【今回の記事】

【記事の概要】
    自閉症の弟について書いた京都府向日市の女子中学生の作文が、府の「障害者週間体験コンクール」で最優秀賞に選ばれた。タイトルは「普通」。弟の自傷行為や発達の遅れを見つめた日々をつづる。「障害がある人は、変わった人じゃなくて、当たり前が違うだけ」
「ガンガン!」。向日市上植野町の勝山中2年中林静花さん(14)の作文は、弟の宗汰君(7)が額を床に打ち付けるシーンから始まる。当時1歳にもなっていなかった。「一番衝撃的だった。床との間に手を出して守ろうとしたけど、こんなに痛いんだって思った」
 一緒に遊び、時には2人が大好物なチョコレートケーキを取り合ってけんかもする毎日。同年代の子どもに比べて宗汰君の発達が遅いことに、中林さんは気づく。自問した答えは「変わっているように見えても、他の人にとって当たり前にできることが違うだけ」。優劣ではなく「違い」という言葉を使った。
「本人は気にせず楽しそう。だから私も何とも思わない。弟がいたから分かった」。障害のある人と実際に接する人が増え、世間の偏見が変わることを願っている。
 受賞が決まった日、お祝いに買ってもらったチョコレートケーキを弟にも分けた。「宗汰が選ばれたようなものだから」

◇中林静花さんの作文(一部抜粋)
「『ガンガン!』私の弟が自分のおでこを床に打ちつける音だ。私の弟は自閉症である。額を衝撃から守ろうと手をさしのべると、あまりの強さに涙が出る程だ。なんだか周りと『違う』。私の弟が自閉症だと分かってから、障がい者に対する私の考えが変わった。
 普通とは、自分から見た『当たり前』だと思う。勉強が得意な子はテストで90点は当たり前。不得意な子は50点ぐらいが当たり前。『私たちと違う』と思うのは、私たちと障がい者の方たちとの普通に、大きな違いがあるからだ。悪い違いではない。
 私の弟は何か難しい課題があった時、『やって』ではなく『手伝って』と助けを求める。私が終わらせようとすると、『もういい、手伝い終わり』と言われる。弟にも自分で成し遂げたい気持ちがある。障がい者の方のやる気や自尊心を失わないようにサポートするのが大事ではないか。」



【感想】
「本人は気にせず楽しそう。だから私も何とも思わない。弟がいたから分かった」と言う中林さん。大人でも気がつかないような「それぞれ違う“普通”」と言う“達観”した考えは、弟さんと共に過ごしているからこそ抱いたものに違いありません。
   私も現職の頃、重度の自閉症の妹を持つ小6の女の子を課外の吹奏楽活動で指導したことがあります。その妹さんも自傷傾向がとても強い子どもで、手首の皮膚は、自分がいつも力一杯噛んでいるためにボロボロになっていました。ストレスが強くなると自分で自分の手首を強く噛んでいたのです。このお姉ちゃんは、ある日の昼休みに廊下を歩いていた私にこう尋ねてきたことがあります。
「先生、『障害』って悪いことなのですか?」
もちろん、「障害」が妹さんのことを意味していることはすぐに分かりました。私はこう答えました。
「悪いことじゃないよ。“障害者”という括(くく)りは、強い暮らしにくさを持っている人達に特に優しくしようと思い、どの人達に優しくするかを絞るために、後から人間が作ったもの。だから本当は、Aさんとその友達のBさんに“違い”や“個性”があるように、『障害者』と言われている人にも同じように“違い”や“個性”がある、その違い方が少し大きい、ただそれだけのことなんだよ。」
    思えば私が小学校6年生の頃に「障害とは悪か?」ということなど考えたこともありませんでした。「なんて深いことを考えている子だろう!」と感心しました。
   今回の記事の中林さんといい、この女の子といい、自閉症の兄弟を持った子どもは、なぜこのように深い考えを持つことができるのでしょう。

   一緒に過ごす時間が長ければ長いほど、自閉症という“違い”のはっきりした世界があることを知ることができます。特に家族は、まず、自閉症の人と自分との圧倒的な違いを体感します。中林さんは、そのことを「一番衝撃的だった。床との間に手を出して守ろうとしたけど、こんなに痛いんだって思った」と表現しています。更に、それとは逆に、気持ちが安定した時の“素直さ”と“正しさ”も知ることができます。気持ちが安定した時の自閉症の子どもはまるで『天使』です(この表現は、私が現職の頃、知的遅れのない自閉症の子どもを担任したある先生が使った表現です)。例えば、上の写真での美味しそうにケーキをほうばる弟さんの表情、ステキですね!自分の「安全基地」のような存在である優しいお姉ちゃんの前では、いつもは不安ばかり感じて緊張している自閉症の弟さんも『天使』にもなれるのです。また弟さんは、何か難しい課題があった時、「やって」ではなく「手伝って」と助けを求めると言います。人任せにする人間が増えている中、「やるのは自分だ」と言う主体性を持っているのです。つまり、「衝撃的」な“暮らしにくさ”から、「天使」のような“素直さ”や“正しい価値観”まで、振れ幅広く自閉症という人の世界を知ることになります。いつも健常者としか接していない人間に比べて、その理解の広さは何倍も広いのです。そして、そういう広い世界を知ることによって、自閉症の人にも、「個性」や「長所」、その人なりの「普通」があることが分かり、最終的に、「どんな人にも、それぞれ“違う普通”がある」と言う理解に至るのです。

   しかし、そのことに気づくことができるのは家族だけとは限りません。
    これも私が現職の頃、しかもまだ通常学級の担任だった頃に、「総合的な学習の時間」の一環で、学校の地域にある障害者施設で暮らしている障害者(主に知的障害者)の方と交流学習をすることになりました。そのことを子供たちに教えたら、ある女の子があのバカどもかぁ」と声をあげました。普段から地域ですれ違ったことがあったのでしょう。単なる外見からそういう印象を受けていたようです。その後、こちらの子ども達が施設を訪れたり、逆に学校にお招きして遊んだりしました。そして、学校にいらした施設の方々が帰るところをお見送りしていた時のことです。「あのバカどもかぁ」と言っていたまさにその女の子がこう言ったのです。
とってもやさしい人達だったね!

    昨今のニュース等を見ると「自分達と世界が違う人達とは交わりたくない」と考える人が増えているようです。その様子を見聞きする度にとても残念に感じています。
    特に、この記事の弟さんのような“感覚過敏”の特性を持った自閉症の子どもは、自分の気持ちを隠さずに正直に表してくれます。弟さんも、自分の中でとても嫌な刺激に触れたり、自分でうまくできなかったりした時に、頭をガンガン机にぶつけるのです。中林さんもその痛さを実感したことで、弟さんの辛い気持ちがより分かったのだと思います。
   逆に、健常者は我慢できますが、そのストレスは確実に溜まっていきます。側にいる人間もその人の様子から「問題なし」と油断してしまいます。そうなると今度はその周囲の人間が“鈍感”になって、他人の気持ちを慮る感覚を忘れてしまうのです。結果的に、「障がい者の方のやる気や自尊心を失わないようにサポートするのが大事」と訴えている中林さんをガッカリさせてしまうでしょう。

    私自身も、自閉症教育に関わり、自閉症の子ども達と直接関わったからこそ、このブログで親子間の「愛着(愛の絆)」についての情報発信ができていると思っています。仮に、自分の気持ちを隠さず表現する自閉症の子ども達との出会いがないまま、岡田尊司氏の本を読んでいただけだったとすれば、母親と接する子どもの心の内までは考えが及ばず、ただの“観念論”になっていたと思います。また、出来るだけ具体的で分かりやすい方法でなければ情報が伝わり難い自閉症の子ども達と出会わなければ、「愛着」を形成するうえでの具体的な方法(例えば、簡単な愛情行為を7つに限定した「愛着7」、過干渉による「不安型愛着パターン」を防ぎ、子どもを自立した「安定型愛着パターン」に導く「自立4支援」、子どもを「愛着」不全にしない「叱り方」、子どものやる気を引き出したり、子どもに自信を与えたりする「褒め方」等)についても提案できなかったと思います。自閉症の子どもに接しているうちに「できるだけ絞って具体的に伝えよう」という習慣が私の中に生まれたのです。
    また、“感覚過敏”の特性のために、いつも強い不安感に悩まされている自閉症の子ども達が安心できる環境作りの提案は、「自閉症“スペクトラム(連続性)”」と呼ぶように、大なり小なり自閉症の傾向を持っている健常者にとっても、心から安心してのびのび活動できる環境作りの提案にもなるのです。親との間に安定した「愛着(愛の絆)」を形成するうえでは、この安心できる環境が基盤になるのです。

    強いストレスに苛まれ、他人を攻撃する事件や事例が急増している現代こそ、皆が障害者教育に目を向けるべきだと思います。
    中林さん、本当に素敵な作文をありがとうございました。