歴史トラベラーリターンズ「龍神伝説・新田義貞」 | 果てなき旅路

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昔も今も歴史が好きですが…

この社会情勢故に、しばらくそんな「歴史」ブログが続きます。



1333(元弘3)年5月21日。


新田義貞軍が、稲村ヶ崎の干潟から鎌倉に奇襲をかけました。 


源頼朝の鎌倉幕府開幕以来、約150年に渡った鎌倉幕府に対して、倒幕の狼煙が上がります。


隠岐から脱出し、船上山に籠る後醍醐天皇の号令の下、京にて足利高氏が六波羅探題を攻め破り、天皇も意気揚々!!


因みに後醍醐天皇は、この間、2度も倒幕の計画を立てましたが失敗😵


配流の身でありながらも、革命戦士・後醍醐天皇は立ち上がり、3度目の正直でした。




そんなカオスの5月8日…いよいよ新田義貞が挙兵します。


わずか150騎だった軍勢は、途中で尊氏の子息・千寿王(義詮)も合流して、約3万もの大軍に膨れ上がった新田軍は、5月11日早朝、武蔵野の小手指原にて幕府との直接対決となり、これを破ります。


その後も、一進一退の攻防を繰り返しながらも分倍河原の戦いに勝利し、鎌倉へ近づいて行きますが、難攻不落の要塞都市である鎌倉に入るのは、そう簡単なことではありません。


ご承知の通り、鎌倉は南が海ですが、三方を山で囲まれています。


ここで義貞は手勢を3つに分けます。


大館宗氏率いる1軍は極楽寺の切通へ、堀口貞満率いる1軍は巨福呂坂(こぶくろざか)へ、そして、自らは弟の脇屋義助とともに本隊を率いて化粧坂(けわいざか)へと向かいました。 


もちろん、幕府側も極楽寺坂には大仏貞直、巨福呂坂には赤橋守時 ー 鎌倉幕府最後の執権・北条守時 、化粧坂には金沢越後左近太夫将監(しょうげん)など北条一族を揃え迫撃の態勢。


合戦が開始されたのは5月18日。


早朝、大軍を擁して攻め寄せる新田軍と地の利を生かした少数精鋭で迫撃する幕府軍。 


終日続いた合戦により、巨福呂坂方面では幕府の敗色が濃くなって守時が自害するも、極楽寺では一進一退の激戦。


また化粧坂の本隊は、どうにもこうにも先へ進めません。


ここで義貞は閃きましたひらめき電球


5月21日夜、義貞は精鋭だけを連れて、片瀬・腰越を回って…


鎌倉に突入するビックリマークビックリマーク


迂回作戦を決行するのです。


小高い場所に立って、月明かりに照らされる敵陣を見渡す義貞。


北は極楽寺の切通から、南は稲村ヶ崎の海岸線まで、びっしりと並んだ数万の兵が、隊列を組んで防御にあたっています。 


海岸線では、それこそ波打ち際まで防御の逆茂木(さかもぎ) ー 敵の侵入を防ぐために、棘のある木の枝を刺し並べて垣にしたもの  が立ち並んでいます。


一方の海上には、4~5町ー 1町=数100メートル(めちゃめちゃアバウトですが叫び)  先まで櫓を装備した大船が浮かび、側面から弓を射る体制も万全。


敵陣で八方を塞がれ、鎌倉を攻め落とす…


なす術べなし!!



稲村ヶ崎


ところが、義貞はそこで馬を下りて兜を脱ぎ、はるか海上を拝みながら、龍神に向かって祈ります。


聞くところによれば、日本を創造した伊勢の天照大神…


(長いので…中略…)


目指すは天皇を助け、国民が心安らかな世にする事…


どうか全世界の龍神様…


この義貞の忠義の心をご理解いただいて、潮の流れを遠くに退け…


道を開いてくださりたまえ!



こう言って、自ら持っていた “黄金造りの太刀” を抜いて海中に投げ入れたのです。 


するとどうでしょうはてなマークはてなマーク


龍神様に祈りが届いたのでしょうか龍


行き来するのも困難だった海岸線から瞬く間に潮が引きはじめ、そこに20町余に渡る砂浜が現れたのです


しかも、弓を射おうと準備していた大船団は、潮の流れに乗って沖へと流されてしまいました…!?


この光景を見た義貞目


はるか昔の日本では、神功皇后の三韓征伐の時に、引き潮の珠を海中に投げて、海の水を引かせて戦いに勝利した…


と言う、こんな『古事記』の一説を思い出したのか…どうなのかはてなマークはてなマーク


今目の前に広がる光景は…


そっくりである!


と、兵士たちの士気をあおります。


進めや!!

兵(つわもの)ども!!


おそらくは、引き潮の時間に合わせたナイス過ぎるタイミング・・・


兵士たちを勢いをつけるのに、 これほどの効果的な演出はありません。


士気の盛り上がりそのままに、稲村ヶ崎を突撃し、一丸となって鎌倉へ攻め入る新田軍。


すると観念した北条高時以下北条氏一門は、東勝寺で次々と自害していきました。


ここまでは史実でありながらも、『太平記』にある伝説が含まれています。


伝説は伝説として、終わらせたいところなのですが、夢もロマンもない話をすれば、別に黄金の太刀を投げ込んで祈ったから、潮が引いて陸地となったわけではなく…


新田義貞が鎌倉を攻撃した5月21日午前4時15分頃は、干潮となって潮が引き、陸地が出来上がったため、そこを通って新田義貞が鎌倉に突入した


それが定説となっています本


長く鎌倉で御家人として生活していた新田義貞は、稲村ヶ崎の干潮を知っていたと考えられます。


義貞の部下たちは奇跡を目の当たりにし、士気を高め鎌倉を攻め立てたのですが、その背景には、したたかな義貞の “策略” があったのです。


こうして鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇を中心とする、天皇親政を掲げた政権が誕生しました。





ところで、新田義貞とはどのような人物なのでしょうか?


義貞は足利高氏と同じく、源義家(八幡太郎)の子・義国を祖とする源氏です。


共に、源氏の嫡流という非常に良い家柄であり、 “武家の棟梁” であり、義貞は上野国新田荘(現在の群馬県太田市)を領した新田家八代目当主でした。


ところが義貞が…


今こそ幕府を倒すぞ!

北条は平氏!我らは源氏!

全国の源氏集まれ!!


と生品神社で挙兵をしましたが、集まったのが150人とも200人とも言われています😓


一方の幕府軍には、何万人ともいわれる兵士がいるわけですが、 これだけの人数で幕府軍に立ち向かうなど無謀です。


ここで…


兄者!怯むな!

幕府を攻めようぞ!


と、後押ししたのが弟の脇屋義助です。


これに勇気付けられ…


いざ!

鎌倉を目指すぞ!


パカランパカランパカランと馬に乗って、鎌倉へと向かう途中、3万程のの軍勢が待ちかまえていました😨


さすがの義貞も…


これまでかビックリマークビックリマーク


と思ったら、旗が上がったのです…


白旗です🏳️


今でこそ、白旗をあげるのは敗北を表すのですが、当時の白旗は源氏を表していたのです。


ここに源氏軍から、一人の使いがやってきました。


我ら足利高氏様御曹司千寿王様の家来です

新田義貞様とお見受けします

共に戦いましょう


と…。 


ここで、源氏軍3万の軍勢と合流したのですが、これが後に、新田と足利が仲が悪くなった原因とされています。 


この時、千寿王は父の名代として、家臣らの補佐により、鎌倉攻め参加の部下に対し軍忠状を発布します。 


つまり軍忠状とは、参陣や軍功などを証する書類のことで、主君から家臣へと下賜される書類です。


当然ながら義貞は足利氏の家臣ではありませんから…ムキー


前述の通り…


全国の源氏集まれ!!


と、義貞が号令をかけても、集まった者どもはせいぜい200人足らず。 


一方、ただの子供と言っても、足利高氏の御曹司ですが…当時3歳ですが…👶


全国の源氏集まれ!!


と言えば3万人が集まるのです。 


新田義貞にもプライドがあるでしよう、否、ズタズタだったかもしれません。 


そもそも新田家も足利家もさかのぼれば、先祖が一緒なのは、前述した通りです。


しかもここからが問題なのですが、秋(とき)の到来を悟ったあの源頼朝が、戦いの狼煙を挙げた時に、義貞の先祖にあたる新田家は駆けつけなかったのです😣


一方の足利家は真っ先に駆けつけ、富士川では最前線で戦っていました。 


水鳥の飛ぶ音にびっくりし、平家軍が敗走したあの富士川の戦いです。


これをきっかけに所領も増え、高氏の代の足利家には多くの兵力がありました。


結果、新田氏は御家人鎌倉将軍家の家来 として支えていたのですが、源頼朝の鎌倉幕府成立に非協力的であったために、足利氏と比べるとその地位は低かったのです。 

後に遅ればせながら、平家打倒に向け参陣したんですけどね😅


いつか幕府を倒す!!


そんな秘めたるものが、義貞のマインドにあったかどうかは、分かりませんが…で!?



分倍河原駅前の新田義貞像


1333(元弘3)年5月22日。


新田軍の攻撃により鎌倉炎上メラメラメラメラメラメラ


それでも幕府軍は最後の力を振り絞り、 大仏貞直は自刃した家臣の弔い合戦とばかりに、義貞の弟・脇屋義助の大軍に向かって突入し、壮絶な最期を遂げました。 


また、金沢貞将は負傷した体で高時を見舞い、もはや何の権威もない六波羅探題職 ー 足利高氏によって攻略される  に任ぜられた後、その文書を懐に抱えて戦場へと躍り出て討ち死にしました。


因みに、六波羅探題とは、後鳥羽上皇が承久の乱を起こした際に、それ以降、二度と幕府に反旗を翻さぬよう設置された監視機関です。


鎌倉は炎上し、一人また一人と、幕府側の武士が倒れてゆく中で、この当時、鎌倉幕府の最高権力者である北条高時 ー 得宗家(北条家当主)第14代執権  は、北条家菩提寺である東照寺へと退きました。


さらに高時に続くように、命ある者は次々とこの東照寺へと集まり、境内は幕府側の武士で溢れんばかりになっていました。


やがて皆々が我先にと腹を切り、館に火を放ったので、その猛火は炎々と燃え盛り、煙は天を覆ったと言います。


結局、死者の数は東勝寺に全体で870人、鎌倉では6000余人に及んだと言われています。


こうして、高時をはじめとした北条一族のほとんどが自害することとなり、その場所は現代に至るまで、腹切りやぐらとして伝えられています。


その後、後醍醐天皇は足利高氏に命じて、腹切りやぐら(東勝寺跡付近)の近くに宝戒寺というお寺を作らせています。


それは高時の供養のためであり、この場所は初代執権義時以来、北条氏の屋敷があった場所でした。



次回へと続きます…☆