化城とは、座り心地のよい安楽椅子

『法華経』の「化城喩品」には、目的地まで歩き続けることができなくなった旅人たちのために、導師が途中で幻の城を現し、そこで休ませるという譬えがあります。

しかし、その城は目的地ではありません。

疲れを癒やすための仮の城です。

十分に休んだ後には、「本当の目的地はこの先にある」と知らされ、再び歩き始めなければなりません。

 

私は、この化城を「安楽椅子」のようなものだと感じています。

座り心地がよく、安心できます。

「もうここで十分だ。」
「私はもうわかっている。」
「これ以上求める必要はない。」

そう思わせてしまうからです。

しかし、その安心は真実ではありません。

仮の安心です。

 

それにもかかわらず、一度その安楽椅子に深く腰を掛けてしまうと、自分から立ち上がろうとはしません。

むしろ、その椅子こそが真実だと思い込みます。

椅子を壊してくれる人は有り難い存在

そのようなとき、自分が座っている安楽椅子を壊してくれる人と出遇えたら、本当に有り難いことです。

それまで頼りにしてきたものが真実ではないことを知らせてくれる人だからです。

もちろん、そのときは痛みを伴います。

長年信じてきたことが揺らぎ、自分のよりどころが崩れるのですから、苦しいのは当然です。

しかし、その痛みがなければ、本当の目的地へ向かうことはできません。

化城を目的地だと思い込んだまま、一生を終えてしまうことにもなりかねないからです。

慢心は、聞く耳を閉ざしてしまう

ところが、化城の安楽椅子に座っている人ほど、自分では満足しています。

得意満面です。

慢心が絶好調です。

 

そのため、真実を語ってくれる人が目の前に現れても、

「私はもう知っています。」
「その話は聞いたことがあります。」
「私の先生の教えのほうが正しい。」

 

このように、自分を守ろうとします。

これは、その人が特別に悪いからではありません。

迷いのいのちは、自分が拠り所としているものを失いたくないのです。

自力は、最後の最後まで自分を守ろうとします。

だから、自分では安楽椅子から立ち上がることができません。

椅子が壊れる出来事もある

人生には、自分の力ではどうにもならない出来事があります。

大病、愛する人との別れ、大きな挫折、人間関係の崩壊など、それまで頼りにしていたものが一気に崩れてしまうことがあります。

それは、自分が座っていた安楽椅子そのものが壊れる出来事です。

 

そのとき初めて、

「いままで信じてきたものでは、生死の問題は解決できなかった。」

と知らされることがあります。

底つき体験を通して、それまで見えなかった真実に出遇う方もあります。

しかし、同じ出来事を経験しても、再び別の安楽椅子を探し始める方もあります。

 

宗教を変え、師を変え、修行を変え、体験を追い求め、知識を集めながら、また別の化城に落ち着いてしまうこともあります。

化城は一つではありません。

迷いの世界には、いくらでも新しい安楽椅子が用意されています。

すべては縁なのでしょうか

では、このようなことも、すべて縁なのでしょうか。

私は、そのように受け止めています。

どれほど真実のお話を聞いても、届かない方があります。

反対に、一言のお話がその人の人生を根底から変えることもあります。

人間の努力や能力だけでは説明できない世界があります。

 

だから、縁という言葉があるのでしょう。

しかし、その縁もまた、自分の力で作り出せるものではありません。

阿弥陀仏の本願のはたらきの中で、聞法の縁が熟し、疑いが破られ、真実に出遇わせていただく世界です。

 

人を無理に変えることはできません。

できることは、真実をお伝えすることだけです。

その先は、本願にお任せするしかありません。

「今ここ」で立ち上がる

臨終になってから、新たに聞法することはできません。

だから、「いまここ」が大切なのです。

「もう少ししてから。」
「時間ができたら。」
「今は忙しいから。」

その間にも、無常は休むことなく近づいてきます。

 

いまここで、真理と既に出合っていますか。

それとも、途中で休むための化城なのでしょうか。

そのことを問い直すことができるのは、「いまここ」しかありません。

私が日々お話ししているのは、「いまここで他力に救われたい」と願われる方です。

その方に、安楽椅子から立ち上がり、本当の目的地へ向かうご縁となることを願いながら、お話を続けています。

いまここ、この私が他力信心を賜る
そのような切実な目的の方にしか、私はお話ししておりません。

「もう少ししてから」

「時間ができたら」

「ゆっくり考えたい」

という方とは、ご縁がありません。

また、法論や「どちらの教えが正しいか」という議論を望まれる方も、私がお役に立てる相手ではありません。

そのような方は、ご自身に合ったところをお訪ねください。

私がお話ししているのは、いまここで、真理との邂逅を果たし、生死の問題を解決したいと願う方だけです。
このような思いで、日々お話をしております。

他力真実信心は、いつか先にある話ではありません。

いまここ、この私の問題です。

その一点に焦点が既に定まっている方とのご縁を大切にしております。

限られたいのちの時間を、どこに使うのか

私は、自分の可処分時間を見据えて生きています。

人生は永遠ではありません。

いつ往生するかわからないいのちです。

だから自分に残された時間を誰に、何のために使うのかを常に選択しています。

 

その結果として、私は一度離れていった人を追いません。

追いかけて説得するきがないのです。

何度も連絡することもありません。

「戻ってきてください」とお願いすることもありません。

その人とは、そのようなご縁だったと受け止めています。

 

その方には私ではない誰かとのご縁を深めていただければ、それでよいと思っています。

おそらく、二度とお会いすることもないでしょう。

それもまた、ご縁です。


心から頭が下がるということ

人は簡単には変わりません。

長年生きてきて、そのことを何度も知らされました。

一度離れていく人には、その人なりの思考や行動の癖があります。

 

もちろん、人は変わる可能性を持っています。

しかし、その変化は、自分の意思だけで起こせるほど簡単なものではありません。

心から頭が下がるということには、よほどの覚悟が必要です。

人間は、自分が正しいと思ってきたものを守ろうとします。

自分の経験。

自分の知識。

自分の努力。

自分の信念。

それらを拠り所として生きてきた人ほど、それを手放すことは容易ではありません。

 

慢心は根深く、自力への執着は非常に強いものです。

だから、知識を得ることと、心の底から頭が下がることは全く別の世界です。

 

本当に人が変わる契機になるのは、

自分のいのちが脅かされるような出来事。

大切な人との死別。

重い病気。

自分の力ではどうにもならない現実との直面。

そのような、それまでの価値観では生きられなくなるほどの出来事であることが人生において何度か訪れます。

 

しかし、そのような経験をしても、なお変わらない人もいます。

だから私は、人が変わることを期待して待ち続けることはしません。

変わるかどうかは、その人と真理とのご縁だからです。


組織を持たないから貫けること

私がこのような姿勢を貫ける理由の一つは、会や組織を持っていないからです。

また、お話をすることで生活を支えていただいているわけでもありません。

会員を増やさなければならない事情もありません。

活動を維持するために、人を引き留める必要もありません。

 

だから

去る人を追わない。

この選択ができます。

 

もちろん、組織だから必ず人を引き留めるとは限りません。

個人でも、離れた人を何度も追いかける人もいます。

それぞれ事情は異なります。

しかし私自身は、組織も作らないし、自身の人間関係を維持することも目的としていません。

報恩として、ご縁のある方にお伝えすることだけです。

このために、自分の限られたいのちの時間を使います。


ご縁は人間が作るものではない

ご縁は人間が作るものではありません。

真理のはたらきによって結ばれるものです。

だから私が誰かを助けることもできません。

誰かを信心に導くこともできません。

 

私にできることは、お取次ぎだけです。

聞くかどうか。

受け止めるかどうか。

その人の心に何が起こるのか。

それは私の力ではありません。

真理からのはたらきの世界です。

だから私は、去る人を追いません。

追ったからといって、再び、佳きご縁が生まれるとは感じないからです。


報恩とは、今ご縁のある人に向き合うこと

私にとって報恩とは、組織を大きくすることではありません。

人数を増やすことでもありません。

人を囲い込むことでもありません。

真剣に

「死の恐怖を解決したい」

「今ここで真理と出遇いたい」

と願っておられる方に、私がお伝えできることを精一杯お取次ぎすることです。

それ以上でも、それ以下でもありません。

人が変わる時期も、ご縁が熟す時期も、私が決められることではありません。

真理からのはたらきにお任せするしかありません。

だから私は、いまここでご縁をいただいている方との出遇いを大切にします。


残念で悲しいけれど、仕方ない、それもご縁

一度離れていかれた方を恨んでいるわけではありません。

責めているわけでもありません。

本当は、ご一緒に歩めたらよかったという思いはあります。

だから残念です。

悲しい気持ちにもなります。

 

しかし、その人にはその人の歩む道があります。

私には私の歩む道があります。

ご縁を無理につなぎ止めようというきは毛頭ありません。

 

ご縁は、人間の都合で作るものではないからです。

真理によって結ばれたご縁を大切にし、そのご縁の中で精一杯報恩のお取次ぎをさせていただく。

それが、いま、私にできることとただ、受け止めています。

他力真実信心を賜っても、煩悩はなくならない

他力真実信心を賜っても、煩悩はなくなりません。親鸞聖人が『教行信証』やほかの著述で示されたように、私たちは息絶えるその瞬間まで「煩悩具足の凡夫」です。

怒りも、悲しみも、腹立たしさも消え失せるわけではなく、人間関係の苦しみから完全に解き放たれるわけでもありません。

しかし大切なのは、

「煩悩が起こること」と

「煩悩に人生の主導権を握られ続けること」は違う

ということです。

 

他力真実信心を賜るということは、単に「念仏を称えるようになった」ということにとどまりません。自分の人生を見る「眼」、視点、立ち位置そのものが、根本から転換することです。

 

これまでは

「なぜ自分だけが苦しまなければならなかったのか」

「なぜあの人は私を苦しめたのか」

という被害の視点でしか見ることができなかった人生が、

「この出来事も、この人との出遇いも、すべて阿弥陀仏の本願へ導くご縁であった」

と知らされる世界へ転換していくのです。

王舎城の悲劇――苦しみの底で本願に遇う

この視点の転換を最も深く教えているのが、『仏説観無量寿経』に説かれる「王舎城の悲劇」であり、『涅槃経』に説かれる阿闍世王の救済です。

 

実の息子である阿闍世によって夫を奪われ、自らも幽閉された韋提希夫人。彼女にとってそれは、耐えがたい悲劇でした。

しかし韋提希夫人は、悲劇が起こらなかった平穏な世界で救われたのではありません。

筆舌に尽くしがたい絶望と苦しみの真っただ中、底付きの状態で、阿弥陀仏の本願に出遇ったのです。

苦しみが救いを妨げたのではなく、その苦しみそのものが本願に遇うためのご縁となりました

もちろん、これは苦しみを美化したり、加害者の悪を正当化したりすることではありません。悲劇は悲劇であり、悪は悪です。

しかし、阿弥陀の智慧と慈悲は、その痛ましい悪や苦しみさえも超えて、私を救いへと導く手立て(方便)へと転じていかれます。

罪すらも救いの縁となる――「権化の仁」という知らされ

父殺しの五逆罪を犯し、自らの罪の重さに苦しんで病に倒れた阿闍世王も同じです。

どれほど深い迷いの中にいる者であっても、阿弥陀仏の本願の届かない場所はありません。阿闍世王は、取り返しのつかない罪を通して自らの愚かさを知らされ、仏の大悲に出合いました。

 

親鸞聖人の教えを学ぶ中で、私は「権化の仁」という味わいを非常に大切に感じています。「権化」とは、仏や菩薩が私たちを導くために、あえて仮の姿となって現れることです。

 

自分に都合のよい出来事だけに感謝するのではなく、未熟で自分を傷つけた親、兄弟、配偶者、あるいは自分を苦しめた人さえもが、私を本願へ導くために現れてくださった仏の手立て(権化の仁)であったと知らされていく世界です。

 

ときには未熟な人間である親がいたから私は人間に生まれることができました。他力真実信心を賜ることが今生、いまここでできる話を聞いてからは、深い恩を感じています。さらに他力信心を賜ってからは、親が完ぺきかどうかはもはやどうでもよく、親が生み育ててくれた私の人生すべてが、私を阿弥陀仏の本願へ導くご縁であったと知らされたからです。

「すべてが方便であった」の意味――後から意味が反転する

お取次ぎをさせていただいた方々が、信心を賜った後に口を揃えて語られる言葉があります。

「あの人も、この出来事も、すべてが方便であり、本願を賜る原因となっていました」

ここでいう「方便」とは、単なるポジティブ思考や「良い経験だったと思おう」という自己欺瞞ではありません。また、過去の傷やトラウマを安易に肯定することでもありません。

方便とは、阿弥陀の大悲に抱かれたことによって、「過去から現在に至る人生全体の意味が、後からひっくり返った」という驚きの表現です。

「あの人がいたから苦しんだ」と思っていた過去が、

「その苦しみがあったからこそ、私は阿弥陀仏の本願に遇うことができた」という感謝へとまるでオセロゲームの丸いコマのよう反転していくのです。

「毒親」という言葉と、人を責める視点、立ち位置からの解放

現代では「毒親」という言葉によって自身の苦しみを整理し、身を守るために境界線を引くことが増えました。

自分を守る段階においては、そのような言葉を否定する必要はありません。

 

しかし、他力真実信心の立場から見れば、もう一歩先の問いが生じます。

 

成人し独立してからも、いつまでも「親のせいで私はこうなった」という被害者の立場だけに留まり続けるなら、どれほど嫌っていても、依然として人生の中心には親が居座り、人生を握られている状態です。

本願に遇った人でも、親を無理に好きになる必要も、許す必要もありません。

ただ、「その親も含めて、私を阿弥陀仏の本願に遇わせるご縁であった」と知らされる世界へ出されたのです。

 

「私は他力信心を賜りました」と口にしながら、親への恨みや他者への裁きの中に留まり続ける姿に私が違和感を覚えるのはこのためです。

 

信心とは、相手を悪者にして自分を正しい側に置くことではなく、自分自身がどれほど自己中心的で、煩悩にまみれた凡夫であるかを阿弥陀の光に照らされる体験だからです。

名利・財産・「私のもの」という握りしめ

人への執着だけでなく、他力真実信心の眼は、私たちが握りしめて離さない「所有の迷い」も照らし出します。

  • 遺産への執着: 遺産をめぐる争いの根本には「自分が苦労したのだから受け取る権利がある」「私のものだ」という執着があります。しかし、往生において財産を次の世へ持っていくことはできませんどれほど大切に抱え込んでも、いのちが終わるときにはすべて手放していくものです。

  • 家・仏壇・墓: 住み慣れた家や土地も、この世で一時的にお預かりしているご縁に過ぎません。形ある仏壇や墓という「入れ物」に固執し、本願を聞く心を失ってしまうなら本末転倒です。大切なのは形を守ることではなく、亡き人をご縁として私自身が仏法に遇うことです。

人への恨みも、物への執着も、根本には「これは私のものだ」「私が人生を所有している」という思いがあります。信心を賜るとは、その固く握りしめた手を、阿弥陀の智慧の中でひとつずつ緩めていく過程にほかなりません。

 

韋提希夫人も阿闍世王も、苦しみが消えてなくなってから救われたのではありません。絶望と罪悪のどん底、本願に遇いました。

他力真実信心とは、煩悩が消えることでも、世俗の人間関係や所有の問題がきれいさっぱり無くなることでもありません。

「煩悩や執着を抱えたこの私の人生そのものが、すでに阿弥陀仏の本願の中にあった」と知らされることです。

 

「すべてが方便であった」――この言葉は、現実の苦しみを軽く見る言葉ではありません。取り返しのつかない過去も、抱えきれない傷も、そのすべてを包み込んで救いへと転じる阿弥陀の大慈・大悲を、今生、いまここで深く噛みしめる言葉なのです。

親子、夫婦の関係のもつれ、身近な人との摩擦といった人間関係……。

 あるいは「人からもっと評価されたい」「損をしたくない」「お金や立場を守りたい」といった名誉や利益(名利)への囚われ。

日々の生活の中で、こうした問題に心が振り回され、ぐったりと疲れてしまうことはありませんか?

 

実は、私たちがどれほど真剣に悩んでいるこれらの問題も、すべては「迷いの世界」の中で起きている見せかけの像(虚構)に過ぎません。

そして、この苦しい迷いの世界を抜け出した先に、全く別の、深く満たされた「円満調和」という領域が存在します。

 

今回は、私が体験した他力信心という「廻心」の体験——心が根本から生まれ変わり、本当の真理に目覚める体験について、ヘーゲルの哲学的な視点も交えながら分かりやすくお話しします。

1. 家族の悩みも「名利」も、すべては迷いの世界のこと

親子や夫婦の確執、人間関係の葛藤、そして「認められたい」「損をしたくない」という名誉や利益(名利)への執着。

 

私たちは「これこそが現実だ」と信じ込み、毎日必死になって向き合っています。

しかし、自分の小さな知性や感情だけに頼っている限り、それは「迷いの世界の中で、迷いの一部を握りしめて思い悩んでいる状態」に過ぎません。

 

目に見え、手で触れることができる目の前の苦しみは、実は人間の限られた意識が生み出している見せかけの影のようなものなのです。

 

ここで、哲学の世界で知られるヘーゲルの「弁証法」という考え方を参考にしてみます。

人間の知性による探求を徹底的に突き詰めると、最終的に「自分の小さな頭で理解できることには限界がある」という壁に突き当たります。

存在の根源(世界そのもの、あるいは仏や神と呼ばれるもの)は、私たちの常識や言葉では捉えきれない「絶対的な無」であるという認識に至ります。

  • 「自分は何も知らなかった」

  • 「自分が正しいと握りしめていた観念やこだわりは、ちっぽけな限定に過ぎなかった」

そうやって自分の限界を知り、「自分がまだ知らない、まったく別の次元や領域が存在する」ときづくこと。これこそが、迷いの世界を抜け出す第一歩となります。

2. 「花が散って実を結ぶ」ように、古いこだわりを手放す

弁証法には、物事が深まり、新しく発展していくプロセスを表す有名な比喩があります。

「花は、自分自身であることを否定して、実になる」

つぼみが破れて咲いた美しい花も、一度その姿を散らせる(否定される)ことによって、初めて「実」を結ぶことができます。

もし花が「ずっと美しい姿のままでいたい」と過去に固執していれば、決して実がなることはありません。

 

私たちもこれと全く同じです。

「親(子)だからこうあるべきだ」 「夫(妻)が私を理解してくれない」 「もっと評価されたい、損をしたくない」

そうやってしがみついている古い世界観やエゴを一度手放す(否定する)ことで初めて、人間の小さな頭では想像もつかない「未知の真理の世界」へと引き上げられていくのです。

3. 悩みが消え去り、立ち現れる「円満調和」の領域

このようにして、自分自身のちっぽけな執着やエゴ(自己意識)が消え去ったとき、そこに立ち現れるのが、それまで想像も及ばなかった「真理」の世界です。

それは、限られた自我の視点から見れば、固執していた悩みや名利がすべて消え去った「無」の境地に見えます。

しかし同時に、「最初から、この満ち足りた世界こそがすべての真実だったのだ」と強く知らされます。

 

この満ち足りて不足のない静かな心境を表現する言葉として、私は「円満調和」と表現しています。

この領域に立つと、それまで「自分を苦しめていた現実」だと信じ切っていた家族の確執などの人間関係や名利の悩みは、実は迷いの意識が生み出していた幻に過ぎなかったことがハッキリと明かされます。

4. 卵の殻を破り、新しい目で世界を見る「廻心」

古い世界観や苦しい固定観念が崩れ去り、「円満調和」という異なる地平、新しい感覚に生まれ変わる体験——これこそが「廻心」です。

 

一度この目覚めを体験すると、目の前の家族も、人間関係も、日常の景色も、すべてが全く異なる輝きと深い安心感を持って見えてきます。

 

この大きな変容は、よく「ひよこが卵の殻を内部から破って、外の広い世界へ出ていくようなもの」と例えられます。

殻の中にいたときは「卵の中の暗闇」が世界のすべてだと思って必死に悩んでいましたが、殻を破ってみれば、そこには最初から広大で光に満ちた世界が広がっていたのです。

 

その瞬間に味わう感覚は、単なる例え話をはるかに超えた、言葉では言い表せないほどの圧倒的な解放感と、生まれ変わった喜びに満ちています。

人間関係や名利という「迷いの殻」を破り、真理の光源に包まれる「円満調和」の領域へ。

私たちが本当の自覚に目覚めたとき、この世界は最初から完璧な光と調和の真理で満ちていたと知らされるのです。

同じ時間を共有しても、受け取る内容は同じではない

以前、大峯顯さんの説法を一度だけ聞かせていただいたことがあります。

その日は、初対面の方との一度限りの信心の沙汰の最中でした。

お互いにもう一度ご縁をいただくことになり、

「今日はここまでにして、次回は今日のお話の中で大切だと思ったことを、お互いに出し合ってから続きを始めましょう。」

という約束をして、その日は終わりました。

同じ説法を聞いていたはずなのに

次にお会いした時、お相手は嬉しそうに、

「私はこのようなお話を聞きました。」

と話してくださいました。

続いて、私も自分が心に残った内容をお伝えしました。

その瞬間、お相手の表情が変わりました。

私がお話しした内容は、お相手が覚えていたこととは、まったく異なっていたからです。

同じ説法を聞き、同じ時間を過ごしていたにもかかわらず、心に残っていた内容が違っていました。

信前と信後では、受け止める内容が違う

私が心に残っていたのは、信後についてのお話ばかりでした。

一方、お相手が覚えておられたのは、信前についてのお話でした。

その時、人は自分が理解できるところ、自分の課題として受け止められるところを中心に聞いているのだと知らされました。

信後についてのお話は、信前の人には理解することが難しく、理解できない内容は記憶にも残りにくいのでしょう。

同じ言葉を聞いていても、受け取る世界が違えば、心に残る内容も違ってきます。

自著のお話会でも、同じことが起きています

この経験は、自著をお読みくださった方とのお話会でも繰り返し起こっています。

読者の方から感想を伺っていると、信後について書かれている箇所になると、理解が止まってしまうことがあります。

一方で、理解できたところについては、問題なく読めているようです。

そこで私は、お話会に参加される方へ、

「理解できたところと、理解できなかったところを区別するために、理解できなかった箇所には印を付けてきてください。」

とお願いしています。

そうしていただくことで、どこで理解が止まっているのかが明確になります。

その箇所を中心にお話を進めることで、限られた時間を有効に使うことができます。

理解できないことは、決して無駄ではありません

理解できなかった箇所があることは、決して悪いことではありません。

むしろ、その箇所こそが、これから向き合うべき大切な問いであり、新たな気づきへの入口になることがあります。

 

わかったところだけを確認するよりも、わからなかったところを明らかにすることの方が、お話会では大きな意味を持ちます。

同じ本を読み、同じ話を聞いても、心に残ることは一人ひとり異なります。

だからこそ、自分は何がわかり、何がまだわからないのかを確認しながら通読することが、確実に次の一歩につながります。

他力信心を賜ってほどなく、他力信心について、数か月、他力信心のお話しをした方がいました。

何度か直接お会いし、その方が抱えている悩みや求道の思いを聞きながら、他力信心とは何かについて真剣にお話しする時間を重ねました。

その後、その方は別の方からお話を聞くようになりました。
当時、何もわからないまま、信心の沙汰を始めたので、うまく伝わらなかったのかもしれません。

 

最近、たまたまその方のSNSの投稿記事や、他者へのコメントを見る機会がありました。

そこに書かれている内容を見て、私は残念で悲しく感じました。

しかし、それは私のところから離れ、ほかで聞くようになったことではなく、

他力信心を賜ったか化城にとどまっているかどうか点です。

他力信心は、神秘的な体験を得ることではない

他力信心とは、不思議な体験をしたことや、特別な感覚を得たことではありません。

人間には、人生の中で強烈な印象を残す出来事があります。

何か大きな感動を覚えたり、今までとは違う感覚を経験したりすることもあります。

 

しかし、その体験を自分のよりどころにして、

「自分は特別なものを得た」
「自分は特別な境地になった」

という受け止めになるなら、それはまだ自分自身を中心に置いていることになります。

 

他力とは、自分の力で到達する世界ではありません。

自分のはからいの限界を知らされ、疑情が晴れ、他力信心を賜るのです。

他力信心は、神秘的な体験によって成立するものではなく、阿弥陀仏の本願を疑っていた心が晴れ、疑っていた主体が消え、すべてを他力にまかせることです。

信心の沙汰で確かめるべきこと

信心の沙汰とは、体験談を語り合うことではありません。

「どんな不思議なことがあったのか」

「どんな感覚になったのか」

「どんな世界が見えたのか」

を確認することではありません。

 

問われるのは、

「阿弥陀仏の本願を疑う心である疑情が晴れたのか」

という一点です。

他力信心を賜ったというならば、そこが明らかでなければなりません。

体験そのものの存否が問題なのではありません。

 

でも、体験を中心にすると、いつの間にか自分の体験を握りしめることになります。

自分の感じたこと、自分の経験したことを根拠にするとき、そこにはまだ自分を中心に置く心が入り込みます。

報恩として伝える者に求められること

他力信心を賜った人には、報恩の道があります。

それは、自分が救われた慶びを語るだけではありません。

まだ苦悩の中にあり、生死の問題を抱えている人に、阿弥陀仏の本願を伝えることです。

 

しかし、その時に大切なのは、相手に慶んでもらうことや、仲間を増やすことではありません。

話をしているその人が他力信心を賜ったのか、その一点を大切にすることです。

 

相手から「信心を賜りました」と言われた時、その言葉だけで安心してはいけません。

何が疑われていたのか。

何が晴れたのか。

何にまかせたのか。

そこを丁寧に聞かせていただくことが、信心の沙汰です。

人を導くのではありません。

私自身もまた阿弥陀仏の本願に遇わせていただいた一人として、真実を確かめ続けるのです。

人をつなぎ止めることが報恩ではない

他力信心を伝える中で、すべての人が同じ道を歩むわけではありません。

聞いた人が、どのように受け取るのか。

どの人の話を聞くのか。

それは、その人自身の問題です。

 

伝える側が相手を自分のもとにつなぎ止めようとするなら、それは報恩ではなく、人間のはからいになります。

大切なのは、自分のところに人を集めることではありません。

その人が本当に阿弥陀仏の本願に遇うことです。

悲しみの中にある願い

今回感じた悲しみは、その方への執着や自分のところから離れたことへの寂しさでもありません。

せっかく他力信心を賜ることができる尊い法に遇うご縁があったにもかかわらず、

もし神秘的な体験や感覚が中心になっているのであれば、それが惜しいのです。

 

他力信心は、人間が作り出すものではありません。

阿弥陀仏の本願によって、疑情が晴れ、救いの事実を知らせていただくものです。

だから、信心を語る時には、疑いから離れ、真理が通過透過した体験です。

 

信心の沙汰とは、お互いの優劣を決める場ではありません。

疑情が晴れ、阿弥陀仏の本願に本当に賜ったのかを、何度も確かめる場です。

その一点を大切にすることが、他力信心を賜った者の報恩の歩みなのです。

信心を賜った後に始まる歩み

私の本をお読みくださった他力信心を賜った信後の方から、

「様々な気づきがありました。」

というお声をいただくことがあります。

その中で、特に心に残るのは、

「自分一人でも、有縁の方に他力信心をお伝えする報恩の歩みへ踏み出す背中を押されました。」

というお言葉です。

他力真実信心を賜ることは、人生の目的を果たしたということではありません。

むしろ、阿弥陀仏のご恩を知らされ、そのご恩にどのように報いていくのかという歩みのスタート地点です。

組織があるから伝えるのではなく、ご縁があるから伝える

仏法を聞くうえで、組織や集まり、仲間とのご縁は大切です。

一人では聞くことのできなかった教えに出遇わせていただくこともあります。

しかし、報恩の主体まで組織に預けることはできません。

「誰かが伝えてくれる」

「担当者がしてくれる」

「組織が広めてくれる」

というところにとどまると、自分自身が賜った報恩にならないことがあります。

阿弥陀仏の本願を賜った自分が、ご恩を知らされて、自らのご縁の中でお取次ぎをしていく。ここに信後の報恩があります。

一人で立つとは、自分の力を誇ることではない

「一人でもお取次ぎをする」

という言葉は、

「自分の力だけで人を救う」

という意味ではありません。

人を救うことができるのは、人間の力ではありません。

だから、阿弥陀仏の本願をお伝えするのです。

自分自身もまた、阿弥陀仏のはたらきによって生かされている存在です。

「自分が救ってあげる」

という思いではなく、

「この方にも真理との邂逅としての阿弥陀仏の本願に出遇っていただきたい」

という願いによって、お取次ぎが行われます。

病の中にある方、死に向き合う方とのご縁

本を読まれた信後の方の中には、

病気を抱えている方。

まさにこれから死に往く時を迎えておられる方。

ご自宅ではなく、ターミナルケア施設で最期の時を過ごされる方。

信心の沙汰を続けている方。

そのような方々とのご縁を通して、

「組織や肩書きではなく、この私自身が向き合うしかないのだ」

と知らされたという方がおられます。

生死の問題は、誰かに代わってもらうことはできません。

同じように、目の前の一人とのご縁も、誰かに任せきることはできません。

自分に与えられたご縁は、自分が受け止めていく。

ここに報恩の道があります。

組織を守ることと、仏法を伝えることは同じではない

組織には大切な役割があります。

しかし、いつの間にか目的が、

「阿弥陀仏の本願を伝えること」

ではなく、

「組織を維持すること」

「人間関係を守ること」

「指導者を支えること」

になってしまえば、本来の報恩から離れてしまいます。

報恩の中心にあるのは、人間でも組織でもありません。

阿弥陀仏の願いと他力信心を賜ったご恩です。

一人との出遇いを大切にする

仏法を伝えるというと、多くの人に広めることを思い浮かべるかもしれません。

しかし、阿弥陀仏の本願は、常に一人ひとりに向けられています。

目の前の一人。

いま苦しみを抱えている一人。

生死の問題を真剣に求めている一人。

その一人とのご縁を大切にすることも、尊い報恩です。

報恩の覚悟とは、孤独になることではなく、一人一人の課題

一人でもお取次ぎをする覚悟とは、孤立することではありません。

阿弥陀仏の本願をよりどころとして、自分に与えられたご縁を引き受けることです。

人から認められるためでもありません。

組織から評価されるためでもありません。

ただ、いただいたご恩に報いるために、自分にできることを行う。

その歩みが、信後の人生に現れる報恩の姿です。

他力とは、真理のお方阿弥陀如来の働きです。人間の力ではありません。

だから、他力信心を賜った一人ひとりが、阿弥陀仏のご恩を賜った者として、それぞれの場所で、有縁の方にお伝えしていくことが肝要です。

私たちの心の奥底で繰り広げられている「自力」と「他力」のせめぎ合いについて、少し深掘りしていきます。

 

「他力すら自分の道具にする」自力のしぶとさ

自力を手放そうとしながらも、一方でその他力すら頼りにして助かろうとする——。

そんな自力を「不要だ」と一方的に断じる話が、最初から有難く聞こえるはずはありません。

私たちは自分が何とかしたら助かるという気持ち全開でいるのにもかかわらず、無意識のうちに、阿弥陀如来の救いや「他力」という言葉を信じているつもり、疑っていない前提の「自分が助かるための手掛かりやツール」として利用しようとしてしまいます。

このように信じているつもりなので、「手放しなさい」と言われても、そう簡単に手放せるものではないのが、私たちの自力の切実な姿です。

私たちが納得できない理由——「別の地平」にある教え

なぜ、私たちは「他力」を素直に受け入れることができないのでしょうか。

それは、私たちが普段生きている世間が、

  • 努力偏重主義(頑張った人が報われる)

  • 因果論(原因があるから結果がある)

  • 報酬主義(成果に応じた対価を得る)

というルールで成り立っているからです。

私たちは生まれた時からこの価値観の中で育ち、それを「正しさ」として生きています。しかし、他力の世界はこれらとはまったく「別の地平」にあります。

自分の枠組み(努力や報酬の論理)で測ろうとする限り、他力の教えはどうしても「納得できないもの」として弾かれてしまうのです。

 自力が必死に逃げ出す「本当の恐怖」

自力の心は、真理である他力につかまらないように、スルリ、スルリと身をかわします。

なぜなら、つかまったら最後、「迷いのいのち」が死ぬからです。

自力がなくなったその先に、自分がどうなってしまうのかはまったく予想がつきません。

手放した瞬間に感じられそうな感覚は、ただただ「恐怖」だけです。

だから、自力は必死になって逃げ続けます。

「自分の力(自力)では、もう間に合わないのだ」という疑いがすっかり晴れてしまうことは、自力にとっては最も恐ろしい出来事なのです。

知識を増やすことではない——「聴聞」の本当の意味

仏法を聞く「聴聞」とは、単に知識を増やすことでも、難しい教義を暗記することでもありません。

聴聞とは、「自力は無効である」と知り、阿弥陀仏の本願の生起本末を聞き、ただ他力に救われていく体験があることを聞くことです。

自分の力ではどうにもならないという現実を聞き抜き、その疑いが晴れるまで聞き続けていくこと。

世間の「頑張れば報われる」という地平から一歩踏み出し、自力の限界、底を聞き抜いていくプロセスこそが、聴聞という歩みです。

縁となった人の実態を知ったとき、どうするのか

他力真実信心という、真理との邂逅があることを知る縁となった人がいます。

ところが後になって、その人が実は、他者を同じ境地へお取次ぎすることよりも、自身の名利を優先し、そのために剽窃を行い、人が助からない方向へ教えを変え、人や布施を集め、団体の拡大に力を注いでいた人物だったと知ったとしたら、どうするでしょうか。

あるいは、そこまでではなくても、その人自身は誠実であっても、他力真実信心へ導くまでの法義が徹底されておらず、その場にいた人の多くが化城にとどまり、真実報土へ至る道が明らかにされていなかったと知ったとしたら、どうでしょうか。

その事実を知ることは、言葉では表せないほど辛いことです。

長年尊敬し、お世話になった人であるほど、その衝撃は大きくなります。

しかし、その辛さと、真理そのものとは別の問題です。


他力真実信心を賜ったなら、感謝するのは真理です

もし、自身がすでに他力真実信心を賜っているなら、縁となった人の実態がどうであったとしても、真理そのものまで偽りになることはありません。

縁となった人と、真理は同じではありません。

他力真実信心は、人から与えられるものではなく、阿弥陀仏の本願によって賜るものです。

感謝すべき対象は、特定の人物ではありません。

阿弥陀仏の本願であり、真理そのものです。

その人物への執着が残っているなら、その執着を手放し、真理のみに随順していくことになります。

もちろん、長年信頼してきた人の実態を知ることは辛いことです。

それでも、真理に遇った人は、人ではなく真理に従います。


化城にとどまることと、真実報土へ至ることは異なります

その人自身は誠実でも、真実信心へ導く法義や力量が十分でないため、多くの人が化城にとどまっていることがあります。

これは人格を否定する話ではありません。

問題は、その教えによって、生死の問題が本当に解決するのかという一点です。

『仏説無量寿経』では、化城は旅人を休ませるための仮の都として説かれています。

休息の場所にはなります。

安心感を得ることもあります。

しかし、そこが目的地ではありません。

真実報土へ至る道が開かれていなければ、生死の問題は根本から解決したことにはならないのです。

その場の安心や、人とのつながり、団体への帰属意識だけで満足してしまえば、仮の都を終着点と思い込んでしまう危険があります。


未信・化城にいるなら、自分の問題として向き合う

最も重要なのは、自分自身がまだ未信であり、化城にとどまっている場合です。

どれほど長く所属していても、どれほど恩がある人がいても、どれほど大きな団体であっても、自分自身の生死の問題が解決していないなら、その現実から目をそらすことはできません。

「長年お世話になったから。」

「ここしかないと言われたから。」

「仲間を裏切ることになるから。」

「離れたら悪く思われるから。」

そのような理由でとどまり続けても、生死の問題は解決しません。

死は、こちらの都合を待ってはくれないからです。

真実を求めるなら、自分自身の問題として引き受け、真理を求め続ける以外にありません。


法然聖人と親鸞聖人が身をもって示されたこと

法然聖人も、親鸞聖人も、比叡山で命がけの求道を続けられました。

しかし、どれほど修行を重ねても、聖道門では自分の生死の問題は解決できないと知らされました。

その結果、お二人は比叡山を下られます。

それは比叡山を否定するためではありません。

真理を求めた結果でした。

恩があるから残る。

長年いた場所だから離れられない。

仲間がいるからそのままでいる。

そのようなことを基準にはされませんでした。

真理がどこにあるのか。

生死の問題がどこで解決するのか。

その一点だけを見つめて歩まれたのです。

その姿勢は、現代の求道者にも変わることなく問いかけています。


判断基準は一つです

最終的な判断基準は、ただ一つです。

「その教え、その場所、その人とのご縁によって、自分は本当に他力真実信心を賜ることができるのか。」

この一点です。

人への恩義は大切です。

ご縁への感謝も大切です。

しかし、その恩義や感謝が真理よりも上に置かれるなら、それは真理への随順ではなく、人への依存になってしまいます。

他力とは、人に依ることではありません。

阿弥陀仏の本願にすべてをおまかせする世界です。

真理を求める者は、人や組織に従うのではありません。

真理に従います。

法然聖人、親鸞聖人が身をもって示された道は、八百年以上を経た今日も、私たちに力強く問いかけています。

「あなたは、人に従うのか。それとも真理に従うのか。」

この問いから目をそらさないところに、真実を求める歩みが始まります。