世の中には様々な主張なり、思想があり、人それぞれに想うことはあると思いますが、今回のブログ記事は、ひとりの日本の近現代史を学んだ者の心の内であると捉え、お読み頂ければ幸いです。
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鹿児島県にある 「知覧」という町をご存知でしょうか?
言わずと知れた、太平洋戦争時の特攻隊の出撃地となった場所です。
これまでの人生において私は、国内の様々な場所へと行きましたが、今回のこの場所ほど「人の命」というものについて、考えさせられた場所はありません。
知覧特攻平和会館
初めてこの場所を訪れ、入館料を支払い、館内の中へと足を踏み入れた瞬間、何とも言い表すことのできない得体の知れぬ雰囲気でした。
そもそも、チケット売り場へ向かう途中、平和会館を見学し終わって出てくる人々が、ハンカチで顔を覆っているのです。
当然ながら、すぐに、察しがつきます。
この人たちは、みんな泣いているのだと…
館内のブースには…
隊員が最後に故郷の家族へ宛てた手紙
大切な恋人へ宛てた手紙
隊員が残した遺品と遺影
戦闘機の実大サイズの模型
想像してみてください。
これから死に行く特攻隊員の実物の遺品や手紙が所狭しと展示されているところを…。
さらに、視聴覚コーナーもあり、当時の映像を鮮明に伝えてくれます。
この「知覧」のある鹿児島を最後に、私は47都道府県を制覇…
宮崎が怪しいと思いながらも、間違いないなく、遠い昔に延岡に行った記憶があるので、これが最後の「県」となりました。
鹿児島は何度か行く予定を組んだことがあるのですが、その都度、何らかの理由ができキャンセル。
もし、旅の神様がいるのならば、最後に「知覧」へと私を導いたのでしょう。
色々な出会いがあり、そして人々は私に知覧に行くこと勧め、けれども、皆、共通して言うことは知覧は遠い…
もちろん、距離的なことを言うのですが、私にとっては47都道府県の最後の訪問地となり、当初の計画から20年以上の月日が流れ、ようやくたどり着いた、遠く、遥かなる約束の地…
そして、平和会館の入り口に立ち、天空を見上げると、汲み上げてくるものがあります。
かつてこの地に特攻隊の基地があり、ここから日本国の未来、そして愛すべき者を守るため、若者達が飛び立ったのかを想うと…
この知覧の地を訪れたある方は、私にこう語りました。
知覧は私の考え方にとてつもなく大きな影響を与えました
いや、生き方を変えたと言っても過言ではありません
どうか、知覧へ行ってください
死ぬまでに一度、知覧特攻平和会館へ必ず行ってください
日本人として、否、人として、絶対に行かなければいけません
まだまだ、“知覧” について述べたいことはありますが、旅ブログ故に、いつになるかは分かりませんが、鹿児島の旅のレポートの際に、より詳細に触れたいと思ってます。
私は決して戦争を肯定はしませんし、美化することなどもなく、そんな気持ちは全くありません。
但し、歴史を学んでいると、突然と「結果」だけが現れるのではなく、その結果へと導かれるための「原因」、そして「プロセス」が必ずあり、それがとても大切なことであると痛感させられるのです。
第一次世界大戦後に、日本が委任統治した太平洋に位置する屋久島ほどの小さな国 = パラオと言う国があります。
とても日本の国旗と似ているのですが、その理由は後程に触れるとして…
1944年9月。
日本が統治していたパラオのペリリュー島で日米対戦が勃発。
島を守備していた、日本兵約1万の死によって
サクラ、サクラ、サクラ……
「桜の花のごとく散り、ペリリュー島の日本兵の全滅」
を意味する電報が本部に送られました。
これにより、ペリリュー島での日米決戦は敗北に終わりました。
しかしながら、日本兵は果敢に戦った…
戦車10倍・重火器100倍・航空機200倍という圧倒的戦力差のあるアメリカ…
2,3日もあれば戦いに決着が着くだろうと言われていましたが、日本兵は決して怯まず、持久戦に持ち込み、73日にもわたる死闘を繰り広げました。
しかしながら、このペリリュー島での決戦には、非常に不可解な点があったといいます。
それは、アメリカの砲爆撃や激しい空爆の嵐が島に降り注いだにも関わらず、島に住んでいた1,000名近い現地民に「ただの1人も死者・負傷者が出なかった」との事実。
なぜ、島民は一人も死亡しなかったのか?という謎を知ることで、私たちの記憶から消された「歴史の真実」が見えてくるのです。
19世紀の後半、パラオはスペインとドイツに支配されていました。
白人の統治時代には、賃金なしで倒れるまで働かされ、倒れれば、鞭打ちの罰を与えられる日々…
暴動を起こせば、皆の前で銃殺され、公園の木に吊るされ見世物にされた時代でした。
しかしながら、ドイツが第一次世界大戦で敗れたため、講和条約で日本がパラオを獲得。
そのためパラオ人たちは、今度は日本人に支配されて、また虐殺されると怯えていました。
けれども、日本の統治時代は、白人のそれとはまるで違い、日本はパラオに学校を造り、病院、道路、水道、電気など、様々なインフラ整備を行いました。
さらに、パラオの人々に対し医療・教育の支援を行い、日本人とパラオ人は共に暮らしていたのです。
また、パラオを統治した日本軍は、パラオ本島の南に位置する「ペリリュー島」に進駐し陣地を作っていました。
ペリリュー島の島民もはじめは、日本兵に怯えていたのですが、日本兵は島民に丁寧に話しかけ、彼らの警戒心を解き、やがて島民たちは日本兵と仲良くなり、日本の歌を一緒に歌うようにもなりました。
そもそも、この当時のパラオは、東南アジア諸国への中継地点でしたが、1944年なると戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況に陥ります。
島民たちは日本や日本人を尊敬していたようで、大人も子供も日本軍と一緒に戦うことを決意。
ある日、島民の代表数人は、日本の守備隊長のいる指揮所を訪れます。
守備隊長であった中川州男は、温厚な人物であったとされ、きっと自分達島民の頼みを喜んで受け入れてくれるに違いないと、そう確信をしたのです。
そして、自分達も一緒に戦わせて欲しいと言う確固たる意思を伝えました。
一同の話が終わると、場が沈黙に包まれ、しばしの沈黙の後、隊長は突然激高し、このように叫んだと言います。
帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!
彼らは一瞬、何か起こったのか分からなくなり、自らの耳を疑った。日本人は仲間だと思っていたのに…。
指揮所を出てからの帰り道、島民は裏切られた想いで、みな悔し涙を流したそうです。
島民たちが船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない…
重い足取りで船に乗り込みました。
しかしながら、船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきたのです。
そして、かつて一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送りました。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が…
その瞬間、島民達は悟ります。
あの隊長の言葉は、自分達を救うためのものだったのだと…。
島民たちは、何か、自分でも分からない声をあげながら、涙でかすむ目を必死に開けて、ちぎれるほど手を振り返しました。
日本兵は現地の島民が戦火に巻き込まれないように別の島へ疎開させたことにより、兵士が全滅するほどの激しい戦いがあったにも関わらず、現地民には戦死者が一人もでなかったのです。
終戦後の1947年、島に戻った島民は多くの日本兵の亡骸を見て涙し、島中に散らばる日本兵の遺体ひとつひとつをきれいに片付けて埋葬…
また、島には戦死した1万人の日本兵を祀る「西太平洋戦没者の碑」が造られました。
その碑には目のモチーフが形どられており、その目は、3,200km先の靖国神社の方角を見つめているそうです。
戦後、パラオはアメリカに統治されるが、紆余曲折を経て、1994年10月に正式に独立を果たす。
ここでまた、パラオの国旗について触れたいと思いますが…
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日本が太陽で、私たちは月だ
私たちは日本がいて初めて輝ける
月を中央にすると日本の色違いになっておこがましい
中心から少しずらそう
そんな議論がなされ、この「月章旗」の国旗が国民投票で選ばれ、青は太平洋を、黄色の丸は満月で繁栄を表す。
満月が少し左にずれているのは、日本の国旗を模して作られ、日本に対しての礼儀からわざと中心をはずしたという説がありますが、真意は定かではありません。
また、パラオと人々の「日本への感謝の気持ち」は、子々孫々まで語り継がれており、何故に、日本はパラオを植民地として、「搾取」の対象にしなかったのでしょうか?
ペリリューの戦いから71年後の2015年4月8日に天皇皇后両陛下がパラオをご訪問されました。
現地では、パラオの人たちに感謝の気持ちをお伝えになっておられ、そして、現地の人たちからも、とても感謝されていたという真実が見えてきます。
もちろん日本も、ただの援助目的でやっていたわけではなく、「自国の利益のため」と言う側面もあるでしょう。
しかしながら、なぜ、日本は他の欧米列強の国とは違い、獲得した領土を単に「植民地」として扱い、資源等を搾取しなかったのか?
そしてなぜ、終戦前で戦力が足りなかったにも関わらず、中川州男隊長はパラオ人の協力を断ったのでしょうか?
実際にインド兵は、イギリス軍として戦っていたように、当時の欧米列強は、統治した先の現地民を兵士として戦わせるということは普通のことだったにも関わらずに…。
何故ならば、「欧米列強による人種差別、植民地支配からアジアを守る」という大義を持っていたからです。
その当時の欧米人は、アジア人(有色人種)を人として扱つていませんでした。
「有色人種は人間ではない、白人だけが人間である」
このような狂った思想で、白人は約450年間もの間、世界を支配下に置いていたのです。
日米衝突が始まる前、日本とタイを除くアジアの国は、ほぼ全て、欧米諸国に植民地支配されていました。
アジアで唯一、まともに欧米と立ち向かえるのは、日本だけだったのです。
もし、あの当時、日本が欧米諸国に立ち向かってなければ、今もなお、欧米による植民地支配、白人による人種差別が続いていたかもしれない…
私は戦争主義者でもありませんし、戦争を美化したりはしませんが、そのような考えに至るほど、それぐらい、私たちの先人は、世界にインパクトを与え、世界の歴史を変えたのです。
例えば、タイ副首相・タナット・コーマンは…
「あの戦争によって世界の至る所で、植民地支配が打ち壊されました。これは日本が勇敢に戦ってくれたおかげです」
と称賛し、マレーシアやシンガポールの首相も同様の声明を出しています。
歴史とは勝者が綴るものだけが、真実ではないということ。
そこには敗者の歴史があり、第三者の客観的な視点があるのです。
「日本は大東亜共栄圈という大義名分を掲げ、アジア各国を侵略し、植民地支配を行った」
等と、仮に、戦後の教科書やメディアが謳うようなことのみが事実なのであれば、このパラオの真実をどう読み解けば良いのでしょうか。
何故に、我々の先人がアジアへと乗り出して行かざるを得なかったのか…
この時代の欧米諸国による人種差別、侵略行為の視点を持たないと、なぜ、日本は台湾や朝鮮を統治したのか?
これらの真実が見えてきません。
その結果、日本の統治やその他の外交の意図が見えず、一方的に侵略であったという歴史観を、戦後、GHQによって刷り込まれ、自虐史観を押し付けられたとも言えるでしょう。
戦前の日本国家や日本人を擁護すると、戦争主義者や戦争を美化していると、冷たい視線を浴びせられますが、何故に、日本は戦争への道を歩まなければいけなかったのかを…
論理的、かつ冷静な視点で、歴史と言うものを学べば、正しい歴史認識を取り戻し、我々の先人たちがやってきた事を後世に継承していくことが…
それが今の我々ができることだと思いますし、それを語り継いでいくことが、現代社会に生きる我々の使命なのだとも思います。
最後に、甚だ長文となりましたが、台湾の親日はとても広く知られていることですが、残念ながら、パラオが親日国だと言うことはあまり知られてはおらず…
けれども、パラオでは世界で唯一、日本語が公用語と定められていたりします。
また、日本文化が浸透し、日本の委任統治時代を「支援」の側面からポジティブにとらえているパラオでは、国民の多くが日本への親近感を抱いていると言うことを触れておきましょう。
永遠にパラオと日本の友好が、続くことを願って