歴史トラベラー リターンズ「鎌倉最後の希望・北条時行」 | 果てなき旅路

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1333(元弘3)年5月23日。

一報を聞いた後醍醐天皇は、直ちに伯耆国・船上山を出発し、一路東へ京都を目指します。 


鎌倉幕府が滅亡し、事実上政権を奪取していた天皇は武家政権である幕府も否定し、天皇親政による「建武の新政」を開始するのです。 



後醍醐天皇像


高校日本史の復習のようですが…(笑)


【中央機関】

・一般政務をこなす記録所

・京都の警備を担当する武者所

・恩賞を管理する恩賞所

・所領の揉め事に採決を下す雑訴決断所


【地方】

・守護(武士)と国司(貴族)を併置

・鎌倉のある関東には、関東8カ国と伊豆・甲斐を統治する鎌倉将軍府
 ※長官に成良親王(後醍醐天皇の皇子)、補佐に足利直義(尊氏の弟)を任命

・東北には陸奥将軍府
 ※長官に義良親王(後醍醐天皇の第7皇子、後の後村上天皇)、補佐に北畠顕家を任命 


おおよそ鎌倉幕府とは異なる天皇親政による政治の刷新です。 


ここで後醍醐天皇が、天皇親政による理想の政治を掲げるまでの経緯を振り返ってみたいと思います。


1318(文保2)年に、 後宇多天皇の第二皇子だった後醍醐天皇は、花園天皇の譲位を受けて天皇として即位します。


当時の皇室は、 持明院統(北朝系)と大覚寺統(南朝系)という二つの血筋が交代で、天皇の位を継ぐという決まりが定められていました。 


文保の和談…何て言い方をしますね。


朝儀の研究面において「有職故実」に精通し自ら『建武年中行事』という書を著して、朝廷の権威高揚を図った大覚寺統の後醍醐天皇にとって、この事態は面白くなく、またこの制度の存在を後押しする鎌倉幕府についても、苦々しく思っていました。


当時の幕府は、またまた登場の第14代執権・北条高時………の家臣である御内人・長崎高資が専横を行い、政治は腐敗していました 。 


というのも、裁判をやっている東北の御家人たちの訴訟の時に、両方から賄賂をもらっていたのですドクロ


両方から賄賂をもらうと、どっちにも有利な判決を下せず、判決がのびのびになり、結局、東北では戦いが起こってしまうという大失態をやらかしてしまいます 。 


けれども何故に、こんなめちゃくちゃな長崎高資に政治を任せたかというと、北条高時がやる気を失った事件があるのです 。



北条高時像


それが文保の和談です。


当時、天皇家は大覚寺統と持明院統の二つ分かれていたことは先にも触れましたが、 両統の対立は意外に根が深く、それを仲直りさせようとしたのです。


が、失敗してしまいます😢


もうやってられん!!


と言って、田植えの時の芸能である滑稽な田楽や犬を戦わせる闘犬にうつつを抜かします しっぽフリフリ


そして1324年…後醍醐天皇は天皇親政による理想の政治を実現するため… 


今こそ幕府潰したれ!!


鎌倉幕府に対して挙兵を起こします、が…


正中の変が失敗叫び


7年後の1331(元弘元)年にも、再度挙兵します 、が…


元弘の変がまたしても失敗叫び


結果、隠岐の島へと流されてしまいます。


しかしこの頃、 後醍醐天皇の倒幕運動に呼応するかのように、 畿内各地でゲリラ戦が展開されていました。


吉野では後醍醐天皇の皇子で、延暦寺座主であった護良(もりなが)親王が寺社勢力を味方につけ、 播磨では足利尊氏の盟友・赤松円心(則村)が、河内では悪党と呼ばれる楠木正成が挙兵しており倒幕運動も盛んになっていました。


悪党と書くと悪い奴という感じですが、悪い奴という意味ではなく、幕府に従わない連中を悪党と言います


その代表例が楠木正成です。 


そしてその2年後、 隠岐を脱出すると伯耆国の豪族・名和長年が船上山に迎え、1333年、革命戦士・後醍醐天皇…


3回目の挙兵です😲


この時は、足利高氏や新田義貞も協力し、鎌倉幕府を滅ぼすことに成功しました。


ようやく念願が叶い、後醍醐天皇は政権を握ることができたのですが、長くは続きませんでした。


そもそもは、後醍醐天皇とその側近である公家たちが目指すのは、「延喜・天暦の時代」に行われた天皇と貴族の政治・・・


武士がまだ力を持たなかった平安時代の政治を再現させようとしたのです。


一方で、ゲリラ戦を展開した悪党たちを統率する、護良親王が目指したのは革新的な政治であり、尊氏に代表される御家人たちは、武功に見合った恩賞を武家に与える親政を求めました。 


これまでの功績を称え、後醍醐天皇は高氏に自分の名「尊治」の一字を与えて尊氏と名乗らせたほどです 。


ここで一つポイントとなるのが「征夷大将軍」です。 


しかしながら、尊氏が望んだ征夷大将軍は与えませんでした。


征夷大将軍と言えば、すなわち、キングオブ武士ですから、任命されれば幕府を開くことができるのですトランプダイヤ


一方の親政を目指す天皇としては、尊氏が源頼朝のように征夷大将軍なって、幕府を開くことを避けたかったのです。 


それに対して、征夷大将軍となったのは後醍醐天皇の皇子の護良親王でした。


そこから足利尊氏と護良親王との間に対立関係が生まれることになりました。が…


既に、親子関係に亀裂が生じている中での親王たっての希望による、半ば強引な将軍任命だったために、結局、後醍醐天皇の命により護良親王は幽閉されてしまいました。  


しかも公家のことばかり考える親政は、大内裏(宮殿)を新しく作り変えるための資金捻出のために無益な紙幣を発行したり、武士に対して過剰な労働を課たりして武士や庶民の不満は募るばかりでした。 


鎌倉幕府を倒すのに、あれだけ武士たちの力を必要としていながら、いざ天皇が政権を開始すれば、その武士たちを冷遇しているため、当然のことながら、武士たち政権下から離れていきました😨



楠木正成像


やはり鎌倉幕府の滅亡に際して、一番大きかったのは足利尊氏の挙兵でしょうね。


源氏の棟梁であった尊氏が立ち上がったのだから、 これまで北条氏より辛酸をなめ続けていた 源氏が一斉に立ち上がりました。


実は北条氏は平氏なんです。


それで全国の源氏が立ち上がったのです。 


足利氏の系譜をたどれば、先祖は間違いなく河内源氏へとたどり着く名門中の名門です。 


時に、北条得宗家絶対的権威を持っていた時代・・・ 


ここで遅ればせながら得宗家とは何か? 


得宗家とは第2代執権・北条義時以降、北条氏の嫡流の当主のことで、因みに、得宗は義時の法名に由来するものとされています。 


では何故に、北条氏が将軍の下で幕府の実権を掌握できたかと言えば、義時の父・時政は将軍源頼朝の妻・政子の父でもあり、他の有力御家人に比べ立場的にも非常に有利だったのです。 


ここに御家人を統率する侍所の長官と、一般の政務や財政を執り行う政所の長官を兼ね合わせた…


執権として権勢を振るったのです。 


すなわち、いざ鎌倉!の軍隊、政治、そして財政を掌握するトップの立場にいたのが、得宗家 = 北条氏だったのです。


そんなこんなで、三浦氏や安達氏など有力御家人が次々と失脚していく中、 北条氏に次ぐ地位にいたのが足利氏でした 。 


元々北条氏とは伊豆在庁官人の出身であり、武士としての格で言えば、明らかに足利氏の方が上でしたが…


因みに、尊氏の正室は、第16代北条氏最後の執権・北条(赤橋)守時の妹・登子。 


千寿王の母でもあります。


本来であれば、鎌倉幕府を守る立場!?


なので、六波羅探題が反乱軍によって攻撃されている時に、実際に、鎌倉幕府軍として足利尊氏は救出に向かっています。が…


けれども、これまで北条氏により有力御家人どころが次々と失脚させられていたため、 危うい立場にいた足利家の尊氏は、六波羅探題を責める反乱軍に乗じて、一気に攻めれば鎌倉幕府を倒せると踏んだのです。


成功しましたビックリマークビックリマーク


新政権も誕生しました。が…


時が経つに連れ、後醍醐天皇の新政権に不平不満が募る武士たちが、続々と足利尊氏のもとへ集う中、やがて、尊氏と後醍醐天皇が袂を分かち合う出来事が起こりました 😣






1335(建武2)年中先代の乱です。


その首謀者は北条高時の次男・時行です。 


北条時行と言うと、歴史の授業なのでは、さらりと流されてしまうような感じがしますが、実は今後の歴史を左右する面白い存在です。


1333(元弘3)年、新田義貞に鎌倉幕府が攻められる直前、北条泰家 ー 分倍河原の戦いで新田義貞と対峙  のはからいで、幼い時行は母と一緒に信濃国に逃れていました。 


鎌倉幕府は滅ぶも、いまだ世の中は混沌とした状況下にあり、旧幕府の残党たちが北条氏の復興をはかり、旗頭として高時の忘れ形見である時行に白羽の矢を立てました。


諏訪家に匿われて数年が経ち、時行の挙兵に応じて、諏訪一族をはじめ、各地の北条家残党や反天皇親政勢力が呼応し、時行のもとに集まり大軍となりました。 


まずは鎌倉の奪還ですアップアップ


北条時行にしてみれば、京都で後醍醐天皇と実力者・足利高氏がもめているのはチャンスであり、実際に抜群のタイミングの挙兵だったと思われます。


諏訪から鎌倉まで何度となく戦を交えますが連戦連勝。


途中、町田あたりで高氏の弟と直義とも一戦交え…これを撃破。 


しかしながら、直義がしたたかなところは、その2日前、鎌倉に幽閉されていた護良親王を殺害していますナイフ


それは時行が、前征夷大将軍である護良親王を両立した場合には、宮将軍・護良親王 ー 執権・北条時行による、鎌倉幕府復活が図られることが予想されたためです。 


先代の覇者である高時と当代の覇者である高氏との中間の覇者 = 時行として中先代とも呼ばれています。


自ら中先代と名乗ったかどうかはわかりませんが、ただこの時行、当時10歳そこそこでありながらもかなりの実力者でした。 


何も失うものはない、捨て身で生きている人間の強さ・・・


それは北条氏再興のため、鎌倉幕府復活を目論み、鎌倉を攻略しました。が…


弟・直義救出のため、足利尊氏が京都から鎌倉へと出陣し、わずか20日で鎌倉を奪還しました。


結果、時行軍は壊滅し、諏訪家当主の諏訪頼重、時継親子ら43人は勝長寿院で自害して果てました。 


自害した者たちは皆顔の皮を剥いだ上で果てており、誰が誰だか判別不能だったため、時行も諏方親子と共に自害して果て手しまったのでしょうか…。



次回へと続きます…☆