歴史トラベラー リターンズ「反逆のカリスマ・足利尊氏」 | 果てなき旅路

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先ほど日中に、未完成のブログを流してしまいました … 


修正を加えたものが、こちらのブログになりますので失礼致しましたm(_ _)m



北条家と鎌倉幕府再興のため挙兵し、鎌倉を奪還した…

北条時行ビックリマークビックリマーク


でしたが、京都から駆けつけた足利尊氏軍によって、僅か20日で反乱は鎮圧されました。


この時、回りの共々と自害したと思われた時行でしたが………はてなマークはてなマーク




足利尊氏像…??



生きてました…!?ガーン



鎌倉幕府滅亡寸前にも、難を逃れ諏訪へと逃避していたのですが、今回は回りのお供たちが自らの顔の皮を剥ぎ、誰だかわからない姿となり自害…


時行を逃したのです!!


しかも逃避先が…敵だったはずの…


後醍醐天皇のもとへ…!?ガーン


もう何が何だか・・・はてなマークはてなマーク


と言う感じですが、この時行の存在が、この混乱の世に、更なる拍車をかけたことは疑いようがありません。 


後醍醐天皇に拝謁して、朝敵を赦免されるのですが、時行が朝廷の許しを得るための交渉過程は詳しく判明されていません。が…


後醍醐天皇より、南朝への帰属を容認された上に、父・高時に対する朝敵恩赦の綸旨も受けています。


この時、何故に時行が、幕府を直接滅ぼした新田義貞が属する南朝と、いわば、仇敵と手を組んだ理由については、当時の趨勢が南朝に有利だったという打算的判断によるものだと言われています。


が、他方、育ての親である諏訪頼重の仇討ちという強い意志が、何よりの動機であったとする説もあります。 


以後、南北朝の動乱では、時行は後醍醐天皇の南朝方の武将として戦い、北畠顕家とともに活躍しました。


しかしながら、鎌倉幕府再興を目指し、時行が挙兵した時、まさか天皇家が南朝と北朝に分裂し、以後数年にも及ぶ南北朝の動乱のきっかけを作り出すとは、思わなかったでしょうね~


なんてったって!?


その原因が、自身が首謀者たる中先代の乱ですから😓


と言うのも、足利尊氏が、時行の反乱を鎮圧するために京都を発つ前まで戻りますが、その際、尊氏は東に下る許可と「征夷大将軍」の宣下を後醍醐天皇に求めますが、天皇はそれに応じませんでした。


許可を得られないまま、独断的に出発をした尊氏だったのですが、すぐさま鎌倉を奪還はするものの、しかしながら、尊氏軍は鎌倉から動かず、後醍醐天皇の政権下から逸脱する気配を見せたのです。


それに対して、後醍醐天皇はすぐに京都に帰るよう催促します。が…


尊氏は従おうとしましたが、弟の直義が反対したのです。 


直義は新たな武家政権の確立を望んでいましたが、尊氏はこの時点では後醍醐天皇との決裂を避けようとしていました。


やがて後醍醐天皇は、尊氏を討伐するために新田義貞を派遣します。 


鎌倉時代に義貞は、北条得宗専制化で不遇をかこっていましたが、後醍醐天皇は義貞を重用しました。 


久々の登場ですね~義貞!!  


足利尊氏が天皇の信頼を失った今、天皇方の総大将は新田義貞です。


一方の足利尊氏は、このままでは朝敵になってしまいますし、意外と悩みや迷いの多い人物だったようです。


それを象徴するのが、中先代の乱を契機に、周囲はこのまま政権から独立し、自らの政権を立ち上げるものとばかり思っていたのですが、尊氏は出家して朝廷恭順の態度すら示そうと考えている様子だったようです。 


見かねた弟・直義、他近親が、足利氏追討の偽綸旨ー 天皇から出された偽の命令文書 を作成し、もはや、後醍醐政権への復帰は難しいことを説きます。


それで尊氏は、すぐさま袈裟姿を着替え、追討軍の新田義貞と戦う気になったと言われています。


1335(建武2)年12月、義貞軍が伊豆まで進行してはじめて、尊氏は動き出し駿河国・竹之下で義貞軍を破ります。


西へ敗走する義貞軍を追った尊氏と直義は、翌年の正月、京都へ入り、後醍醐天皇は近江坂本へと逃れました。 


しかしながら、結果的に尊氏、直義軍は京都を手中にすることができませんでした。


と言うのも、この時、義良親王とともに奥州にいた北畠顕家が、尊氏を討つべく鎌倉を経て京都へ向かっていました。


顕家は未だ10代にして、奥州の荒くれ者たちを力で従わせるほどの “北の猛将” として、名を馳せた存在です。


他方、文武両道ともに優れた人物で、公家でありながら武将として、足利尊氏といった当時の武士らと互角に渡り合えるほどの、卓越した手腕と戦略眼を持ち合わせてしいました。 


南朝軍総大将の新田義貞と同様に、後醍醐天皇から期待された存在でもありました。 


そして何よりも現実を見つめていました。


後醍醐天皇に諫奏した北畠顕家上奏文』は名文書として有名であり、建武の新政における天皇の政治が矛盾、一部側近らの横暴を厳しく批判しました……それは戦死する数日前のことでした。


天皇にも物怖じせず、若年でありながらも筋を通す…


カッコ良すぎですラブ



北畠顕家像


話を反旗を翻した尊氏との戦いに戻すと、顕家はそのまま後醍醐天皇のいる坂本へ向かい、新田義貞や楠木正成と合流して、尊氏・直義軍を破ったのです。


敗れた尊氏・直義は、丹波へ逃れ、果ては九州まで逃げ伸びていきました。


後醍醐天皇は京都へと戻りますが、それでも不穏な空気は消えませんでした。


何よりも武士たちは、天皇方総大将の義貞よりも、尊氏側につくものが多かったのです。


繰り返しますが、鎌倉幕府と北条氏は滅び「建武の新政」がはじまりますが、この政権は初めから矛盾や葛藤に揺れ、天皇に近い公家や僧侶などがいち早く恩賞に預かるなど、武士たちの不満が高まりましたアップアップ


他方、地方統治では守護(武士)と国司(公家)が併置されましたが、守護の権限が低く抑えられたことから、有力武士の不満も高まることになります。


武士の世に戻してほしい!


そこで拠り所となり、一心に期待を背負わされたのが武家の棟梁・足利尊氏だったのです。


けれども、後醍醐天皇の連合軍に敗れた尊氏は九州へ逃れました。


但し、この九州行きをただの敗走ではなく、自らの政権樹立に向けた体制固めの動きだったととらえる見方もあります。 


やがて大覚寺統である後醍醐天皇に対して、持明院統である光厳上皇から、「新田義貞追討の院宣」をもらうことに成功します。


これは尊氏自身が朝敵にならないために大事な大義名分でした。 


九州ではウォーミングアップよろしく、後醍醐天皇側の菊池氏を破り、勢力を盛り返した尊氏は大軍と共に、再び京都へと向かいます。


1336(建武3)年5月25日。


いよいよ決戦・・・ 絶対に負けられない戦いが始まります!?


対する新田義貞楠木正成軍は、摂津・湊川で迎え撃ちます。が…


しかしながら、勝敗は準備の時点で決したも同然でした。


水軍も整えて登場した尊氏等に対して、正成や義貞はその用意ができず、陸での戦い一本で立ち向かおうとしたのです。


しかも兵数では尊氏の方が圧倒的!!


水陸両方から徐々に包囲を狭められれば、新田義貞楠木正成軍に打つ手はありません。


正成は陸路で登場してきた直義に応戦していきましたが、その背後に海路……東上した尊氏軍が上陸、正成軍は義貞軍と分断されてしまいました。 


こうした敵方の動きに対し、ここでは勝てないと判断、義貞は一時撤退します。


ゲリラ戦の天才である楠木正成も、こうなるとさすがに、持ち堪えられるものではありませんでした。


最後を迎えた正成は…


7度人間として生まれて朝敵を滅ぼし国に報いん


と無念の言葉を残し、弟の正季と共に自害したのです。


実は足利尊氏を九州へ追放した頃、楠木正成は尊氏とこれ以上戦っても、勝ち目はないと考えていた節があり…


新田義貞の首を差し出すことで尊氏と和睦してはどうか


と、後醍醐天皇に提案したという記録が残されています。 


さすがに後醍醐天皇の返答はノーですが、ここで楠木正成は “死” を悟ったのでしょう…


この湊川の戦いで楠木正成は戦死。


新田義貞は北陸方面へと敗走……京都も制圧され後醍醐天皇も幽閉されてしまいます。


足利尊氏は、和睦した形となる後醍醐天皇から「三種の神器」を受け取り、新しく持明院統から光明天皇を立てました。


しかしながら、後醍醐天皇も密かに大和の吉野へと逃れ、自分が天皇であることを主張しました。 


ここに天皇が京都と吉野に二人いることになりました。


以後、京都の方を「北朝」と呼び、それより南にあった吉野の方を「南朝」といい、南北朝が対立する時代となりました。


言い換えれば、足利尊氏が、建武の親政に不満を持つ武士たちを従えて鎌倉に向かい、中先代の乱を鎮圧し、鎌倉で後醍醐天皇の政権から離脱……

ここで尊氏に従ったものが北朝につき、後醍醐天皇方に従ったものが南朝に従うという、構図が出来上がったのです。


こうして尊氏は、室町幕府を開きました。


程なくした 1337(建武4)年、その年の暮れ、南朝方は京都奪還を目的とした大作戦を実施します。


北陸道方面の新田義貞が北から京都に迫る一方で、8月に奥州を出撃した北畠顕家が東海道から京都に迫ろうというものでした。 


鎌倉を突破して、猛烈なスピードで京都に迫る北畠軍10万の中に、時行率いる北条軍1万も加わります。


やっぱり生きてました…!?


時行…!!えーん


1338(歴応元)年1月、北畠軍の上洛を阻止するため、足利軍が美濃で迎え撃ち、青野ヶ原の合戦が行われます。


足利軍は、前陣、後陣の二段構えの布陣を敷きましたが、北畠軍によって前陣は突破されました。 


この時、不思議なことが起こります…はてなマークはてなマーク


勝ちに乗じて足利軍の後陣を撃破し、京都に進撃すると思われた北畠軍が、突然転じて、南下し伊勢に向かいます。


後陣を突破すれば、近江で新田軍と合流して京都奪還が可能になったにも関わらず、なぜ伊勢に向かったのか・・・?


謎は明らかにされていませんが、いくつかの説があります。


① 時行が北条の仇である新田義貞と合流を嫌った説


② 北畠顕家が総大将の新田義貞に戦功を奪われると考えた説


③ 奥州から4ヶ月余りの東上作戦で疲弊が極限に達したことから、北畠氏の任国である伊勢と南朝の拠点 = 大和ルートで回復しようと考えた説があります。 


何にしても北畠顕家が青野原の前陣の敵を前にして、方向転換したことは失敗でした。


兵を整える機会を得た足利軍は、各地で北畠軍を撃破し、ついに5月、和泉摂津の戦いで北畠軍を破り顕家は戦死しました。


楠木正成に続き、北畠顕家と勇将を立て続けに失った南朝。


ここで一気に北朝優勢のまま、南北朝の動乱に終止符が打たれるかと・・・


何と…!?


北朝内部が…きな臭くなってきました…!!


世間一般的に言われることは、尊氏は感情の起伏が激しい質で、政治的なバランス感覚もやや不安があったため、弟・直義がそれを補うような形で幕府の舵取りをしていました。


いわば二頭政治で、当時も “両将軍” と称されていたようです。 


尊氏と直義は一歳違いで、幼い時からとても仲が良かったと言われ、尊氏が軍事を掌握し、直義が政務を担当する、そんな割り振りでお互いの得意分野でもう一方の欠点を補うという、理想的な政治体制を構築したのです。が…


ところが、これが面白くないのが他の重臣たち・・・



昔 足利尊氏… 今 高師直…?


特に尊氏の執事足利氏の様々な雑務を担う  ・足利軍・最強部隊を率い戦闘力を兼ね備えた高師直(こうのもろなお)とその側近。


特に弟の高師泰の戦闘力も恐ろしいほどで、先に触れた和泉・石津の戦いで、北畠顕家軍を討ち破ったのは高師直、師泰兄弟です。


また、楠木正成の子息・正行(まさつら)を四条畷の戦いで撃破しました。


この高師直らが…


二人とも将軍とかはない!!


と言い出すと、一触即発状態に陥り、ほどなくして事態が動きます。


逆に、高師直一派を排除したい足利直義の家臣たちも動きました。


当時、流行っていた “バサラ” という風潮に染まりきっていた高師直


“バサラ” とは鎌倉幕府が滅亡したことで、下からのし上がってきた新興勢力が、古い慣例や文化をぶち壊そうとする風潮のことを言います。


裏切りが当たり前のこの動乱の世に、尊氏に忠誠を誓っていた高師直一派も、少々やり過ぎてしまったようです。


幕府中枢を追われてしまったのです叫び


当然そのままで済むはずがなく、高師直一派は武力を持って反抗。


師直をなだめる尊氏の様子が目に浮かぶようですが・・・


一方、これ以上放置すれば、大事になると判断したのか直義は、ここで頭を丸めて幕府を去ることとなり、直義の仕事は後に2代目の室町幕府将軍となる千寿王 = 足利義詮が引き継ぐことになります。 


さらに尊氏にはもう一人の息子が……足利直冬です。


直冬は千寿王の兄に当たるのですが、落胤のため尊氏の態度は冷めており、初陣を飾っても父に苦々しい態度を示されるなど、可愛そうな人なのです。


 父尊氏に対して、メラメラと反骨心も芽生えてきたでしょうメラメラ


実は直冬は直義の養子になっていたので、養父直義のピンチに対して、とうとう怒りの導火線に火が点き…大爆発爆弾爆弾爆弾


実力行使に出るのですが、しかも直義一派…兄と離別するばかりか…


何と!? 

仇敵である南朝方についてしまいました!!


観応の擾乱の始まりです💀


しかしながら、南朝方も困っていたのは事実であり、すでに楠木正成や北畠顕家など中核となる人材をほとんど失っており、なりふり構っていられません。


従来…


南朝vs北朝


以降…


南朝 & 北朝(直義派)vs 北朝(尊氏派)


結果、歴史は繰り返すといいますが、尊氏たち足利氏もまた、 家族、兄弟で骨肉の争いとなる運命をたどることとなったのです本



昔 源頼朝… 今 足利直義…?


南北朝時代は、戦国時代や幕末と同様に、血がたぎる時代背景があるにも関わらず、 いまいち人々の関心に預からないようです。


時の趨勢に、甚だ敏感な当時の武士達は、義理や人情に重きを置くよりも、戦であれば優勢な方に寝返ることが多く、それが動乱をより複雑なものにし、分かり辛くしているかもしれません。 


けれども、魅力溢れる人物は多数いるので、 興味をお持ち頂ければ幸いです。



最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。