と云っても画像下の戦車競走シーンが映画史上最高傑作と云っても良く、これをCGではなくリアルで撮影(実際に死者も出たとか)したのは大群衆シーンと共に現代では絶対に不可能であろう。



 それにしても4頭立ての戦車9台がトラック幅いっぱいに横一列に並んでデモ走行するシーンは実に美しく、これがレース開始と共に入り乱れて大乱戦になる映像美はおそらく史実以上の迫力であったと思われる。



 なお戦車(チャリオット)というのは当時既に騎兵の発達により実践では用いられなくなっており(下記ブログ参照)、

 

 

もっぱら凱旋式のようなセレモニーもしくは当時の最高の娯楽としての戦車競走(現代でいえばF1のようなものというかそれ以上に金がかかりステイタスも高い)に用いられるだけであった。

 戦車がいつ頃から実戦では廃れたのかは民族・地域によって異なるが、戦車競走の本場でありオリンピックの最高人気種目でもあった古代ギリシアでは、アレクサンダー時代にはとっくに忘れられた戦術であった。

 そしてガウガメラ(BC331)では騎兵を率いて突進するアレクサンダーに戦車軍団を主力とするペルシア軍は惨敗し、史上空前の世界帝国(アケメネス朝)ペルシアはあっけなく滅んでしまった。

 この映画はアカデミー賞も作品、ワイラー(監督)、ヘストン(主演男優)を含め史上最多の11部門で受賞し、ハリウッド超大作史劇時代を代表する名作として世界中で記録的大ヒットとなり、私がこれまで観た映画の中でも一番感激した作品でもある。
 もっとも今観ると戦車競走終了後のイエスがらみのシーンが続いて冗長と感じるのは、原作がどちらかというとイエスの方に重点に置いて書いているからであろう。これは物価換算すれば史上最高のヒット作とされる“風と共に去りぬ(1939 ただしこの映画は下記ブログに書いたようにpolitical correctnessの立場から現代米国では語るのもおぞましいタブー扱い)が、前半クライマックスの南北戦争後にレットとスカーレットの夫婦喧嘩が延々と続いて退屈になるのと似ている。

 

 

 要は原作をリスペクトしてなるべくそのストーリーに忠実になろうとすると、小説と映画では映えるパートが異なるので冗長になってしまうのである。

 さてその原作であるが、ルー・ウォーレスは米国の軍人・政治家・外交官で1880年の出版時にはニューメキシコ準州の知事であった。
 その知事時代にはリンカン郡戦争(ジョン・ウェインの晩年の傑作“チザム(1970)”に詳しく描かれている)の裁判を担当し、ビリー・ザ・キッドに逮捕状を出したりした。なお牧場主側の盟主チザム=ウェイン陣営にビリーとパット・ギャレットが属し、後に敵味方に分かれて殺し合うのが西部劇の定番である。

 映画版ベン・ハーでは敵役のメッサラは戦車競争に敗れ事故死するが、ウォレスの原作では志々雄真実のような姿で生き残りしつこくローマまでベンを狙うもののベンは赦しの心をもって・・・という筋でイエスによる赦しと重ねており、映画版のイエスのシーンよりストーリーに整合性がある。
 ウォーレスはリンカン郡戦争とその後の復讐の応酬でビリー等多くが殺された事に心を痛め、赦しの精神で臨むべしとこの小説を書いたという説もある。

 またこの小説は発売直後から米国で大ベストセラーになってベストセラー原作から映画化というパターンの嚆矢となり、その名声からウォーレスはオスマン帝国(当時はパレスチナを含む中東全域はオスマン帝国領)駐在の米国大使に任命されている。

 なおリメイクの“ベン・ハー(2016)”では何とメッサラは戦車競走後にベン・ハーと和解して彼の妹と結婚するというハッピーエンドになっており、これはいくら何でも・・・戦車競走のシーンも今一つ迫力に欠けていた(いやこの映画だけを見ればスゴイのだがどうしても1959年版と比較してしまうもので)し、ビデオスル―になったのもやむを得ないかな。



 一説によると1959年版では、ベン・ハーとメッサラ(画像上)は青年時代に同性愛関係にあってそれが二人の愛憎ドロドロの関係を生んだという裏設定(原作ではそういう雰囲気はない)があり、そのイメージを払拭するために2016年版は脚色されたとか。

 なお”ベン・ハー(1925)”はサイレント映画時代の超々大作であり、戦車競走シーンは1959年版に比べてちょっと編集が粗いもののその迫力は負けていない。そしてエウボイア海峡(ギリシア本土と細長いエウボイア島との間の細長い海峡で映画版ではマケドニア沖と軽く触れられるだけであるが、原作では両軍の動きを克明に描写)の海戦は、59年版(いかにも船がミニチュアで興ざめ)をはるかにしのぐ大迫力で、実写海戦シーン(画像下・CG時代になる前は金がかかるのであまりいい作品はなく、この映画は別格)では史上最高ではないだろうか。



 歴史上の実在人物として登場するのはイエスとその周囲の人たちを除いては、ユダヤ属州総督のピラト(在任 26~36でイエスの処刑は30年)とローマ皇帝のティベリウス(在位 14~37)であり、エルサレムの戦車競走ではティベリウス記念としてピラトが開催を宣言するシーンがある。

 ボブ・グッチョーネの怪作“カリギュラ(1980)”ではタイトルロールにマルカム・マクダウエル(”時計じかけのオレンジ(1970)”のアレックスと重なりハマリ役)、ティベリウスにピーター・オトゥールと豪華版で、カリギュラ効果という言葉を生むほど話題に。カプリ島に隠棲するティベリウスはスターウォーズ等の悪の皇帝の原型だろうが、オトゥールの迫力はそれらしく魅せたのに対しベン・ハーでは軽い皮肉屋皇帝というキャラで拍子抜けだが、実態はこんなものだったかも。
 なおこの種の作品では怪物ティベリウスが新怪物のカリグラに殺されるのが定番だが史実では病死である。

 ベン・ハーのフルネームはユダ・ベン・ハーであり、王族という設定なのでユダ部族からとったのであろう。
 なおイスラエル12部族の中でもユダ部族は現在まで残る中心となった部族であり(下記ブログ参照)、

 

 

その最初の王族であるダビデ・ソロモンからイエスは連綿とつながる血統とされ、ユダという名前は多い。
 キリスト教世界ではユダ(イスカリオテのユダ)は12使徒のうちイエスを裏切った裏切者のイメージが強いが、他の12使徒も含めて聖書には大勢のユダが登場する。

 周知のようにハリウッドはユダヤ資本が支配する世界であるが、タイトルロールの名前をユダとして繰り返し映画化されたのもその一環であろう。(下記ブログ参照)

 

 

 なおこのようなユダヤ礼賛映画で主役までユダヤ人では一般受けが良くないという理由からかアングロサクソン(+スコットランド)のヘストンがタイトルロールに起用されたが、役柄だけを考えたら当時既に大スターだったポール・ニューマンが妥当か?

 ヘストンは当時“十戒(1957)”のモーゼや”大海賊(1958)”のアンドリュー・ジャクソン(大戦争の司令官から米国大統領になったのは独立戦争のワシントン、米英戦争のこのジャクソン、南北戦争のグラント、第二次大戦欧州戦線のアイゼンハワーといて、マッカーサーがこの系譜に連なっていれば現代史はかなり変わっていたであろうが自滅したのは残念)等の重々しい老け役を若いながら得意としていた。
 それがこのベン・ハー一本で大ブレイクして肉体美の正義のヒーローという唯一無二の立ち位置をハリウッドで確立することになった。

 ヘストンの事実上の遺作(もう1本くらいあるかも)となったティム・バートン版の“猿の惑星(2001)”ではタカ派?の猿に扮して銃推進派の面目躍如たるところを見せていた。バートンは(悪意のある)シャレで起用したのだろうが、さすがに貫禄が違うかな。

 なおヘストンの経歴に関して良く語られる保守主義への転向?については…
 これはヘストンが変わったのではなく米国の方が変わったのだと思う。ヘストンの信念はキング牧師と共にワシントン大行進に加わったときから変わっていないだろう。

 下画像はその時のスナップで左からシドニー・ポワチエ、ハリー・ベラフォンテ、ヘストン。皮肉にも背後のリンカーン像が猿の惑星のラストシーン(自由の女神ではなくこのバートン版の方が原作に忠実)では・・・
 あまり政治的なことは書きたくないのでこれ以上は云わないが。



 特に悲しいのはヘストンの遺作?となったのが“ボウリング・フォー・コロンバイン(2002)”ということである。

 上記のバートン版“猿の惑星”以後にもう1本あるかもというのはこの作品のことで、完全にマイケル・ムーアの騙し討ちであり、事実と異なる印象を与える編集スタイルなどある意味イエロージャーナリズムの傑作(完全に事実に即したドキュメンタリーで一般受けする面白い作品ができるはずがない)といえるかもしれないが、ヘストンの印象が決定的に悪くなってしまったのは残念である。

 今年はミュージカル“レ・ミゼラブル”のロンドン初演(1985)から40周年ということで、帝劇(1987初演)のクロージング公演や、もうすぐ始まるワールドツアースペクタキュラー等で次々と取り上げられるようだ。

 なおこのスペクタキュラーというのはコンサート形式の大がかりのものであり、レミゼで成功して以来様々なミュージカルで上演されるようになったが、やはりオリジナルの舞台でないと愉しめないし(一番観たいのは下記ブログに取り上げたラミン・カルムルーのジャン・ヴァルジヤン)、

 

 

まあレミゼは飽きるほど観ているから変わった形式のものをという上級者?向けだろうか。

 

 この芝居の“顔”としてポスター等に良く取り上げられるのは1862年に出版されたユーゴ―(1802~1885)の原作のユーグ版(1879)の挿絵(エミール・バヤールの木版画)からとった幼少時代のコゼットの顔の背後に三色旗を配した下画像で、このデザインを見ると反射的に“レ・ミゼラブル”を思い出すという仕掛けになっている。

 

 

 この芝居は1832年パリの6月暴動がクライマックスとなっており、ユーゴーはまさにリアルタイムでバリケードの現場に居合わせていた。そしてその前後のエポニーヌがオンマイオウンを歌いながら街を歩くシーンや、パリの下水道を彷徨うシーンがあり、ユーゴーが育ち愛したパリ、そして19年にわたる国外亡命中でパリを想いながらこの小説を書いたこと等が思い出される。

 

 そして映画化されたのは2012年であるが、その公開直後に書いたブログを以下に引用する。

 

(2013年01月11日 作成)

                           

 先日評判のミュージカル映画“レ・ミゼラブル”を観た。

 前評判に違わぬ力作で、映画館中が啜り泣きの声に満、最近老化のせいか涙腺がゆるくなった私も視覚がかすんできて・・・

 

 評判になったミュージカルの映画化で舞台以上に成功した作品というのはウェストサイドストーリー(これは舞台としてはたいしてヒットせず、最近ステージアラウンド版で観たのは良かったが・・・)くらいしか知らないし、しかもレミゼは世界ミュージカル史上で最も成功した作品のひとつであり、それに勝るとも劣らぬ映画化というのは奇跡的かもしれない。

 

 

 レミゼの舞台はパリのバリケードのすばらしいセット(画像上)がトランスフォーマーのように文字通り“立ち上がる”のに驚嘆させられたが、当時のパリをスペクタキュラーに鳥瞰する映画の迫力はそれに負けていない。

 また舞台の一番の強みである目の前で歌手の生の声が聞こえるという点も、ミュージカル映画の常識だった口パクをやめて生で歌いながら演じる方式を採用することにより臨場感を醸し出している。

 

 ミュージカルというのはなぜ普通の台詞を歌で表現するのかわからないと思い昔は苦手であったが、最近はむしろストレートプレイより好きになってきた。

 考えてみれば詩は散文より歴史が旧く、文芸よりもさらに歴史が旧いのが音楽であるから、音楽に乗せて唄うというのは最も普通のパーフォーマンスアートの表現形式かもしれない。歌舞伎だって文字通りその起源・基本は歌い踊ることだし、オペラや各国の民俗芸能も同様である。

 

 ブロードウェーはミュージカルのメッカとして名高く私もNY訪問のたびに観るようにしているが、ここしばらくはロンドン発のミュージカルが幅を利かすようになってきた。

 そしてこのレミゼも1985年ロンドンが実質的初演で、今も世界中で上演が続いている。

 

 レ・ミゼラブルは云うまでもなく19世紀の大文豪ユーゴーの長編小説であり、“ああ無情”のようなジュヴナイル版で日本でもストーリーは知らない人は少ないくらいで、知名度としては世界でも抜群の原作である。

 しかしながらどう考えてもミュージカル向きの小説とは思えないので、次の2点を強調して舞台に映えるようにしている。

 

 第1点は前述のパリ市街でアンジョルラスらが立てこもる壮大なバリケードのセットであり、登場人物以上に強烈な印象を与える“主役”といってもいい。

 

 第2点は、原作では脇役の一人であるジャヴェル警部を主役のジャンヴァルジャンと対等の主役にして、二人の対照的な個性と両者の闘争を主題にもってきている点である。

 そしてパリの闇の中に紛れ込んだジャンヴァルジャンを、必ず見つけてやるとノートルダムから夜の街を見下ろしながらジャヴェルが”stars”を唄うシーン(画像下)は強烈な印象を与える。なお舞台版では前半最後の見せ場として感情をあらわに歌い上げるのであるが、映画版のラッセル・クロウは静かに闘志を燃やすという態であるのは評判が悪かったようだが、映画はアップになるので感情が伝わりやすいためこの方が良いと思った。

 

 

 パリの城壁内はわずか10キロ四方程度であるが、ここに潜伏されると国家権力をもってしても一人の犯罪者を探し出すことはできないというのはまさに犯罪集団による地下組織のようなものがあるためであり、まさに犯罪都市パリを象徴している。

 

 このような退廃的で妖しげなな魅力に満ちた印象の街といえば、戦前の上海、アルジェのカスバ(下画像はジュリアン・デュヴィヴエとジャン・ギャバンの”望郷”)、カポネ時代のシカゴ等が思い浮かぶが、やはりその歴史やスケールからパリをしのぐものはないような気がする。

 

 

 なお鬼平などが強大な闇の犯罪組織と対決する江戸の街というのはフィクションだけの世界で、実際の江戸は世界一の大都会でありながら衛生的で健全な街だったようだ。

 

 そのパリには歴史的にフィクション・ノンフィクションが入り混じった巨大な犯罪組織とそれと対決する強力な警察組織というイメージがあり、ジャヴェルをもう一人の主役としてもってきたというのもそのイメージに乗っかってのことだろう。

 

 パリの警察といえばまず名前が出てくるのがアンジェリクなどに登場するデグレ警部であり、実在の人物でルイ14世の時代に数々の宮廷の陰謀を暴いて歴史に名を残した。

 また犯罪者の側ではルパン(日本ではルパン3世のことになってしまったのでアルセーヌ・ルパンと云わないと通じないかも)とファントマ(子供向けの翻訳全集が出版されていたが今はもう絶版)が世界的に有名な双璧であり、それぞれガニマール警部・ジューヴ警部というライバルの警察官が配されている。特にファントマは魔都パリを跳梁する残虐・不気味な怪人として子供心に強く印象付けられ怖かったのを憶えているが、映画化シリーズ(画像下)ではタイトルロールのジャン・マレーとルイ・ド・フュネス(ジューヴ警部役)のコンビでドタバタコメディーになってしまったのは拍子抜けであった。

 

 

 また第二次大戦時のパリのレジスタンス組織だって何か今は正義の味方というイメージであるが、ヴィシー政権にとってみれば闇の犯罪組織と大差はなく、そのような組織が活躍できたというのも魔都パリのなせる業であろう。

 

 レミゼに登場するパリの犯罪組織では、その下っ端ではあるがなかなかしたたかな存在としてテナルディエが重要な人物として登場し、彼は全体のストーリーの中で最初から最後まで主人公たちと宿縁の存在として関わってくる。

 ジャンヴァルジャンが出所する1815年はワーテルローの年であるが、このときテナルディエは戦場泥棒としてナポレオン軍将校であったマリウスの父と邂逅することから腐れ縁が始まり、最後にマリウスにジャンヴァルジャンの誠実さを期せずして告げてしまうところまで、あらゆる重要なタイミングで狂言回し的に必ずからんでくる。

 

 

 そして彼の妻・娘・息子も主人公たちといろいろな因縁でからんでくるというまさに腐れ縁のテナルディエ一家(画像上はコゼットをはさんだサシャ・バロン・コーエンとヘレナ・ボトム・カーターのテナルディエ夫妻で、一番お得な役かも)であるが、原題のレ・ミゼラブル(惨めな人々)から考えても、むしろユーゴーはテナルディエのキャラクターに思い入れがあったのかもしれない。

 そういう意味ではパリの浮浪児にして地下犯罪組織?にも顔が利き、バリケードで撃たれて悲劇的な最期となるガヴローシュ(子役の夜間就労制限でよく問題になる)はテナルディエの息子というのはかなり重要な設定だと思うのに、ミュージカル化ではその点にふれていないのはちょっと残念である。

 

 現在のパリの街は明るく健康的で、退廃的で妖しい雰囲気というのはあまり感じることができない。キャバレー(特にクレイジーホースとムーラン・ルージュ)も観光客向けが露骨になったし、ファントムが出てきそうなオペラ座も機能的な新オペラ座に替わってしまった。

 これはパリに限らずどこの大都会も同様であり、数十年前にはあちこちにあった猥雑な街が姿を消しつつあるのは残念な気がする。

 現在公開中の映画”F1“をIMAXで観た。



 レースシーンは評判に違わぬ大迫力で、実際のF1グランプリの映像とシームレスにつながっており、製作費300億円というのも頷ける。
 もっともタイアップメーカーからの協賛費?も莫大であるが、F1の興行そのものが協賛メーカー(昔のタバコメーカーに代わって今はハイテク企業が中心)の費用で支えられているようなものであり、堂々と協賛メーカーのロゴを出しても逆にリアルに見える。

 また後半9レースをすべてストーリーに取り入れているのだが、鈴鹿の扱いが一番小さかったのはまあその“協賛費”をあまり出せなかったという日本の経済力の低下(下記ブログ参照)を象徴しているのであろう。

 

 




そして逆にアブダビの最終レース(画像上、暑いのでレース終盤は夜になる時間に開催)はブラッド・ピットが優勝するというストーリー上の重要性以上にアブダビの観光ビデオ的要素がふんだんで、オイルマネーの潤沢さをよく示していると感じた。

 この映画のストーリーはブラピがデイトナ24Hレース(画像下)に優勝するところから始まる。



 このレースはル・マン24Hレース(スティーブ・マックイーンの”栄光のル・マン“はこの形式のレースをよく描写した傑作)と並ぶ耐久レースの最高峰であり、毎年フロリダのデイトナビーチのデイトナ・インターナショナル・スピードウェイで開催され、F1にこれまであまり人気がなかった米国では最も人気があるレースの一つである。逆に言えばだからこそF1と比較する意味で映画冒頭にもってきたのであろう。

 そしてデイトナ・スピードウェイは米国で最も人気があるNASCARレースの最高峰であるデイトナ500(画像下)の舞台でもある。



 私は2015年のデイトナ24Hレースの開催日にデイトナビーチにいた。
 下記ブログに書いたデイトナビーチでのセラミックスの国際会議で発表するためであり、ある意味人生がかかっていたため2日ほど早めに投宿して準備していた。

 

 

 そのため当日が24Hレースだとは全く知らなかったのであるが、郊外にあるレース場からの大爆音が市内を1日中鳴り響いており驚いた覚えがある。

 そして国際会議も一段落して暇ができた時話のタネにと思いデイトナ・スピードウェイを見物に出かけた。
 するとNASCARにレースドライバーと同乗して時速300KM(米国だから時速180マイル)の世界を愉しむというアトラクションが開催されており、ちょっと高かった(2-300$だったかな)が参加してみた。

 ヘルメットをかぶって窓から乗り込む(ドアがないため)のはむしろシートが車体に囲まれているのだから安心なくらいであるが、1周4Kmのオーバルコース3周の走行が始まるとまさに絶叫の世界でスピードメーターを見る余裕もない。特にバンクの最大傾斜角度31度!というのは直角かと思う位でGがすごい。助手席ながら素晴らしい経験で、もし子供時代だったら車の魅力に取りつかれていたかもしれない。

 ・・・とはいえ、ジェットコースター的なアトラクションとして誰でも愉しむことができるのであるから案外たいしたことはないと云えるかもしれない。
 これはレース並みの時速300KMといっても、Gがかかるのは加速度が影響するのであって、実際には加速度はレースみたいにはかけていないのであろう。
 速度だけなら新幹線が時速300KM、ジェット機が900KMであり、さらにいえば地球の自転速度が日本の緯度で1500KM、公転速度が11万KM、宇宙の膨張速度が40億KMだそうだから、要は加速度さえかかっていなければ速度は気がつくことすらないのである。
 なお地表で感じるG(重力)は地球の質量が主要因であり。自転の遠心力で相殺されるものの僅かであり、赤道のGは極地より0.5%程度小さいに過ぎない。

 ・・・などと考えること自体が私は車の“速さのロマン”に興味がないからかもしれないが、そもそも私は車に乗らないし、全く車には興味がなかった。
 それが何の因果か、30年ほど前にセラミックス塗料を用いた”汚れない車“というコンセプトカーの実現のために、車の開発を手がけたことがある。(下記ブログ参照)

 


 世界中の、特に欧州や米国の自動車メーカーを廻って提携関係を築いたりしたものの、結局は会社の年間利益を吐き出すほどの大失敗に終わった。各社との契約は厳重な守秘義務があるものの、今はとうに契約期限切れであるから書いてもいいのだがあまり思い出したくもないので・・・ 

 個人的にも死の一歩手前まで追い詰められるなど、このプロジェクトに関わらなければ・・・という思いは逆にいい経験をしたというプラス面も含めてその後ずっと引きずっている。

 そしてこのプロジェクトが失敗した原因の一つとして,私が車に対して何の愛着もなく車の歴史や文化も知らなかったため、顧客の車というものに対する単なる移動手段ではない“想い”が全く理解できなかったことが挙げられる。

 これは最初の段階では車に対して何の知識もない素人だからこそ斬新な発想ができると自惚れてこの業界の参入したのだが、確かにそういう面もあったものの最後はそこで引っかかったような気がする。



 最近は“フォードVSフェラーリ”や”フェラーリ“(画像上:マイケル・マンのおそらく最後の傑作)など、欧州と米国の車文化を正面から取り上げた名作映画が次々と封切られ、この”F1“がその集大成だろうか。

 私も30年前のあの黒歴史(笑)以来、文化としての車?には少しは興味を持つようになり、10年前のデイトナ・スピードウェイでの経験もその一助となっている。

 私はこの40年以上飲まなかった日が一日もないという立派な?アル中ながら、首から下はどこも悪い箇所がないという健康優良爺である。

 これは毎日のアルコール摂取量を度数換算により計算して、少なくとも月平均では飲み過ぎないように気を付けているからかもしれない。
 なお酒はワインと日本酒以外はだいたい度数が高いほど美味しい(特にビールとウィスキー)が、度数が高いものは大量に飲めないので結局はハイアルコールのものを飲む方がトータルアルコール量は抑えられるようである。

 というわけで酒は強くないが強い酒は好きな自分の飲み方(下記ブログに書いたように混ぜるためにできた酒はないと開高健から聞いたことも影響しているかも)

 

 

は健康にいいと思っているのであるがさあどうだろうか。

 なお酒を飲んだ方が健康にいいという統計データ?をよく見るが、これは酒を飲めるほど健康な方(私みたいな)と体が弱くて飲めない方を同列に比較しているからであって、原因と結果を取り違えている。
 酒が健康にいいはずはなく、まあだいたい旨いものは体に悪いとしたものである。

 ただ古稀が近付いてきた現在では、酒量は40台の頃の6割程度になった。
 特に下記のブログに書いたような一人でバーに行くことが、最近ではほぼなくなったのは、日常生活であまり張り詰めた時間を過ごすことがなくなって3rd place的な場所が必要なくなったのかもしれない。

(2011年11月26日 作成)バーの愉しみ
        
 バーで酒を飲んで何が愉しいのか?

 私はこの何十年飲まなかった日が一日もなかったという立派な?アル中だが、それは純粋に酒が旨いと思っているからであって別に酒を飲む雰囲気が好きというわけではない。むしろ本当に好きな酒なら自室で味わいながら飲みたい。



 バーの大きな愉しみといえば、カウンターでマスターや隣の客などと会話を愉しむということであろうし、常連として通う店でも、また見知らぬ国の見知らぬ街の見知らぬ店で見知らぬ方々と交流するのもいいものである。
 しかし会話こそがバーで必須の愉しみかというと、ただ腰をおろしてぼんやりと時間を過ごすだけというのも一日の終わりになぜか癒される時間である。

 バーには酒の種類が豊富だし、カクテルなど素人には作れないものも飲めるからいいかというとそうでもない。
 私は基本的にどんな酒もストレートなので、カクテルはあまり飲まないし名前もほとんど知らない。またバックバーに飲んだことがない酒がずらりと並んでいる中から選ぶのは愉しいものであるが、これは経営的な側面からは店にとっても客にとってもお勧めできない。
 というのは珍しい酒をずらりと並べようと思うと在庫費用がとんでもなくかかり、売れ残りも発生する。バーでストレートで酒を注文するとカクテルやビールを飲むよりはるかに割高になるのはこのためである。



 私がこれまで訪問したバーで最もモルトの数を揃えていたのは赤坂見附の裏通りにある店で、バックバーに約700本。置ききれないのでマスターの自宅にあと500本あるとか。この数になるとオフィシャルはほとんどなく、大半はボトラーズものなので説明を聞かないと何が何だかわからないが、65%程度のカスクなどはごろごろしていてまさに宝の山である。
 元編集者のマスターは闘病生活中で、余命いくばくもとブログで公表しながら店に立っている姿は壮絶で潔い印象であったが先日ついに代替わりした。客の数から考えてかなりの量はマスターが自分で飲んでいたのではないだろうか。

 スコットランドは訪問したことがないが、英国でもこれほどモルトの品揃えがそろった店は見たことが無い・・・という以前に品揃えの多さに拘った店そのものがないような気がする。

 バーボンも良質のものは日本でしか飲んだことがない。
 水質の影響かバーボンの産地とクレーの産地は一致しており、アトランタで買収した事業所向けのクレー採掘の関係から十数年前にケンタッキー・テネシーを走り回ったときのこと。(下記ブログ参照)

 

 

 西部劇にでも出てきそうな(画像下は19世紀のウェスタン・サルーン)メインストリート1本の両側にしか街らしきものがないという田舎町でバーも1軒だけ。バーボンは樽詰めのハウスバーボン?1種類のみ。銘柄を聞いたが“それはバーボン(笑)”というだけで銘柄もヘチマもない。



 フランスのド田舎で、ラベルも貼っていないハウスワインマグナムボトルがどんと目の前に置かれ、好きなだけ自分でついであとは目分量で飲んだ量を計算するというのと同じ感覚であり、日本人は少し贅沢なのかもしれない。

 ただしビールだけは生のタップが数多く立っているのを見ると嬉しくなり、生ビールのサービスというのは原則的に売れ残りが生じないことを前提としているので価格に跳ね返らない。
 私の生涯アルコール摂取量の約70%はビールからであるが、昔はビールといえば英国とベルギーに限ると考えていて、特に英国訪問時に嵌ってしまい(下記ブログ参照)、

 

 

上面発酵エールを求めて当時流行っていたアイリッシュパブ・ブリティッシュパブによく訪問するようになった(下記ブログ参照)。

 


 しかし最近の日本の地ビールの発展は日本酒醸造の技術力があるからか目覚しいものがあり、今では日本のビールは世界一といえると思う。
 ただそういう地ビールメーカーは小資本であり、上面発酵ビールの欧州大手ブリューアリーに比べると運賃を差し引いても価格競争力がない(ビールは他の酒に比べると装置産業という側面が強い)のが難である。

 私がこれまで訪問した中で生ビールタップ数のMAXはインディアナポリスの裏通りにあるバーで四十数本立っていた(現在は画像下の両国・ポパイが100本ほど立っていて、個人経験の最高記録)。大半は米国の地ビールであり、米国ビールといえば水みたいな不味いビールの代表という先入観があるが、案外米国は個性的なマイクロブリューアリー大国なのである。



 そして最近私の地元でも三十本ほど立っているバーが開店した。ほとんどは日本の地ビールで10%以上のものも何本かそろえており、リアル用のハンドポンプも3本ある。こんな田舎に大丈夫かと思ったがかなりの盛況であり、こういう店が増えれば日本のクラフトビールの将来は明るいと思う。

 バーでは会話が無くてもぼんやり過ごすだけでもいいという話に戻ると、そのぼんやりのBGM?としてライブ演奏というのもいいものである。
 シカゴの場末のブルースハウスやNYはハーレムにあるジャズバーは短期滞在中何晩か続けて通ったが、完全にBGMに徹していて存在感を主張しないのがいいと思った。(下記ブログ参照)

 

 

 なおハーレムというのは危険で寂れたスラム街ではなく世界中から観光客が来る繁華街であるが、裏通りのそのバーなどはマスター・客・演奏者がすべて黒人で“らしい”雰囲気であった。

 またバーというのはそんなに価格が高くないというのも大きなメリットである。
 私はカラオケに興味がないのでスナックという業態の店には絶対に行かないのだが、場末のスナックよりもどんな高級店であってもバーの方が安心して飲めるだろう。

 これに対してバーの価格面での不満という点ではチャージの問題がある。
 チャージのような不明朗なものを請求されるのは不愉快だというのではなく、その逆にチャージをもっと高くして酒の単価を安くしてほしいと思う。
 バーの経費のうち、酒の占める割合はほんの一部だと思うのに、5杯飲む客は1杯しか飲まない客の5倍の料金というのは不公平ではないのか?
 これを解決するにはチャージを思い切り高くすれば良い。ただしこれを極端にすると飲み放題の店になってメチャクチャになるだろうから、チャージと平均酒代が同じくらいというのがちょうどいいバランスではないだろうか。

 こんな方針のバーはないかと思っていたら最近みつけた。隅田川を見下ろす高層マンションの一室にある看板もないプライベート?バー。
 4ショット頼むとチャージと同じくらいの料金で、トータルするとその場所柄の相場よりはるかに安い。もっともこの料金体系だと客がなかなか帰らずローテーションしなくなるが、そのバーは元々そういう経営方針で、マニアックな会話を長時間まったりと愉しむというのがコンセプトだからそれでいいのである。

 何だか主題(そんなものがあるのか?)から外れたとりとめもない話になってしまったが、とってつけたような結論でバーの一番の愉しみとして“人との出逢い”をあげたい。

 バーのカウンターで偶然隣合せにならなければ、絶対に出逢う可能性がなかったような方と知り合ったり、顔と名前くらいしか知らなかった方とバーで飲んで親しくなったり・・・中には一生の付き合いになるような方も。

 なぜバーだとそういうことになるのか? 東海道線の座席で隣同士になった場合(笑)ではダメなのか-さすがにどんな美女が隣に座っても声をかける勇気?はありません。

 理由はわからないがそれがバーの雰囲気というものであろうし、そういう雰囲気が濃厚である店が、少なくとも私にとってはいいバーである。

(2011年11月27日追記)
 そういえばケンタッキー・テネシーの19世紀から操業している鉱山でクレースラリーを巨大な木製の樽に入れて貯蔵しているのを見たことがある。ウィスキーのように樽の中で寝かす効果は全くないが、ポリやステンレスのタンクが出現するまでは実用的な方法だったのだろうし、バーボンの産地だけに樽の製造技術も優れていたのだろう。(下画像はバーボン樽)



 欧米の樽は中央が膨らんだ構造であるが、日本の樽は桶の大きなものであるのでストレートな構造である。どちらも職人の高度な手作業であり、和樽の方が芸術的ともいえる精緻な構造であるが、大型化に向くのは洋樽である。

(2011年11月28日 追記)
 なおウィスキーの色は樽からの抽出成分であり、蒸留酒に色がついているはずはない。
 ということは醸造酒を寝かすのとは意味が違うのであるから、樽の成分を添加すれば短期間で高級酒を作ることはできないのか? もっと極端に言えば蒸留工程も省いて工業用アルコールに旨み成分?みたいなものを加えるのはどうか。


 誰もそんなことを研究しないのは、そうやって作った人工酒?は何かニセモノというイメージでせっかく資金をかけて研究しても高く売れそうにないからか。嗜好品であるからイメージも大事なので・・・というか酒が旨いと感じること自体が酒造メーカーの刷り込み戦略に乗せられているだけかもしれない。

 SFの1ジャンルとしてのヒロイックファンタジーは1910年代のバローズの火星シリーズから始まり、1930年代の米国でパルプマガジンの流行に乗ってその全盛期を迎え、代表作としてはハワードのコナンシリーズが挙げられる。(画像下はコナンを描いたウィアード・テイルズ誌の表紙)



 当時の大恐慌の時代を背景とした現実逃避の要望に応えるという意味があったものと思われ、現実から完全に逃れるなら宇宙や異世界を舞台にするのが好都合というわけである。
 またこのジャンルではエロチックな表現や挿絵を売り物にする場合も多く、米国ではコムストック法をはじめ検閲が厳しいため、いやこれは現実とは無関係な異世界のファンタジーなんですよという言い訳という意味もあったと思われる。

 ヒロイックファンタジーは大恐慌が収まり第二次大戦に至る中で衰退していったが、1960年代から再流行が始まり、その中心がバランタイン・ブックスで、私もたくさん買ったが紙質が悪いペーパーバックなので今はもうボロボロである。

 そしてその中でも異彩を放っているのがジョン・ノーマン(1931~)によるゴルシリーズであり、その出版歴を下記する。

1 Tarnsman of Gor (1966) ゴルの巨鳥戦士(1975)
2 Outlaw of Gor (1967) ゴルの無法者(1977)
3 Priest-Kings of Gor (1968) ゴルの神官王(1979)
4 Nomads of Gor (1969) ゴルの遊牧民(1982)
5 Assassin of Gor (1970) ゴルの暗殺者(1982)
6 Raiders of Gor (1971) ゴルの襲撃者(1988)
7 Captive of Gor (1972)
8 Hunters of Gor (1974)
9 Marauders of Gor (1975)
10 Tribesmen of Gor (1976)
11 Slave Girl of Gor (1977)
12 Beasts of Gor (1978)
13 Explorers of Gor (1979)
14 Fighting Slave of Gor (1980)
15 Rogue of Gor (1981)
16 Guardsman of Gor (1981)
17 Savages of Gor (1982)
18 Blood Brothers of Gor (1982)
19 Kajira of Gor (1983)
20 Players of Gor (1984)
21 Mercenaries of Gor (1985)
22 Dancer of Gor (1986)
23 Renegades of Gor (1986)
24 Vagabonds of Gor (1987)
25 Magicians of Gor (1988)
26 Witness of Gor (2001)
27 Prize of Gor (2008)
28 Kur of Gor (2009)
29 Swordsman of Gor (2010)
30 Mariners of Gor (2011)
31 Conspirators of Gor (2012)
32 Smugglers of Gor (2012)
33 Rebels of Gor (2013)
34 Plunder of Gor (2016)
35 Quarry of Gor (2019)
36 Avengers of Gor (2021)
37 Warriors of Gor (2022)
38 Treasure of Gor (2024)

 米国での出版は1966年からで現在まで38巻、邦訳は6巻まで出たところで当局の圧力により?(あるいは自主規制か?)刊行が中断された。
 というのはこのゴルシリーズはヒロイックファンタジーとしてのエロチックな側面を強調したものであり、特にヒロインが奴隷(鋼鉄の首輪に太腿には焼き印)にされてO嬢の物語でいうところの“奴隷状態の幸福”(下記ブログ参照)

 

 

を満喫(ヒロインの一人称表現も数巻で採用され傑作が多い)するというワンパターンのストーリーであるためである。

 そのため米国では“political correctness”という立場からのある種の社会的弾圧により、1980年代末からノーマンの著作が絶版になったり新作が出なくなったりしており、出版社や図書館(米国では超大口の購買者)などに圧力がかかったらしい。
 米国という国は一見自由なようで、マッカーシーズムが一時吹き荒れたように、ある政治的な動きが主流になると、これに反対する立場の者は徹底的に社会的な弾圧を受ける傾向がある。これは政府による“公的な”弾圧・迫害ではないだけにいっそうやっかいで、弾圧された側は復権が難しい。

 しかしながら、ノーマンに関してはインターネットの普及はこのような弾圧を跳ね返して復権する原動力になったようで2010年代からは電子書籍での出版が中心となっている。(下記ブログ参照)

 

 

 確かに本というメディアはその出版・流通・閲覧の過程において様々な利害関係を有する団体が関わっているためにその調整が難しいが、各人がダイレクトにつながるインターネットはそのような枠を軽々と超えてしまう。

 個人的には1975年の邦訳第一巻を読んで完全に嵌ってしまい、米国でのペーパーバックス新刊出版をリアルタイムで追いかけ始めた。出版社がバランタイン・ブックスからDaw Booksに移る頃の話であり、その頃はまだ書店の店頭に本が並んでいた。当時SFのペーパーバックスに力を入れていたのは東京では新宿・紀伊国屋と高田馬場・ビブロスであり、最初の頃の本はほとんどその両書店から買っていた。


 それからしばらくして、SFブームがやってきてゴルのようなマイナーな?本は店頭に置くスペースがなくなってしまったので書店で注文するようになった。
 そして現在のインターネット時代に慣れた方には想像もつかないであろうが、当時は世界のすべての出版物がリストになった世界大百科事典のような数十巻の本というかカタログがあり、その中から選んで本を注文するシステムになっていた。

 しかしながら上記の米国での弾圧により新刊が出なくなったため、26巻の Witness of Gor (2001)までに10年余りのブランクがあり、その間に熱が冷めてしまった。
 まああまりにもストーリーがワンパターンであるという理由もあるのだが、そのワンパターンの美学(笑)を愉しむために一応はまだ新刊が出れば購入する程度のファンではあり、27巻以降は紙の本(どの巻もペーパーバックで1000ページ以上はある)ではなく電子書籍で買うことにして、しかも最近の数巻は積読状態(電子版だから積めないのだが)で読む気力がわいてこない。

 若い頃なら英語の超大作を読むのに特に不便がないどころかエロスの表現は英語の方がハードボイルド風の趣がある(下ブログ参照)

 

 

と感じていたのだが、さすがに1000ページ以上のワンパターン怪作(笑)はもういいやという感覚であり、邦訳出版の再開を期待しているのだがまあ無理だろうな。

 日本では創元社が第7巻まで版権を取得していたはずであるが、結局は反地球シリーズとして第6巻まで刊行されただけでその後絶版になっている。
 下画像は第4巻“Nomads of Gor”の、バランタインと創元のカバーアートであり、作者はBoris Vallejo と加藤直之で、日米のこの種イラストの第一人者といえるだろう。

 



 特に創元のカバーアートは日本の出版社としてはかなり“攻めた”ものであり、当時はかなり力を入れていたと思われるのに、その数年後に撤退というのはこれも何らかの圧力がかかったのか?
 私はかつてこの問題に関して創元社に質問状(表現の自由云々と大上段に構えたのではなく単なる一ファンとして)を送付したことがあるが、結果は当然ながらナシのつぶてであった。

 これは今考えて見ると、“圧力”というほどではなく、米国で大問題になっているみたいだから、とりあえずトラブルは避けようという“自主規制”に近いものではなかったかと思う。
 まあたいして売れなかったので、日本人のメンタリティーにはあわないという単なる“営業的”判断かもしれないが…

 かつてゴルシリーズはSF小説ではなくSM小説だとして米国で弾圧されたのであるが、日本は比較的SM関係の出版には寛容であるものの、日本人好みのSM(典型例は団鬼六)とはかなり趣向が異なっている。
 欧米のBDSMの主流は”支配と服従“(Dominance & submission)であって、日本的な羞恥心に訴えるSMとはかなり異なっている。これはグレコローマン時代からの長い奴隷制の歴史がある欧米と単一民族で四民平等が原則である日本の違いであろうが、結果的にゴルシリーズは日本ではあまり受け入れられなかった。

 これに対して海外では無数のファンサイトが立ち上がるなど熱狂的なファン(Gorean)が多く、コスプレどころではなく現実のライフスタイルで実践しているコミュニティーが世界中にあるなどカルト的人気を誇っていて、ノーマンはサドやラヴクラフトを超えた存在と認識されつつあるようだ。

 そして日本ではSとかMとかいうのは女子高生レベルでも一般的に使われる普通の用語になってしまったが、欧米ではslaveとmasterかと真逆に解釈されるかもしれないのでご用心。絶対に誤解を受けないのはD(Dom, Dominant)とs(sub, submissive)であり、ゴルのような社会や、カップル・文芸作品ならMDfs(Male Dominant & female submissive)と表現する。
 この表現はLGBTQにももちろん対応可能であり、例えばMDmsは日本のコミックの人気ジャンルとなっている。

 私がゴルのファンになったのは感受性が欧米的というか考え方が欧米人に近いためからかもしれず、これは仕事でも役に立ったこともあった(下記ブログ参照)。

 

 

 ただし人生をトータルで考えれば日本に住んで日本人との人間関係が最重要な日本人である以上、あんまり“得な”性質とは云えないかな。