昨日、出版社から送られてきたPDFで、『仏教タイムス』に掲載された私の自著紹介記事を拝見いたしました。
まず何より、有難いと感じたのは、限られた紙面の中で、単なる「新刊紹介」に留まらず、本書が本当に伝えようとしている核心部分へ、真摯に触れようとしてくださっていたことです。
博士論文を基にした本というと、どうしても「研究書」として受け取られがちです。しかし、私が本当に書きたかったのは、単なる学術的整理ではありません。
人が、生死の問題に突き当たり、自力ではどうにもならないところまで追い込まれた時、そこで初めて開かれてくる「他力」の世界――その現実です。
その意味で、執筆者の方が、本をかなり丁寧に読み込んでくださったことは、深く伝わってまいりました。心より感謝しております。
ただ、その一方で、どうしても心残りに感じた点もありました。
それは、本書の口絵にも掲げた稲垣瑞劒先生について、一切触れられていなかったことです。
私にとって、瑞劒先生と鈴木大拙さんとの「リビング仏教論争」は、本書を理解する上で欠かすことのできない重要な背景です。
鈴木大拙さんが説かれた「リビング仏教」は、現代社会を生きる中で役立つ、生き方としての仏教という側面を強く持っていました。
しかし、瑞劒先生は、仏教の根本目的はそこではないと、はっきり説かれました。
仏教の根本目的は、「死の解決」であり、生死を超える体験にこそある――。
この問いは、まさに私自身が長年、身をもって向き合い続けてきた問題でもありました。
また、記事の中では、私が「真宗カウンセリング」に向き合い実践しているような形で紹介されていましたが、これについても少し補足しておきたいと思います。
私は「真宗カウンセリング」を研究対象として扱ってはきましたが、実践者として歩んできたわけではありません。
むしろ私自身は、もっと切実な場所――「本当に人は救われるのか」「死の恐怖は超えられるのか」という問題に、人生そのものを巻き込まれながら求道してきました。
かつて私は、某真宗系宗教団体に身を置いていた時期があります。
しかし、そこには「信心の沙汰」が自由にできる空気はありませんでした。
何千人という聴衆が、ただ壇上の話を聞く。そこに対等な問いや応答はない。
そして、ここで申し上げたいのは、「信心の沙汰」とは、単なる教学談義ではないということです。
本来それは、信心決定した者が、未信の人に対して、その人が抱えている「化城」を壊していく営みです。
つまり、自力で築き上げた理解や安心、観念の城を、本当にそれで生死が超えられるのかと問い続けていくことです。
ですから、単に教義を知っているとか、言葉を巧みに説明できるということとは、本質的に異なります。
私自身も、救われたい一心で、長く求め続けました。
しかし当時の私は、「自力では間に合わない」ということが、本当には分かっていませんでした。
どこかで、
努力すれば、
学べば、
理解すれば、
何とか辿り着けると思っていたのです。
けれど、ある時、ふっと知らされたのです。
「ああ、私自身では、この信心を創り出すことも、獲得することもできないのだ」と。
それは、私にとっては劇的なものというより、「ふっと」訪れたものでした。ただ、それが他の方にとっても同じ形で起こるとは限らないとも思っています。
しかし、その時、これまで必死に握りしめていたものが、驚くほど簡単に消えていった感覚がありました。
他力の信心とは、難行苦行の果てに、ようやく辿り着くような「隘路(あいろ)」ではありません。
もちろん、そこへ至るまでには苦悩も迷いもあります。
けれど、本当に届いた時、人は「ああ、こんなに簡単だったのか」と知らされる世界です。
だから私は、この本を単なる教義解説として書いたのではありません。
自力が完全に死に絶えた場所で、真理が私を通過透過していった――その現実そのものを、一冊の本として差し出したかったのです。
そして今、不思議なご縁の中で、私は製本所へ通い、自分の本にもう一本のスピンを差し込む作業まで行っています。
大学時代、たった一度だけ経験した深夜の製本アルバイト。新刊文庫に黙々とカバーを掛け続けた、あの一夜。
まさか何十年後に、自分自身の本を、自分の手で修復する日が来るとは想像もしていませんでした。
その不思議な巡り合わせも含めて、「本を世に送り出す」ということの重みを、今しみじみ感じています。
どうか、この本が、読まれた方にとっても、単なる知識ではなく、真理が通過透過していく一つのご縁となりますように。
