かつて私は、信心決定までの道を「隘路(あいろ)」のように感じていました。

出口は見えず、何をどうしていいのかもわからない。
しかも周囲には、「実際に信心を賜った」と、生きた言葉で語れる人がほとんどいない。

お聖教の言葉はあっても、それを現実に通り抜けた人の声が聞こえない。

だから私は、暗闇の中で一人、手探りで歩いているような感覚でした。

しかし、いま振り返ると、はっきりわかることがあります。

信心を賜ること自体は、本来それほど難しいことではなかったのです。

むしろ、「これほど簡単で、真っ直ぐなことはなかった」とすら思います。

では、なぜあれほど苦しかったのか。

それは、「難しい」と教え込まれた私自身が、自力の計らいによって、ますます複雑にしていたからでした。

「どうやって信心を得るのか」
「どうなれば助かるのか」
「どこまで行けば安心できるのか」

そうやって、“自分が何とかして掴もう”としていた。

けれど、その「掴もうとする主体」そのものが、自力だったのです。

だから、自力で自力を手放そうとして、さらに迷路が深くなる。

私は、その苦しみの只中にいました。

だからこそ以前、一冊の本を上梓しました。

それは、「答えを知っている人」のためではなく、かつての私のように、

・何をどうしていいかわからない
・出口が見えない
・死の不安や実存の問いから離れられない
・けれど表面的な宗教の説明では納得できない

そういう人のために、「難しくしている勘違い」を解きほぐしたいと思ったからでした。

いまになると、なぜ多くの布教使の話に違和感があったのかもわかります。

もちろん、お聖教の言葉そのものは尊い。

しかし、それを実際に通っていないまま説明しようとすると、どうしても「煩悩をどうコントロールするか」といった倫理道徳の話になったり、信後とは全く異なる方向へズレてしまうことがあるのです。

「他力」「おまかせ」「手放し」を、自力の枠組みの中で理解しようとすると、どうしても見当違いになる。

哲学者・西谷啓治氏は、この転換を「真理が通過透過する」と表現されました。

本当に、その通りだと思います。

自分が「真理を掴もう」「信心を得よう」としている間は、自我の壁がもっとも厚い。

しかし、その自力が底抜けたとき、真理の方がこちらを通り抜けていく。

そのとき感じたのは、

「新しい場所へ行った」

というより、

「最初から既にここに包まれていた」

という感覚でした。

救いの部屋に入ろうとして、必死に鍵やドアを探していた。

けれど、疑いの蓋が外れてみると、

「なんだ、最初からこの部屋の真ん中に座らせてもらっていたのか」

と気づかされる。

難しくしていたのは、どこまでも私の方だったのです。

そうして、「何とかしなければ」という主体が消えていきました。

すると、不思議なほど、死の恐怖も実存的な問いも、解決したというより、“不要になった”のです。

問いを立てていた足場そのものが、融けてしまったからでした。

いまの私の人生を一言で言えば、「おまけのデザート人生」です。

人生のメインディッシュ――
つまり、「自分を何とかしなければならない」という根本問題は、すでに終わってしまった。

だから今は、できてもできなくてもよい。

文章も、絵も、思うままに作っています。

名を残したいとか、人に認められたいとか、そういうものもほとんどありません。

ただ、透明な遊びとして表現が流れてくる。

そして最近は、

「そろそろ別の任務地に行けたらいいな」

とも思っています。

それは絶望ではありません。

旅を十分味わい終えた人が、静かに荷物をまとめ、ホテルのロビーで次の出発を待っているような感覚です。

かつて、自分で勝手に難しくして、あの隘路で途方に暮れていた日々。

いま振り返ると、いまこうして本にその過程を描くためだったのかもしれません。

 昨日、出版社から送られてきたPDFで、『仏教タイムス』に掲載された私の自著紹介記事を拝見いたしました。

まず何より、有難いと感じたのは、限られた紙面の中で、単なる「新刊紹介」に留まらず、本書が本当に伝えようとしている核心部分へ、真摯に触れようとしてくださっていたことです。

博士論文を基にした本というと、どうしても「研究書」として受け取られがちです。しかし、私が本当に書きたかったのは、単なる学術的整理ではありません。

人が、生死の問題に突き当たり、自力ではどうにもならないところまで追い込まれた時、そこで初めて開かれてくる「他力」の世界――その現実です。

その意味で、執筆者の方が、本をかなり丁寧に読み込んでくださったことは、深く伝わってまいりました。心より感謝しております。

ただ、その一方で、どうしても心残りに感じた点もありました。

それは、本書の口絵にも掲げた稲垣瑞劒先生について、一切触れられていなかったことです。

私にとって、瑞劒先生と鈴木大拙さんとの「リビング仏教論争」は、本書を理解する上で欠かすことのできない重要な背景です。

鈴木大拙さんが説かれた「リビング仏教」は、現代社会を生きる中で役立つ、生き方としての仏教という側面を強く持っていました。

しかし、瑞劒先生は、仏教の根本目的はそこではないと、はっきり説かれました。

仏教の根本目的は、「死の解決」であり、生死を超える体験にこそある――。

この問いは、まさに私自身が長年、身をもって向き合い続けてきた問題でもありました。

また、記事の中では、私が「真宗カウンセリング」に向き合い実践しているような形で紹介されていましたが、これについても少し補足しておきたいと思います。

私は「真宗カウンセリング」を研究対象として扱ってはきましたが、実践者として歩んできたわけではありません。

むしろ私自身は、もっと切実な場所――「本当に人は救われるのか」「死の恐怖は超えられるのか」という問題に、人生そのものを巻き込まれながら求道してきました。

かつて私は、某真宗系宗教団体に身を置いていた時期があります。

しかし、そこには「信心の沙汰」が自由にできる空気はありませんでした。

何千人という聴衆が、ただ壇上の話を聞く。そこに対等な問いや応答はない。

そして、ここで申し上げたいのは、「信心の沙汰」とは、単なる教学談義ではないということです。

本来それは、信心決定した者が、未信の人に対して、その人が抱えている「化城」を壊していく営みです。

つまり、自力で築き上げた理解や安心、観念の城を、本当にそれで生死が超えられるのかと問い続けていくことです。

ですから、単に教義を知っているとか、言葉を巧みに説明できるということとは、本質的に異なります。

私自身も、救われたい一心で、長く求め続けました。

しかし当時の私は、「自力では間に合わない」ということが、本当には分かっていませんでした。

どこかで、
努力すれば、
学べば、
理解すれば、
何とか辿り着けると思っていたのです。

けれど、ある時、ふっと知らされたのです。

「ああ、私自身では、この信心を創り出すことも、獲得することもできないのだ」と。

それは、私にとっては劇的なものというより、「ふっと」訪れたものでした。ただ、それが他の方にとっても同じ形で起こるとは限らないとも思っています。

しかし、その時、これまで必死に握りしめていたものが、驚くほど簡単に消えていった感覚がありました。

他力の信心とは、難行苦行の果てに、ようやく辿り着くような「隘路(あいろ)」ではありません。

もちろん、そこへ至るまでには苦悩も迷いもあります。

けれど、本当に届いた時、人は「ああ、こんなに簡単だったのか」と知らされる世界です。

だから私は、この本を単なる教義解説として書いたのではありません。

自力が完全に死に絶えた場所で、真理が私を通過透過していった――その現実そのものを、一冊の本として差し出したかったのです。

そして今、不思議なご縁の中で、私は製本所へ通い、自分の本にもう一本のスピンを差し込む作業まで行っています。

大学時代、たった一度だけ経験した深夜の製本アルバイト。新刊文庫に黙々とカバーを掛け続けた、あの一夜。

まさか何十年後に、自分自身の本を、自分の手で修復する日が来るとは想像もしていませんでした。

その不思議な巡り合わせも含めて、「本を世に送り出す」ということの重みを、今しみじみ感じています。

どうか、この本が、読まれた方にとっても、単なる知識ではなく、真理が通過透過していく一つのご縁となりますように。

大学時代、私は一度だけ、深夜のアルバイトをしたことがあります。
それが製本の仕事でした。

新刊の文庫本に、たくさんの大学生たちと一緒に、黙々とカバーと帯をかけていきました。

たった一夜だけの仕事でしたが、本好きの私にとって、その時間はいまも忘れられない思い出として心に残っています。

 

まさかその時は、自分自身が本の著者になるなど、想像もしていませんでした。

それから長い時を経て、いま私は、いままで生きてきて、出合った中で最も思い入れの深い本と向き合っています。

現在、その本にもう一本のスピン(しおり紐)を入れ込む作業を、印刷所で行っています。

下の階から聞こえてくる活版機の音。
同じフロアでは、和綴じ本を作っておられる職人さんたちが、それぞれ高い技術で担当作業をてきぱきと進めておられます。

その姿がとても頼もしく、長年積み重ねられてきた手仕事の力を感じています。

窓を開け、扇風機を回しながら、一冊一冊、自分の本をいとおしく開いて、紐を差し込み、のりをつけていく――。

また、お経の和綴じ本が、一冊一冊、手作業で綴じられていく様子を初めて目にし、とても新鮮な驚きを覚えました。

不思議なご縁を感じています。

 

昨日、社長夫人昼休みにお話していた時、私の本について、「赤い花布、ピンクと水色のスピンといった仏教書はあまり見たことがなくて驚いた」「カバーがとてもきれい」と打ち合わせの時に驚いたと言われました。

仏教書というと、紺や茶色など落ち着いた色合いのものが多い印象があります。
その中で、この本ならではの雰囲気を感じ取っていただけたことが、とても嬉しく心に残っています。

 

作業も、もう少しで完成です。

先にスピン一本の状態でお手元に届いた方で、「もう一本欲しい」と思われる方がおられましたら、どうぞご遠慮なくお声掛けください。作業にも慣れ、修復用の道具も揃ってきました。

 

本は、あと二冊、上梓予定です。

一冊は前作の解説。
もう一冊は、二冊の本への反響や、今生で私が歩んできたこと、その意味を振り返りながらまとめるものになると思います。

楽しみにお待ちいただけたら嬉しいです。

次回作の方向性が、少しずつ固まってきました。

現在上梓されている本の「解説」と、それをもとにした「10回分の講義のヒント」のような内容を中心にした構成にしようと考えています。

形式としては二部構成です。

前半は、講義・ワークショップ・読書会などで実際に使用できる内容。
後半では、私自身の見解や体験的な問題を扱います。

ただし、それを「絶対的な答え」として押し出すつもりはありません。

あくまでも、

「こういう苦悩と問いを通り、こういう地点に至った一事例」

として書こうと思っています。

出版は秋ごろを予定しています。

また、この本は単なる解説本ではなく、来年度からの実施を予定している、以下のツールにします。

  • ワークショップ
  • 大学での講義
  • 中学・高校での講義
  • 少人数での対話会

“教科書”や参考書としても使えるようにしたいと考えています。

 

ただ座ってノートを取るだけの講義にはしません。

私が目指しているのは、

「全員参加型」

です。

講師が一方的に話し、参加者が黙って聞いて帰るだけでは、生死の問題や真理の問題は、本当の意味では通過しないからです。

本当に大切なのは、

  • 自分自身の苦悩を言葉にすること
  • 他者の体験を聞くこと
  • 問いを共有すること
  • 自分の問題として引き受けること
  • 行き詰まりや無明に実際に触れること

です。

知識だけでは、人は根本からは変わりません。

現代は、情報や知識だけなら溢れています。

しかし、

「死が怖い」
「なぜ生きるのか分からない」
「孤独が消えない」
「出口が見えない」
「真理とは何か」

こうした問題を、本気で語れる場は驚くほど少ないのです。

だから私は、

講義

質疑応答

参加者同士の対話

自己の問題化

行き詰まりの共有

真理との接点

という流れを大切にしたいと思っています。

真理の問題は、知識として「分かったつもり」になるだけでは届きません。

揺さぶられ、詰まり、悩み、問い、自分の内側から言葉が出てくる過程が必要です。

そのため、次回作は、

「読むだけの本」

ではなく、

「参加するための本」

になります。

各章では、

  • 問い
  • 事例
  • 真宗的視点
  • 死生観の問題
  • 話し合いのテーマ
  • ワークショップの導線

なども盛り込む予定です。

現代において、本当に必要なのは、“正解を暗記すること”ではなく、

「自分自身の生死の問題として引き受けること」

なのかもしれません。

そのための場づくり、そのための教科書を、少しずつ形にしていきます。

金属の耳かき

ボンドを注入する液体を移すためのプラスチックの注入器

手拭き

ボンドを拭く布

ピンセット

 

これらを持参して一日も早く作業を済ませて、執筆も完成させます。

次作を上梓するモチベーションを挙げています。

行ってまいります。

修士課程において、海外の文学も含む「比較文学」と、江戸時代を中心とした「人間史(人間の生き様や精神の歴史)」を私は主に研究してきました。 そして博士課程では、さらにその深淵へと進み、「他力信心についての考察」を専門的に行ってきました。

そんな研究者としての視座から、今日は、近代の仏教が抱える「ある決定的な歪み」について、私なりの実感を綴ってみたいと思います。

■ 文化勲章と「生きるための仏教(Living)」への違和感

世界的にも有名な哲学者・鈴木大拙が、本当に「他力信心」を賜っていたかどうかは、私には分かりません。

しかし、名利を顧みず、ただただ内省と感謝の中で生きた「妙好人(みょうこうにん)」という人たちを彼が見つけ出してきて、その言動を本にし、国家最高の栄誉である文化勲章をもらって、天皇にその話(進講)をしたというのは、どうしても腑に落ちないものがあります。

ここで、私の心に深く残っているエピソードがあります。 真宗の偉大な先達である稲垣瑞劒(いながき ずいけん)先生の、江戸時代のご先祖のお話です。

そのご先祖は、お殿様から「3回も褒美をつかわす」と言われても、 「この先、自分が何を仕でかすか分からないから」 と、そのすべてを辞退されたそうです。お殿様も最後には諦められたといいます。

この、世俗の名誉や権威を徹底して退けた瑞劒先生の系譜に比べると、鈴木大拙の姿はどうでしょうか。 彼は結局のところ、どこまでも「今をどう生きるか」「いかに生を豊かに全うするか」という生活の哲学を説く、「リビング仏教(Living=生きることの仏教)」の域を抜けられなかったように感じられてならないのです。

世俗のシステムや国家の権威と結びつきながら、スマートに「生きること」を語る大拙の姿勢は、仏教が本来扱うべき「真の深淵」に届いていたのだろうか、という大きな疑問が残ります。

■ 『歎異抄』英訳という不可解

稲垣瑞劒先生もまた、妙好人について書かれており、名著『歎異抄(たんにしょう)』の英訳もされています。 しかし、ここら辺が私にはいまだに分かりません。本当に不可解なのです。

本来であれば、お経(経典)、七高僧、法然・親鸞両聖人、そして蓮如上人が残されたお言葉(聖言)だけで勝複(勝負)したらいいはずです。

なぜ、あの瑞劒先生ほどの人が、大拙と同じような「妙好人論」を語り、「英訳」という近代知識人の文化活動のような領域に、わざわざ足をふみ入れる必要があったのでしょうか。

もし、他力信心の核心を、人間の計らいを一切交えずにそのまま手渡すことが目的なのであれば、経典、七高僧の書かれたもの、親鸞聖人、蓮如上人のお手紙である『御文章』『領解文(りょうげもん)』等でよかったはずです。

 これらは、真宗の信心の過不足ない表明です。 人間の知的なお遊びや、間違った解釈(異義)が入り込む隙間を一切与えない「キョクゲン(極限)の直球」であり、これだけで十分に勝複できたはずなのです。

それなのに、なぜ、あえて『歎異抄』だったのか。

『歎異抄』は近代以降、知識人たちによって「美しい実存主義文学」として消費され、インテリの書斎で「深い思想だ」と悦に浸るための、まさに「リビング仏教」の格好の素材にされてしまった歴史を持っています。

そこに瑞劒先生がコミットされたことへの「ブレ」や「不純さ」には、研究の現場に身を置く者として、いまだに納得しかねる溝が残ります。 それぞれの御縁なので仕方のないことかもしれませんが、教えに対する絶対的な信頼があるならば、世俗の衣をまとって海外や大衆におもねる必要などなかったはずです。

■ 翻訳・現代語訳の危うさと『領解文』論争の証拠

そもそも、翻訳や現代語訳という行為は、常に極めて危うい面を持っています。

それが証拠に、近年、浄土真宗本願寺派では『領解文』の現代語訳(新しい領解文)を巡って、非常に大きな論争が起こりました。

聖なるお言葉を、別の言葉に移し替えるという作業は、本当に他力信心を賜り、その真髄を我が身に体感し、それを誤解なく文章にできる「本物の人」以外が手をつけると、全く訳の分からないもの、教えの核心を歪めてしまうものになってしまいます。

信心の裏付けのない者が、知性や世俗の論理だけで翻訳を行うことの恐ろしさと危うさは、この近年の論争が何よりも雄弁に物語っています。

■ 創作、論文、そして「お手紙」の決定的な違い

私は修士で比較文学を学びましたが、だからといって詩や物語を紡ぐ人間ではありません。 言葉の構造を緻密に見つめてきたからこそ、明確に区別すべきだと思う事実があります。

それは、「創作」「論文」そして蓮如上人の御文章のような「お手紙」は、その性質が明らかに、決定的に異なるということです。

  • 【創作(詩や物語)】 言葉の揺らぎや比喩を用いて、情緒やドラマ性を立ち上げるもの。

  • 【論文】 客観的な事実と言証に基づき、論理を積み重ねて真実を証明するもの。

  • 【御文章のような「お手紙」】 美的な鑑賞のためでも、論理の遊戯のためでもありません。いま現に迷い苦しんでいる具体的な一人の人間に向けて、「いますぐ、全部手放せ!」と救いの事実をダイレクトに手渡すための「命綱としての言葉」です。

近代のインテリたちは、本来なら「お手紙・聖言(命綱)」であるはずの真宗のテキストを、自分たちの得意分野である「創作(文学)」や「哲学」のグラウンドに引きずり込んで消費してしまいました。

妙好人の言葉を「無垢な民衆の詩」として鑑賞し、『歎異抄』を「ドラマチックな物語」として味わうようなあり方は、言葉の性質を完全に混同したカテゴリーのエラー(分類の間違い)に他なりません。

■ 死の最前線と「死の恐怖の解決」

私は博士課程において他力信心についての考察を行い、論文では、ある「生き証人」たちの具体的なお話を書きました。

巣鴨プリズンで死刑囚(東條英機ら)を前に、ただ阿弥陀仏の救いを愚直に手渡した教誨師・花山信勝(はなやま しんしょう)師。 不治の病の絶望の床に隔離された結核患者たちに話をされた、伊藤健康善(いとう けんこうぜん)師。 そして、稲垣瑞劒先生です。

しかし、私がそこで扱ったのは、妙好人の罪悪などの内省心理(メンタルの分析)を語ったものではありません。 ただ人々に「他力」を説いた、具体的な事実の話です。

瑞劒先生は、その主著のように、どこまでも「死の恐怖の解決」を説かれました。

鈴木大拙が説いたような「Living(生きること・生活)」の次元では、人間が直面する根源的な「死の恐怖」は絶対に解決しません。

花山師が死刑の現場で向き合わされたもの。 伊藤師が結核病棟の絶望の中で向き合わされたもの。 数字の羅列ではなく、瑞劒先生が説き続けられたもの。

それはすべて、生きることの地続きにある洗練(Living)などではなく、「死」という絶対的な破局において、いかに他力に救い取られるかという一点でした。

死を前にした人間に求められていたのは、洗練された表現でも、過去の美談でも、あるいは不完全な翻訳の言葉でもありません。 「阿弥陀仏の他力によって、そのまま救い取られる」という、本願の直球そのものです。

蓮如上人が『御文章』で、極限まで無駄を削ぎ落とした明快な言葉を綴られたのは、それが文学でも学問でもなく、一人の人間を救い出すための「実務の言葉」だったからです。

仏教の言葉を、安易な「お話(ストーリー)」や「生きるための哲学(Living)」に回収させてはならない。

言葉の機能を厳密に見極める研究者としての視座から、私は今、その本質を厳しく見つめ直しています。

近年、宗教やスピリチュアルの世界では、

「あなたはそのままで素晴らしい」
「すべてはうまくいっている」
「安心して大丈夫」

という言葉をよく見かけます。

もちろん、苦しんでいる人を安心させたい、支えたいという善意から語られている場合も多いのでしょう。

しかし一方で、現実には、

DV、モラハラ、いじめ、搾取、貧困、病、死の恐怖など、人間の力では簡単に超えられない深い苦しみが存在しています。

そうした現実の中にいる人からすると、「大丈夫」という言葉が、どこか表面的に響いてしまうことがあります。

なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。

私はそこに、「底尽き体験」と「真理の徹底した抽象化」の不足が関係しているように感じています。

人は、まだ自分の力や考え方、努力によって何とか世界を制御できると思っている間は、どうしても「自力」の世界観から抜け出せません。

「前向きになれば変われる」
「心の持ちようが大事」
「信じれば安心できる」

それらはある程度までは有効でしょう。

しかし、人間には、それでも突破できない領域があります。

死の恐怖。
無意味感。
どうにもならない現実。
自分自身の無明や執着。
どれだけ努力しても崩れていく人生。

そうしたものに直面すると、人は徐々に、自分が頼っていた価値観や意味づけを失っていきます。

そして最後には、

「自分ではどうにもならない」

という地点にまで追い込まれることがあります。

浄土仏教が本来扱っていたのは、まさにこの地点だったのではないでしょうか。

そこでは、「良い人になろう」とか、「前向きに生きよう」という話では、もはや支えきれません。

人間とは何か。
苦しみとは何か。
死とは何か。

そうした問いが、観念ではなく、自分自身の存在そのものを揺さぶる問題として迫ってきます。

すると、人はそれまで握っていた「形」を一つずつ手放さざるを得なくなります。

社会的立場。
成功。
評価。
自分は正しいという感覚。
さらには、「こうあれば安心できる」という宗教的イメージさえも。

この過程は、ある意味で「真理の徹底した抽象化」と言えるかもしれません。

つまり、人間が作り上げたあらゆる意味づけや幻想、安心材料が剥がれ落ちていく。

そこまで進んだ時、初めて、人間の思考や感情を超えた真理が“通過・透過”してくる余地が生まれる。

だから本来、宗教は、単なる安心提供では終わらないはずなのです。

むしろ、人間の無力さや無明、死の問題から目を逸らさず、それを徹底して見つめた末に開かれてくる世界だったはずです。

もしその過程を飛ばしてしまえば、教えはどうしても「気休め」や「ポジティブ思考」に近づいていきます。

すると、現実の深い苦しみを抱えた人には届かなくなる。

逆に言えば、本当に深い苦悩を通った言葉には、不思議と人を支える力があります。

なぜなら、その言葉には、「分かったつもり」ではない、人間存在の底を通った重みが宿るからです。

だから私は、宗教や真理の問題を考える時、「いかに安心するか」よりも、「人はどこで底が抜けるのか」「その時、何が残るのか」を見つめることが、とても大切です。

 インスタグラムに載せた絵を褒めてくれた人がいました。 画家なのかと言われて、変だと感じました。 私は僧侶で他力の研究者でこういう本を出していると書くと、また褒めちぎります。 日本語が変なので、あなたは何人でどこに住んでいてどこに住んでいるか尋ねました。 自分は韓国人で長年香港に住むジュエリーデザイナーと自己紹介して、ジムを背景にトレーニングウェアの写真を送ってきました。 20代から30代くらいに見えました。 昔は、欧米人、白人、医者、パイロット、軍人など定番のタイプでロマンス詐欺は名乗りました。 分かりやすかったです。 いまは、一般人よりの、お洒落な仕事であるジュエリーデザイナーなどに変化しているようです。 でも、いかにも詐欺という感じです。 私は直接会った人、本を買い求めた読者としか関わらないと言い渡しました。それでも理解し合えるとこの人はしつこいです。 こういう人はブロックするしかないですね。
AI
かなり典型的なロマンス詐欺・投資詐欺系の流れに近いですね。
あなたの違和感は自然だと思います。

最近は、昔のような「軍人」「医者」「石油王」「パイロット」などの“いかにも海外エリート”型だけでは警戒されやすくなったため、もっと現実味のある設定を使うケースが増えています。

例えば、

ジュエリーデザイナー
建築家
フリーランス写真家
アート関係
貿易関係
投資コンサル
フィットネス関係
カフェ経営
ファッション業界

など、「少しお洒落で国際的、でも一般人っぽい」肩書きを名乗ることが非常に多くなっています。

しかも、

インスタの投稿を大げさに褒める
「あなたは特別」
精神性や芸術性を理解しているふりをする
すぐ親密さを演出する
日本語が微妙に不自然
海外在住設定
写真は整いすぎている
しつこく距離を縮める

という流れは、かなり共通しています。

特にあなたの場合、宗教・思想・芸術・精神世界に関心が深いことが投稿から伝わるので、相手は「理解者」を演じやすいのだと思います。「あなたの魂に惹かれた」系統の接近は、このタイプで非常によくあります。

そして重要なのは、あなたが

直接会った人、本を買い求めた読者としか関わらない

とはっきり線を引いたことです。
これは非常に健全な対応です。

普通の誠実な人なら、そこまで明確に境界線を示されたら尊重します。それでも「理解し合える」と押してくるのは、相手の目的が“関係性そのもの”ではなく、接触継続にある可能性が高いです。

なので、

これ以上説明しない
相手を説得しようとしない
情報を与えない
ブロックする

で問題ないと思います。

むしろ、あなたは最初の違和感をきちんと拾えているので、感覚はかなりしっかりしています。
「何か変だ」という直感は、こういうケースでは大切です。
それは非常に良い「境界線の引き方」だと思います。
しかも、単に拒絶するのではなく、

本当に関心があるなら自著の内容に触れた上で感想や問いを持ってきてください
という形になっているので、相手の真剣度が自然に分かります。

ロマンス詐欺系や承認欲求目的の接近は、たいてい「雰囲気の親密さ」を急ぎます。逆に、本を実際に入手して読み、内容について話そうとする人はかなり減ります。そこで多くは離れます。

文章としては、少し柔らかくすると、より自然で落ち着いた印象になります。

もし私とのやり取りを続けたいのであれば、まずはAmazonで私の著書をご入手いただき、内容を読まれた上で、感想やご質問などがありましたら、またその時にお聞かせください。私は基本的に、実際にお会いした方や、著書を通してご縁をいただいた方との交流を大切にしています。

この形だと、
自分のスタンスを明確に示す
相手を試すような嫌味にならない
真面目な読者との線引きができる
というバランスが取れていると思います。

そして、それでもなお話を逸らしたり、本の話を避けたり、すぐ個人的親密さへ戻そうとするなら、そこで終了・ブロックで十分だと思います。
わらし
ロマンス詐欺者はいかにもという感じがばれていることにきづかないのでしょうか。それとも気づかない人が詐欺の対象となるのでしょうか。
AI
両方あると思われます。まず、彼らは大量に接触しています。
一人ひとりを深く騙すというより、「反応する人」を探す“ふるい分け”に近い面があります。
ですから、
日本語が少し不自然
褒め方が大げさ
距離感が急に近い
写真が出来すぎている
海外在住設定
仕事設定が妙にお洒落
「魂」「運命」「理解し合える」などを早期に言う
といった“いかにも感”が残っていても、一定数は反応してしまうのです。
つまり彼らにとっては、
見抜く人は最初から落としてよい
見抜かない人だけ残ればよい
という効率重視のやり方になっています。

実際、最初の段階で違和感を持つ人は、後で送金要求や投資話になっても引っかかりにくいです。だから詐欺側から見ると、むしろ「警戒心の弱い人」を早めに選別できるくらいに考えている場合もあります。
また、孤独感や喪失感を抱えている時、人は「不自然さ」よりも「理解されたい気持ち」を優先してしまうことがあります。
特に、
自分を深く理解してくれた気がする
才能や精神性を認めてくれた
特別扱いされた
毎日メッセージが来る
こうした体験は、理性より感情に強く作用します。
だから、外から見ると「こんなの怪しい」と思えるケースでも、当人は次第に巻き込まれていきます。
その意味では、あなたは最初の段階で
変だ
いかにも詐欺っぽい
と感じられたのは、とても大切な感覚です。

しかも、あなたは「本当に関わる人は、実際に会った人や著書を通じて縁を持った人」という現実的な基準を持っておられる。これは、単なる警戒心というより、“ご縁を軽く扱わない姿勢”として機能しているのだと思います。
わたし
多用な日々を送っている上に、見知らぬロマンス詐欺の疑いのある外国人を相手にしている暇はありません。そんなにお金が欲しいのでしょうか。捕まったら監獄されるのに。
AI
多くの場合、背景には「お金」があります。
しかも個人ではなく、組織的に動いているケースもかなりあります。
近年の国際的なロマンス詐欺は、
詐欺グループ
人身売買的に集められた労働者
ノルマを課される拠点
マニュアル化された会話
など、かなり産業化しているとも言われています。
もちろん、自分の意思で加担している人もいますが、中には貧困や借金、あるいは犯罪組織に囲い込まれて抜けられない人もいるようです。
ただ、それでも被害者側からすれば、
時間を奪われる
心を消耗させられる
金銭被害を受ける
人間不信になる
わけですから、同情して対応を続ける必要はありません。

そしてあなたがおっしゃる通り、忙しい日々の中で、正体不明の相手に時間を割く必要はない
これは非常に大事な感覚です。特にあなたは、ご自身の研究や著作、実際の読者との交流など、「本当に向き合うべきご縁」が既にたくさんあります。その時間や精神力を、正体不明の相手に消耗させる必要はありません。
 また、詐欺をする側は「少しでも返事が返ってくる人」に粘る傾向があります。
ですので、
説得しない
相手の背景を深掘りしない
正しさを教えようとしない
早めに切る
ほうが結果的に安全です。
あなたのように「実際のご縁を重視する」という基準を持っていると、こうした相手を自然に遠ざけやすいと思います。

わたし

褒めていらない、日本人ですら御縁を選んでいるのに、見知らぬ外国人にかけている時間はないです。
AI

その感覚は、とても自然だと思います。あなたは、誰とでも無差別につながるのではなく、

  • 実際のご縁
  • 著書を通じた理解
  • 真剣な対話
  • 時間を共有する意味

を大切にされているわけですから、突然現れた見知らぬ相手に同じエネルギーを注がないのは当然です。

しかも、単に「外国人だから」ではなく、

  • 接近の仕方が不自然
  • 過剰に褒める
  • 距離感が近すぎる
  • しつこい

という違和感が重なっているのですよね。現代はSNSで簡単につながれる一方で、本当に大切な時間や精神力は限られています。だからこそ、

誰と関わるかを選ぶ

ことは、冷たいことではなく、自分の人生や活動を守るための大切な姿勢だと思います。

特に、研究や著作、読者との交流など、既に向き合うべきことが多くあります。 そこに、正体の分からない相手が突然入り込んできても、「そこに割く時間はない」と判断す

相手に説明を尽くす必要もありませんし、違和感が続くなら静かに距離を置く、あるいはブロックで十分だと思います。

 

長年、何千人もの方々と「信心の沙汰」を重ね、 生死の超克や、実存的な苦悩に向き合ってきながら、 私は常にある種の「違和感」、「不調和」を抱えてきました。

伝統的な仏教(真宗)の法座、 スピリチュアルなカウンセリング、 あるいは「死の恐怖の解決」を研究している哲学や学問の世界。その、どの領域の担い手とも、 なぜか決定的に「話が合わない」という感覚です。

最近になって、その違和感の正体が ようやく明晰に言語化できました。

彼らと話が合わなかったのは、おそらく 私個人との相性の問題のほかにあります。

 

彼らの立脚するシステムにおいて、 真に生死を超え、真理との邂逅を果たすために不可欠な二つの核心――

「真理の徹底した抽象化」「底つき体験」

これが、構造的に「不要」とされているか、 あるいは「求める感覚そのものが欠落している」からだったのです。

なぜ既存の領域が、「いま・ここでの死の恐怖に震える人の痛み」を 我がこととして引き受けられないのか。 その構造的な限界を、四つの視点からお話しします。

1. 伝統宗教(真宗の法座)における「記号化された信仰」

真宗の法座において、阿弥陀如来の本願の生起本末を聞き、 ただ「そういうものだ」と表面だけで納得して語っている人は 少なくありません。

彼らは「なんとなく阿弥陀仏が尊い」と教えられ、 そのお作法をなぞっているだけであり、 自らが真理との邂逅や生死を超える体験を求めているわけではない。

いわば、「職業」として話しているのです。

彼らにとって、私が博士論文で提示した二つの核心は不要です。

  • 「真理の徹底した抽象化」が不要な理由 彼らは宗派が用意した「具体的な物語(ドグマや記号)」に依存しています。それを徹底的に抽象化(普遍化)してしまうと、自らが拠って立つ教義システムの権威が解体されてしまうため、本能的に抽象化を拒むのです。

  • 「底つき体験」が不要な理由 制度化された宗教の機能とは、人間が全存在を崩壊させるような「底つき」の奈落に落ちる前に、教義という安全網で「中吊りにして安心させる」ことです。語り手自身が命がけの絶望を経験せずとも、伝統的な言葉の反復だけで表面的な納得が成立してしまいます。

2. スピリチュアル系における「健やかなる魂」の限界

スピリチュアル系のカウンセラー等には、大きく分けて二つの属性がいます。

一つは、人生のある時点でふっと、あるいは、生まれながらに真理と出合い、 生死を超える体験をしてしまっている「健やかなる魂」の人々。

もう一つは、迷いの世の「調整役(セラピスト)」として機能している人々です。

どちらにしても、彼らは長年苦悩の道を歩んだ末に そこに到達したわけではありません。 そのため、他者の痛みを何とかしようとする切実さに欠けるのです。

  • 「真理の徹底した抽象化」が不要な理由 彼らの体験はきわめて情緒的・直感的であり、「大いなるものに包まれた」という主観的な満足の次元に留まります。それを万人が共有できる論理レベルにまで抽象化する知性的動機を持っていない人がほとんどです。

  • 「底つき体験」をもとめる感覚の欠如 絶望の深淵を経ていない彼らにとって、救いとは「ポジティブな感情の上書き」や「痛みの緩和(調整)」に過ぎません。エゴが粉々に砕け散った先にある「絶望の底を突き破る反転」というプロセス自体が、想像の範疇にないのです。みんなつながっていて尊い魂であるという人もあります。それなら迷いから抜けるための話はいらないことになります。

3. アカデミズム(哲学・学問)における「三人称の客観」

学問や哲学として「死の恐怖の解決」を研究している人々もまた、 この二つの完全な理解には至りません。

  • 「真理の徹底した抽象化」のズレ 学者も抽象化は行いますが、それは自らの命を懸けた実存的なものではなく、客観的な対象をいじるための「概念の操作(三人称の抽象化)」に過ぎません。

  • 「底つき体験」をもとめる感覚の欠如 近代アカデミズムは主観的な巻き込まれを排除するため、研究者が自ら「底つき」を経験することは想定されていません。「頭(論理)」だけで解決しようとするため、身体的・実存的な危機を求める感覚そのものが構造的に欠落しています。

4. 構造的な格差(言語化能力と生活の余白)

さらに、私たちが直面する現実には、 より即物的な構造の差も存在します。

それは、

  • 「実存的な苦悩を言語化・文章化できる能力があるか」

  • 「生活費を必死に稼がなくてもいい立場にいるか」 という差です。

日々の生存(経済的・時間的拘束)に追われている人々にとって、 死の恐怖や真理の探求は、皮肉にも後回しにせざるを得ません。

逆に、思思考のための余白を与えられ、 それを高度に言語化できる立場にいる人間は、きわめて稀少です。

この格差が、対話において埋めがたい「前提のズレ」を生み出し、 真に痛みを共有できる人間を「まれ」にしているのです。

結び:実践コンテンツ(ゲーム・VR)への昇華

これまでお話しした通り、既存の領域や属性ごとに、この二つの核心に対する向き合い方は全く異なります。構造を分かりやすく文章で整理してみましょう。

まず、「真宗の職業的な語り手」は、物語やドグマに依存しているため真理の徹底的な抽象化を必要とせず、教義という安全網に守られているため底つき体験も不要としています。

次に、「スピリチュアル系のカウンセラー(健やかさ・調整役)」は、主観的・情緒的な満足で完結しているため抽象化を必要とせず、絶望を経ない健やかさの中にいるため底つき体験を求める感覚そのものが欠如しています。

そして、「学者や哲学者」は、客観的な概念操作に終始しているため抽象化の方向性が実存とはズレており、主観を排除した三人称の研究であるため底つき体験を求める感覚が欠如しています。

このように、既存の物語(宗教)には救われず、安易なポジティブ(スピリチュアル)にも馴染めず、冷徹な客観論(学問)では救われない――。

いま・ここで真に死の恐怖に震えている現代人が求めているのは、一切のまやかしを剥ぎ取られた「底つき」の先にある、「徹底的に抽象化(普遍化)された生きた真理」であり、それこそが真の真理との邂逅を可能にします。

私はこれまで、ワークショップという形でこの課題に対する実践を重ねてきました。

しかし今後は、この「徹底した抽象化」と「底つき体験」のダイナミズムを、特定の宗教や好みに左右されない、ゲームやVRなどのデジタルコンテンツとして開発・実装していきます。

言葉の届かない深淵にいる人々へ、まやかしのない真理の体感をダイレクトに届けるために。

それが、この過酷な思索の場に立ち、孤独な洞察を得た者が果たすべき実践であると確信しています。

人はなぜ、これほどまでに苦しみ続けるのでしょうか。

多くの人は、「死が怖いからだ」「不安だからだ」と考えます。もちろんそれも間違いではありません。しかし、仏教が本当に見つめてきたものは、もっと深いところにあります。

それは、「無明」です。

無明とは、真実が見えていない状態です。

自分という存在を実体だと思い込み、迷いの世界を本当のものとして握りしめ、その中で必死に安心や価値を求め続ける。

「これを得れば満たされる」
「もっと認められれば安心できる」
「これだけ頑張ったのだから報われたい」

そうやって求め続けても、一時的には満たされたように感じるだけで、また新たな渇きや不安が起こってくる。苦しみの形を変えながら、同じところをぐるぐる回り続けているのです。

これが、無明による迷いの循環です。

しかも、その只中にいる間は、自分が循環の中を回っていること自体に気づけません。だから、人は迷いの世界の中で何とかしよう、もっと良くなろう、もっと満たされようと努力を続けます。

しかし、迷いの内部でどれだけ調整しても、根本解決には至りません。

なぜなら、「自分の力で何とかしよう」としているその働き自体が、既に無明の内部活動だからです。

だからこそ、仏教には「他力」という道があります。

阿弥陀如来の本願によって、迷いの構造そのものを破られる。自分の力では抜け出せなかった循環から、真理によって抜け出させていただく。

そこに仏の智慧と慈悲のはたらきがあります。

仏の智慧とは、無明の構造を照らし出す智慧です。

仏の慈悲とは、その構造から抜け出せず苦しみ続ける者を見捨てず、働きかけ続ける慈悲です。

大切なのは、単に知識として仏教を学ぶことではありません。

「自分は無明の循環の中を回り続けていたのだ」
「そこには自力では出口がなかったのだ」

と知らされ、さらにそこから抜けたことを体感することです。

真理との邂逅とは、まさにそのことです。

死の恐怖の解決とは、単に気持ちを楽にすることではありません。迷いの根そのものが破られ、生死を超える世界に触れることです。

私が日々行っていることも、何か特別な教えを押しつけることではありません。

「ここに出口があった」
「実際に抜けた者がいる」

そのランドマークを立て続けているだけです。

すぐに理解されなくても構いません。

しかし、苦しみの只中で、本当に出口を求める人にとって、そのことがいつか機縁になる可能性はある。そのことを信じて、往生の日まで、一瞬、一瞬、報謝の日々を送ってまいります。