薩摩国周遊の旅 2024.5 ハイライト 後編 | 果てなき旅路

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旅、温泉…たまには歴史。時の徒然に、好きな事を綴っております。

薩摩半島の南側にある知覧は、薩摩藩が防御拠点として整備した武家屋敷町、「麓」集落の町並みが特に見事に残ることで知られる町です。





川沿いに歴史的な町並みが残る様子から、「薩摩の小京都」とも呼ばれ、武家屋敷通りに沿って生け垣と石垣が続く様子は、まるで町ごと庭園の中にあるような美しさです。





各武家屋敷の敷地にある庭園は7か所が国の名勝となっていて、入園券を購入して見学することができますウインク





昨日の荒れた天気とは変わり、空は抜けるような青空、むしろ、ここまでの青空は…


久しぶりに見たかも知れない🙄





そして、次の目的地へと向かうと途中、知覧城跡を通り、ここは「続日本100名城」に認定されているので、さすがに、この広大な山城に突撃はしませんでしたが、後程、ミュージアム知覧でスタンプを押します(笑)





どうして人は、ここまで覚悟を決めることができるのか…


国の繁栄を願い、愛すべき者を守るために、人は自分の命と引き替えに、何故に、戦うことが出来るのか…


様々な想いが交差した知覧特攻平和会館…





特攻資料で最も心に響いたことの一つとして、膨大な数の遺書・手紙類が保存され、そしてそれらが愛する者へ送られたということです。


驚くべきことに、遺書・手紙類の多くが前向きな内容のものであり、愛する者の幸せを願ったものや、過去を(そして、隊員の死を)振り返らないで立ち止まらないでほしいといったものです。





大変貴重な遺品の中には、若い隊員の手紙が衝撃的でした


母上,母上と少年たちは母を呼んでいます


そして「泣いてはくださるな」と言い残しています


母の存在が隊員たちの心の奥で深く根づいていたことを強く知らされました


母は永遠なのだなぁと思います


と、知覧特攻平和会館に訪れた人の感想を読んだりすると、私も全く同感。





国の存亡をかけ、そして未来を信じ、一筋のあまりにも男らしい姿は,今から見ると悲しい結果ではありますが、一人の人間として、生を授かったことへの思い入れは、私などとは比べものになりません。


平和を望むためには、このような隊員たちの思いをもっと知り、二度と繰り返さないため、現代社会に生きる我々は、より一層、過去を学ぶ必要があるのだと強く思います。





国を、家族を、最後まで思い続けた,若い特攻隊たちの死を無駄にしたくない。


生きることへの責任を再び考え直したい。


もっと生きることを大切にしたい。 


遅ればせながら、ここに来れて本当に良かったと思いました。






戦争と平和について…


後日、私なりの想いを綴りたいと思います。





知覧から鹿児島中央駅へ…


通常であれば、1時間程の道程を、交通渋滞に巻き込まれながら、1時間半程かけ戻り…





今度は今宵の宿へと向かうため、シャトルバスに乗り込みます。


その途中、錦江湾に桜島🌋





🏨鹿児島サンロイヤルホテル


ビジネスホテルと言うよりも、まさに南国風のリゾートホテルなのですが、会議やウェディング等の設備もある総合ホテルですねウインク





夕食はディナーバイキングだったので、アルコールの飲み放題を追加して、鹿児島の2日目の夜を堪能…


酔い醒ましに、闇に包まれた桜島が見える場所まで歩きました口笛





燃えて上がるはオハラハー桜島

丸に十の字の帆を立て薩摩の風が吹く


bY「桜島 」長渕剛





翌日は鹿児島空港へ向かうまでは、「市電・市バスシティビュー一日乗車券」で、鹿児島の名所をぐるりと周りますキョロキョロ





せっ!西郷(せご)ど~ん!






そして、こちらが「日本100名城」に認定されている鶴丸城(鹿児島)跡🏯





鶴丸城(鹿児島)跡を囲い込む石垣には、西南戦争での “銃弾跡” が見られ、確かにこの地で、日本最後の内戦となる戦場だったことが偲ばれます。





鶴丸城(鹿児島)跡の周辺には、その他にも見所はあるのですが、この記事はダイジェストのため、その詳細はいつになるか分からぬ本編へグラサン


!? カゴシマシティビューに乗車して…





次に訪れたのが、名勝・仙巌園ですお願い


仙巌園とは、1658(万治元)年に島津家19代の光久によって築かれ、桜島を一望できる庭園のすばらしさは、鹿児島県を代表する景色の1つとされています。





桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた雄大な借景庭園。


壮大な空間構成は、大名庭園の中でも他に類を見ないほどの圧倒的スケールとのことで、その雄大さは確かにその通り爆笑





薩摩の殿様が暮らしたこちらの御殿がまた、鹿児島の誇りを感じられ、江戸時代の面影を色濃く遺した伝統的な建造物です。


さて、この鹿児島の旅もそろそろフィナーレ😢

最後に、カゴシマシティビューに乗車して石橋記念公園へ🚌💨





やはり、最後はこの方に挨拶をしなければなりません。

が、薩摩と言えば、西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆、松方正義等の維新の群像や、そして島津斉彬等の殿様の名がすぐに思い当たり…




この方の銅像のある場所には、幾つかの伝統的な橋や記念碑があり、この西田橋もその内のひとつ口笛





そして薩摩の底力をイギリスに見せつけた薩英戦争の記念碑。


私の個人的な見解ですが、あの太平洋戦争時にアジアで欧米諸国の植民地になっていなかったのはタイと日本であって、その要因は「薩英戦争にあり」と考えられる程、薩摩は強かったのです。





因みに、タイの場合はイギリスとフランスの緩衝地帯と言われ、要はこの2国が狙っていたので、上手くバランス外交を展開できたという状況もあり、また、国王を中心に自力で中央集権体制を構築し、近代化も達成できたことも、結果としてタイが植民地化されなかった理由にもなるでしょう。





私にとって鹿児島の偉人と言えば、大山巌であり、そしてこの銅像の人物…


連合艦隊司令長官

東郷平八郎





勝って兜の緒を締めよ


この言葉は正確には、北条氏綱の名言とされていますが、日露戦争時の日本海海戦に勝利した後、連合艦隊の解散式にて東郷平八郎が…


最後に「古人曰く、勝(っ)て兜の緒を締めよと」と締めくったと伝わります。





アメリカ・ルーズベルト大統領はこの訓示に感銘し、英訳文を将兵に配布しました。


さらに、東郷平八郎の名は世界的に知られ、特にロシアの支配下に置かれてきたフィンランドやロシアと敵対するトルコなどでは英雄的な存在となります。





けれども、その後、東郷平八郎は海軍閥に利用されたり、国民に連合艦隊の不敗神話のようなものが広がったりと、必ずしも自身の理念が伝えられなかったとの指摘があるほどです。





むしろ、アメリカでは太平洋戦争で司令官として日本と戦うニミッツなど多くの軍人が東郷を尊敬し、その精神を受け継いだと言われており、それは日本にとって、とても皮肉で残酷な結果となるのでした。





鹿児島…


気骨があり、反骨のイメージのある雄々しい街なのだと思っていましたが、鹿児島の人たちは本当に優しい…


そんな思いを抱き、この旅は完了



本編は、少々先となりますが、今回のダイジェストはおしまいニコニコ