現代国家は予算の多くを社会保障費や道路建設費などに廻しているが、ついこの間までは世界中どこでも国家予算の大半は防衛費・軍事費にあてるのが当り前であった。
命あっての物種であるから、健康で便利な暮しよりもまず他国から攻められて殺されないように防衛が最優先ということである。
日本は少なくとも歴史記述が始まって以後は強大な異民族が列島内に常住していなかったため、それほど大規模な防衛施設は必要ない場合が多かった。
しかし対外的に緊張した時代-例えば天智天皇の時代、白村江の戦(663年)で唐に大敗(上記ブログでその古戦場の訪問記を引用)した直後は、大宰府防衛のための日本版万里の長城である水城(みずき・画像下はその航空写真であり規模の大きさがわかる)や北部九州・山口の各地に残る神護石(こうごいし)を築き、唐・新羅からの侵攻に備えた。
画像下は福岡県行橋市に今も残る御所ケ谷神護石であるが、山全体を石垣で囲む壮大な要塞であり、もし関東・関西にあれば全国的に著名な大観光地になっているだろう。
当時の宮殿である飛鳥板葺宮が文字通りの板葺きの掘っ立て小屋みたいなものだったのと比較しても、まさに国富と傾けた大工事であったと思う。
ただし神籠石は山中にあるためか長い間忘れられた存在であり、その名前からも宗教施設であると誤解されていて、これが防衛施設・山城であることが確定したのは1960年代である。
これが異民族との絶え間ない抗争の連続である大陸の国家となるとその規模は壮大になり、国家構成員全員が篭城できるような城壁都市が各地に建設されることになる。
また戦国大名か誰かが云った諺?として“篭城戦に勝ったためし無し”というのがある。しかしこれは日本・海外を問わず全くの逆であって、通常の戦争というものは篭城側が勝つのが当り前であり、城にこもられると攻め手はお手上げなので周囲を略奪してお茶を濁すというのが常態であった。何となく攻城戦というのは攻め手の側が勝つことが多いような印象があるが、それは落城というのが非常に珍しい歴史に影響を与える大事件であるので、インパクトが強いというだけなのである。
したがって国という漢字が城壁の中に玉がいることを示すように城壁に囲まれた地域を中心に国家というものは成立していたのである。
そのため多民族を征服した大帝国というのは攻城戦に長けた国である。歴史に残る大帝国といえば、まずはアッシリア、次にアケメネス朝ペルシアを経てアレクサンダーとその後継者の諸国、真打としてローマというところだろうが、これらはすべて攻城・工兵技術の伝統が伝わってきた国・時代であるといえる。
また攻城技術に長けているということは築城技術も優れているということであり、これらの大帝国は各地に堅固な城を築き防衛にあたったので、基本的に篭城側優位という状況は変わっていない。
しかしローマ帝国が衰え中世の暗黒時代が始まると、それらの技術は失われ時代は再び群雄が各自の小規模な城に割拠する封建時代になっていった。
なおヨーロッパではグレコローマンの栄光から1000年近く暗黒時代が続いたことからもわかるように、時代は常に進歩しているというのは我々の世代に多い短期間の自分の経験からしか考えられない錯覚・楽観論に過ぎない。もっとも最近の若い人はむしろ退歩の時代を肌で感じているかもしれないというのはちょっと残念な時代になったものであるが。
また中国の万里の長城(画像上は北京近郊の八達嶺の部分)といえば、無用の長物の代名詞のように現在では考えられているが、これは全くの逆であって世界の大半を征服したモンゴル軍団くらいでないと踏み破れないほど防御効果があったというべきである。
そうでなければ春秋戦国時代からつい最近に至るまで延々と建設され続けた(秦の始皇帝が建設したというイメージが強いが現存するのは明代のものが多い)わけがなく、明が清に滅ぼされた時も天下分け目のサルフの戦い(1619)で明に完勝した清軍も山海関(満州の関東軍というのは箱根の関より東という意味の関東とは関係なく、この山海関より東という意味)から延びる長城を越えることは不可能であり、それが可能になったのは守将呉三桂の裏切り(背後から李自成の反乱軍が迫っておりやむを得ない面もあった)によるものであった。
古代の遺跡・歴史的建造物観光といえば、宗教施設と防衛施設が双璧であるが、防衛施設はまさにその機能美というか“用の美”のようなものを感じる。
数世紀にわたり敵の攻撃を跳ね返してきた城壁はその代表であり、日本では加藤清正が築いた熊本城は近代戦の時代になっても西南戦争で薩軍の攻撃をしのいだ。天守などが西南戦争で焼失しなかったら、姫路城なんか問題ならないくらい日本一の城として認知されていたのではないだろうか。
個人的にはネブカドネザル(在位紀元前605-562)が築いたバビロンの城壁(画像上は想像図で中央を流れるのはユーフラテス川)に一番興味があるが、とうの昔に地中に埋まってしまい、その一部は残念な復元のやり方で・・・
このような技術的な進歩や衰退はあったものの、古代からほぼ一貫して続いてきた篭城側・防御側優位の時代に幕が降りたのは新しい技術である大砲の出現の要素が大きい。史上最大の攻城戦といえば、日本では豊臣家が滅んだ大阪冬の陣・夏の陣(1614-1615年)、海外では2000年以上続いたローマ帝国が最終的に滅んだコンスタンチノープル攻略戦(1453年:画像下)であろうが、いずれも当時の新技術である大砲が大きな役割を果たしている。
そして大砲の進歩により城壁というものは存在価値が低下していく。現代では利便性の観点からほとんどの城壁が破壊されてしまい、完全な形で残っていて観光客を集めているのは西安(唐代の花の都長安だが現代に残る城壁は一回り小さい明代のもの)、エルサレム(大半はオスマン・トルコ時代のもの)、ニュールンベルク(大戦時の空爆で壊滅的な打撃を受けたがここまで完璧に復元させればある意味オリジナル以上の見ものかも)など限られた都市であるのは遺跡オタクの私としては残念である。
そして現在では航空機・ミサイルや核兵器の出現により攻撃側優位はますます顕著になりつつある。今や”防衛”という概念そのものが敵の攻撃を直接防ぐというよりも、敵に攻撃されたときに報復攻撃の準備をしておくことに重点が移っている。
しかしそういう時代だからこそ”防衛のための攻撃”ではなく、”防衛のための防衛”技術というのは世界平和のために意義があるのではないだろうか。
私は以前に大砲のような物理的な力に対する防御と核兵器のような放射線(その中でも特に有害なのは中性子線)に対する防御の両方を可能にする防護材料というのを研究していたことがある。
これは物理的な衝撃というのは防護材中を伝わる衝撃波の速度と拡がりで決定され、それは単位重量あたりの弾性率の函数であるというballistic materialの考え方と、防護材そのものの原子核変換による中性子吸収をハイブリッドさせた設計思想(特許や論文で公開しているので機密事項でも何でもない)であった。
特に当時将来核兵器の主流となると予想されていた中性子爆弾に対する防御としては最適と考えられ、その旨下記ブログようにペンタゴンでプレゼンをしたこともある(防衛庁にはそのような危機感は全く無かったため、結局は物理的衝撃に対する防御のみが議論の対象に)。
中性子爆弾はその後核兵器の主流からは外れることになり、結局は私の研究も中性子吸収材料に関しては下記ブログのように中性子の有効利用(特に医療・バイオ分析の分野)に重点を移すことになった。
私が防衛分野に関わったのはそのときだけであるが、日米の防衛に関する意識の差には考えさせられたものである。
また世界で最も防衛に関して敏感なのはイスラエルであり、下記ブログのようにウジ―マシンガンやメルカバ戦車で有名なIMI社に売り込みをかけた際の先方の“我々の基本設計原理はまず生き延びることです”というコメントは非常に強く印象に残っている。
現代は実に平和な時代であり、少し前まで人類にとって最重要であった”敵の攻撃に対してどう防衛して生き残るか“という課題に対して、通常はあまり考える機会もない。
しかしこれはまさに例外中の例外の異常な時代であり、明日にもその状況は変わるかもしれない。そう考えれば我々日本人の平和ボケは、周囲にどのような国が存在するかを考慮すれば大きな問題であろう。