GWの期間中、大変多くの人々で賑わう港の見える丘公園は、バラがピークが迎える頃🌹
西洋館にて「端午の節句」の飾り付けを鑑賞が終わり、次なる目的地へと向かうのですが…
西洋館の「端午の節句」では、鎧や兜と同様に、鯉のぼりの装飾が印象的でしたが、その由来は、江戸時代に男の子が誕生した時に、幟を立ててお祝いをするという風習があったそうです。
その幟には、中国の伝説で滝を上ると竜へと成長し、天に登るとされている鯉が描かれていたそうです。
その名残として、子どもが健やかに成長し、将来立派な人になるよう願いを込めて、鯉のぼりを飾るようになったとされています🎏
等と講釈をしている内に、元町を歩き、京浜東北線を石川町駅から乗車し終点の大船駅へ、昼食はその大船駅の「濱そば」でコロッケうどん🍜
で 大船駅では横須賀線へと乗り換えて、国内外の観光客で賑わいを見せる北鎌倉駅で下車
こちらは円覚寺でございます
とは言え、紅葉の時季のカオスに比べたら、全くもって平和な総門ですが…
総門から新緑のトンネルを上がり、拝観料を支払って歩を進めると、円覚寺を象徴する堂々たる三門(山門)が現れますが、こちらの三門(山門)は、夏目漱石の小説「門」の舞台にもなり有名ですね。
因みに、三門は三解脱さんげだつ(空くう・無相むそう・無願むがん)を象徴するといわれ、諸々の煩悩を取り払って涅槃・解脱の世界である仏殿に至る門とされています。
こちらがその仏殿となりますが、そもそも円覚寺とは、鎌倉時代後半の1281(弘安5)年、時の執権・北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師招き、円覚寺は開山されました。
開基である時宗は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。
国家の鎮護、禅を広めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願されました。
現在の円覚寺は、境内が国指定の史跡となっており、国宝建築の「円覚寺舎利殿」や、同じく国宝の「洪鐘」のほか、文化財を多く保有するなど見どころがたくさんあります。
また、四季によって風情が変わることも円覚寺の魅力と言えます
今回の円覚寺へと訪れた目的は、国宝「舎利殿」が特別公開されるため
さて、ここからは特別料金(300円)を支払い…
いざ突撃
古建築に心惹かれる者にとって、円覚寺舎利殿はまさに「聖地」のような存在であります。が…
( ̄□ ̄;)!!
因みに「舎利殿」とは、お釈迦様の骨や遺灰を祀るお堂のことであり、円覚寺舎利殿には「佛牙舎利(ぶつげしゃり)」というお釈迦様の歯が祀られているとのこと。
舎利殿は室町中期の禅宗仏殿(禅宗様)の典型として、古い時期の姿を、とてもよく残している美しいお堂です。
現舎利殿が建立された正確な年は分からず、以前は、1285(弘安8)年に造立され、創建当時のまま現在に至る、とされていました。が…
その後の調査研究の結果、建立後2度の焼失と再建を繰り返し、3度目の大火で焼失した際、太平寺客殿(仏殿)を移築したものが、現舎利殿であることが明らかとなりました。
※太平寺とは、かつて鎌倉に存在した尼寺
但し、その太平寺客殿の建立時期には不明な点が多く、確実な時期はわかっていません。
ところが、舎利殿と瓜二つの仏殿、正福寺地蔵堂が東村山市にあり、その建立年代が確定しているため、それをもとに、舎利殿建立のおおよその時期を推定することができます。
正福寺地蔵堂は、昭和期の修理の際に発見された墨書によって、1407(応永14)年の建立であることが明らかとなりました。
舎利殿はこの正福寺地蔵堂と、外観、内部の構成、装飾に至るまで酷似しているそうです。
そのため、舎利殿も同時期に建立されたものと考えられ、建立時期は15世紀前半頃、室町中期と想定されました。
さて、国宝「舎利殿」特別公開を十分に堪能した後は、広い境内を探索しましょう
とか言いながらも、実は、かつては「鎌倉時代」の代表建築物として、教科書は必ずといっていいくらい掲載されていた円覚寺舎利殿なのですが…
「室町時代」の建造物になってしまった
そんな衝撃を受けた国宝「舎利殿」特別公開となりましたが、鎌倉の古寺・円覚寺は魅力溢れるお寺なので、次回へと続きます