福知山を北近畿の要衝にするというビジョンが光秀にはあり、防御を最優先した山城でなく、城下と一体になった平山城を築いて、人と物を福知山に集め…
光秀の統治には、地域の中心を生み出す大切さを見抜いていたと想像を働かせるが出来ます。
その卓越した能力、故に、信長に見出され、異例の出世を遂げたのはわ有名ですが…
信長が天下統一を目指すにあたって、京都、丹波を抑えていた光秀の力は大きかったのではないのかと、織田家中での光秀の役割を分析することも出来るからです。
しかし 土民が光秀の首を秀吉の陣営に持参したのは3日後であり、腐敗が激しく本人かどうか確認できなかったとも言われています。
そしてそして 実際は生き延びて比叡山で身を隠し、しばらく過ごしていたと…。
やがて秀吉がこの世を去り、徳川の時代に移ると、光秀は「天海」へと姿を変え、再び人の世に現れたのです。
因みに「天海」とは南光坊天海…
関ヶ原の戦いの時に突然 徳川家康の参謀として、その名が歴史に登場するのです。
では、何故に光秀は天海なのか
ここでいくつか根拠をあげてみましょう
① 日光東照宮には “桔梗紋” があるのですが、それは徳川家の家紋ではなく、明智光秀の家紋であり、その桔梗紋が至るところにあるのは、何か意味があるのでしょうかね🤔
② 日光には「明智平」と言う場所があります。
ここの名前は、天海が付けた名前なのだそうですが、明智と言う名を世に残したかったからと言われています。
本人以外が、他人の名前を場所名にしてまで残したいと思うでしょうかね🤔
③『光秀』と言う人物が、比叡山に寄進したとされる石灯籠、そこには、1615(慶長20)年という寄進年が刻まれており、本能寺の変は1582年なので、これは全く時代が合わない事になりますよね🤔
④ 光秀の木像と位牌がある京都・慈眼寺の寺号と、天海の諡号(死後に送られる尊称)である「慈眼大師」は同じ慈眼、これはただの偶然なのでしょうか🤔
これらの根拠が、意味している事はなんなのでしょうか
等と、語っているうちに、今宵の宿「ホテルエリアワン」に到着
本来、私はホテルの宿泊者にあたって、大浴場が有るか無いかを、宿泊の基準にしてはいるのだけれど、もちろん、無いホテルも多く…
こちらのホテルにも大浴場の施設は無い代わりに、めちゃくちゃ近場にスーパー銭湯が有るとのことで…
天然温泉♨️
奥香の湯
ホテルから僅か5分程、本当にめちゃくちゃ近場にあって、びっくり
やがて、翌朝は早いので就寝😴😴😴
翌朝は、6:00にもならぬうちに和田山駅へと向かうのですが、ところで、明智光秀について、まだ話しは終わっていません
これらの根拠が、意味している事はなんなのでしょうか
もしある仮説を立てるならば、天海はあくまで光秀であって、尚且つ、光秀の娘婿であり重臣であった明智秀満が、光秀の後に二代目天海として徳川家に仕えたということです。
つまりどういうことなのか・・・
天海が100歳を超える当時としては、驚異的な寿命であったことを考えると、光秀が初代を演じ、秀満が二代目を演じて、明智家二代に渡り天海として生きたということです
幾つか、根拠を論じましたが、にわかに信じられる話ではないですよね🤭
ここで重要な人物が徳川家康…
なのですが、次回へと続きます…☆