前回の続きです。)
 
 さて、この次男が犯行に及んだ要因は何だったのでしょうか、今日はそれについての私の考えをお話ししたいと思います。
 
【感想】
 今回の記事中から、次男が犯行に及んだ要因の一つとして考えられるマークポイントを挙げ、それぞれについて考えてみたいと思います。
 
≪マークポイント①≫
「確かにカードを取ったのはこの僕だよ。すみません。しかし、現金なんか知らない」
「ふざけている場合じゃないでしょう。あんた以外に誰が取るの」
「いいかげんにしなさいよ」
「いいかげんも何もないだろ。とにかくやってないんだから」
「いつまでそんなこと言ってるの」
どれだけ問い詰めても否定し続けている子どもの反応をどうとらえるか?この点が重要だと思います。親は「自分の考えに間違いはない」という先入観にとらわれがちですが、もしも子どもの主張が正しければ、場合によっては、今回のような事態に陥ることもあり得るのです。たとえ、ここまでに至らなくとも、子どもからの信頼を失うことは間違いないでしょう。先ずは子どもの言い分に耳を傾けてみる、叱るのは、その言い分が不適切なものであることを確認してからで遅くありません。
 特に、“飲酒”という重大事態だったからこそ、「子どもに相当のストレスが溜まっているに違いない」と認識し、本人の話に耳を傾けなければならなかったのではないでしょうか。
 
≪マークポイント②≫
「酒なんか飲んで何事か」と叫ぶなり、右足を上げて息子の横腹を蹴りつける。
「明日出ていけ!」
<明日家を出ていかなければならない。一体、どこへ行けばいいのか。一人で生計を立てていけるはずがない>彼の心はポッキリと折れていた
~とにかく、親による“暴力”は子どもの“怒り”と“反発心”しか生みません。
「明日出ていけ!」この言葉は、次男から“心の居場所”どころか、“物理的な居場所”までも強奪してしまったのです。このことは、親と愛着(愛の絆)で繋がっていたいとする「所属・愛情の欲求以上に優先順位が高い「安全性の欲求」(DV、いじめ、戦争等の身体的危機の無い環境の中で生活したいと思う気持ち~「マズローの五段階欲求説参照)を踏みにじってしまったのです。
 
≪マークポイント③≫
いつもなら、叱り役は父親で、母親はそばで話を引き取り、息子をいましめ、父親の怒りをなだめる、という役を演じる。しかし、今晩はどうもそうではないらしい。母親の口調は中立の調停役ではなくて、彼女自身が検事の側に立っているように聞こえる」
てっきり母親が『あなた、本当に取ってないの?』ととりなしに回ってくれると思ったのに、母親の態度はさっきと少しも変わっていない」
~いつもなら「父親は叱り役で、母親はそばで話を引き取り父親の怒りをなだめる役目」という構造でトラブルを潜り抜けてきたこの家族。ところが、この夜だけは違っていました。母親も、父親側に立ったことによって、明らかに家族内のパワーバランスが崩れました。そのことによって、この次男は家庭内での居場所を失くし、絶望的な「狼狽、困惑、屈辱、不安、怒り」に陥ってしまい、それが、わずか二時間後には、「殺意」へと変化していったのです。
 
強すぎた父性と弱すぎた母性
 以上のポイントを踏まえて、私達がこの事件から学ばなければならないことは何かを考えているみたいと思います。

 まず、息子の横腹を蹴りつけたり、「明日出ていけ!」と家庭生活から排除しようとしたりする父親の言動は、自立を促す正しい父性の姿(「見守り4支援)ではない、過剰に走り過ぎた自立の強制です。厳格タイプの父親が陥りやすい言動と言えるかもしれません。
 
 また、事態の収拾に向けて「とりなしに回る」ことができるのは、子どもを受容する母性を持つ母親の役目ですし、「母親はぞっとするような声で言った。『あんたには呆れたわ』」との言動は、「ほほ笑み穏やかな物言い」が本来の母性の姿(「安心7支援)とは正反対のものです。
 
 つまり、子どもの家庭内での居場所を確保するためには、正しい自立を促す父性と、子どもを受容する母性との双方が必要であり、仮に、一方の働きが過剰に働いた場合でも、もう一方がそれを制御する関係にあるべきなのです。
 特に、この事例の場合は、それまでは父親が叱っても、それを母親がなだめるという力関係で成り立ってきたのですが、母親が普段の立ち位置を変えたことによって、一気に問題が深刻化しました。

 一般的に、“母親よりも父親の方が子どもに対して甘い”という家庭はそう多くはないかもしれませんが、逆に“母親よりも父親の方が厳しい”という家庭は多いように思います。その場合は、その働きを抑制するべき母親の役割が重要になりますが、その母親も父親側について子どもを責めるようになると、問題となって露顕しやすいと思います。
 その典型例が、昨年までに大きな社会問題となった父親による幼児虐待死であったと思います。過度に働き過ぎて暴走した父親からの暴力を恐れて、母親が一緒になって子どもを攻撃したために、子どもは逃げ場を失い、命を落とす結果を招いてしまったのです。改めて母親の存在の大きさを痛感します。
 
 なお、この金属バット事件では、事件後の次男に対する精神鑑定から、高校受験以来の挫折感で性格が大きくゆがめられ、一過性の精神分裂病にかかり、その残遺症があったこと、更に、「無気力症」及び「新症候群」と呼ぶべき病気にかかっていたため、犯行時には、心神喪失または心身耗弱の状態にあったことが明らかになっています。
 しかし、当時は、同じように浪人生活をしていた学生は数え切れない程いました。ですから、受験勉強による精神不全だけでは、今回の事件は起きていなかったと考えられます。やはり、両親の不適切な関わり方が重なった結果として、金属バットによる凶行が発生したと言わざるを得ないと考えます。
 
終わりに
 さて、今回の事件は、父性と母性とのバランスが崩れたことによって起きてしまいました。
 しかし、現代は、社会の急激な変化の影響を受け、父親と母親のどちらか一方の立場の方が強かったり、父親が子育てに関わらなかったり、更に、一人親家庭が急増したりする等、本来の両性の姿とは異なる歪んだ働き方で子育てをしてしまっている実態が見受けられます。子どもにとっては母親と父親の存在が家庭における成長要因の殆どと言える環境下で、昨今、家庭内暴力に限らず、人格の不安定な人間による様々な社会問題が急増しているのは、そのような不均等で歪んだ両性の働きによって育てられた人間が増えているためではないでしょうか。