3世紀後半に、近畿地方の豪族による巨大な勢力が生まれ、「ヤマト政権」へと発展を遂げるのですが…
王や豪族が亡くなると古墳と呼ばれる大きな墓が造られました。
前方後円墳などの種類がある古墳は、全国各地の豪族によってもつくられ、6世紀末までを古墳時代と呼びます。
現在、航空写真等で古墳を見ると、その姿は木々で覆われおり、まるで森林のようですが、当然ながら、古墳が造られた当時はそのような姿ではありません。
古墳の多くは表面に石がしきつめられ、人や家、馬の形をした埴輪が置かれました。
内部の石室や死者をおさめた棺には、銅鏡、玉、銅剣などの祭りの道具や冠、農具、馬具などがおさめられました。
当時の人々は太陽神や自然の神々など、一族を守る神を信仰しており、古墳の内部には神とされる動物などの絵が描かれたものまで発見されています。
古墳巡りの途中で、百舌鳥八幡宮をお参りしました。
百舌鳥八幡宮の歴史はとても古く、神功皇后が三韓征討を終えて難波に御帰りになった時、この百舌鳥の地に天下泰平民万人を守ろうという御誓願を立てられ…
八幡大神の宣託をうけた欽明天皇の時代に、この地を万代(もず)と称し、ここに神社を創建し、お祀りされたと伝えられています。
ところで、「謎の四世紀」と呼ばれる時代をご存知でしょうか
あるいは「空白の四世紀」とも呼ばれ、日本の歴史上には、歴史書には全く記述のない時代があります。
しかしながら、その空白の入口である弥生時代末期出口の「倭の五王 = 仁徳天皇等が活躍した」の時代では、すべての面であまりにも違いが大きすぎるのです。
この期間は何故に空白で、いったい何があったのでしょうか?
巨大な前方後円墳が大和から広がりを見せる3世紀後半~5世紀初頭は、具体的な記録が無いので「謎の四世紀」といわれています。
中国の史書を参考にすると、『晋書』倭人伝にある邪馬台国の新女王台与(とよ)が、266年に朝貢をした記録が最後で、次に『宋書』などに現れる「倭の五王」までが何も情報がない空白の期間とされています。
そもそも、我々が過去の歴史を知るにあたり、同じ読みをする「しりょう」でも、「史料」と「資料」では全く意味合いが異なり…
学問上において、歴史学の「しりょう」は「史料」の時をあて、“史” は “ふみ” とも読めますし、文字を記した書物のことです。
一方の考古学の「しりょう」は資料、“資” は資金や資本など、その元となる材料や素材のことを指します。
『晋書』倭人伝にある邪馬台国の新女王台与の時代には、邪馬台国は魏の皇帝に戦の救援を求めていますので、戦乱で苦境に立たされているようです。
つまり、まだ邑国(城壁のあるクニ)同士が激しく争っていた小国時代です。
それが再び、中国の史書に再び日本の様子が記されると、5世紀の「倭の五王」の時代となり、王権がほぼ確立して、権威ある肩書を中国皇帝に要求しています。
つまりこの間に、「ヤマト政権」がほぼ確立したと考えられ、また、同時に前方後円墳が各地に広まっているのです。