未知なる扉から「茶聖・千利休の正体とは・・・」前編 | 果てなき旅路

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旅、温泉…たまには歴史。時の徒然に、好きな事を綴っております。

こんにちは。


旅の備忘録が続いたブログですが、今回は久々に歴史の話です。が、


世の中には、摩訶不思議で、薄気味悪い奇妙さが漂い、人知を越えた神秘的で、超自然的な「世界」というものがあります・・・


標題の “未知なる扉から” は、歴史の中に埋もれたそんな「世界」を取り上げ、何度か紹介をしてきました・・・松尾芭蕉が服部半蔵だったりとか (--;)


一言で言えば「胡散臭い」のですが、「ひょっとしたら・・・」なんて事も考えられてしまったり…。


今回もそんな「・・・?」な話です。





皆さん千利休という方をご存じでしょうか?


私の持っている高校日本史の教科書では、こんな書き方をされています・・・


堺の千利休は、茶の湯の儀礼を定め、茶道を確立した。利休の完成した侘び茶の方式は簡素・閑寂を精神とし、はなやかな桃山文化の中にことなった一面をうみだした。茶の湯は豊臣秀吉や諸大名の保護をうけて大いに流行し、茶室・茶器・庭園にすぐれたものがつくられ、また花道や香道も発達した。

「詳説日本史」 山川出版社より~



このまま「はい!そうですか!」と、スルーしてしまったら、ここで取り上げる意味もありませんので、当然ながら千利休・・・意味有り気な歴史上の人物なのです。


結論を述べると、豊臣秀吉から切腹を命じられて、“自害”をしています。

切腹で自害なんて、とても悲しいことなのですが、見方を変えると切腹には、武士の対面を保たせるという意味があるので、いわば名誉刑の極地のようなものです。


ところが茶聖・千利休・・・

伊達政宗や細川忠興などの戦国大名を弟子にもち、千利休自身も高級な知行取りのような感じがしますが、分かりやすく言えば「茶🍵の師匠」ですから。


それが武士同様に、名誉ある “死” を秀吉が下したとなると・・・何か深い訳がありそうなのですが?


但し!この頃の秀吉は、歴史に詳しい方なら承知の通り、その行動が正気の沙汰ではないのです。


その具体的な例が朝鮮出兵です。


対外的に積極政策を取った秀吉は、領土の野望を強め、朝鮮に対して入貢と明への出兵の案内を求めましたが、拒否されたため肥前の名護屋を本陣にして、15万余りの兵を朝鮮へ送りました。


遙々と海を越えて、ただ自身の野望のために出兵・・・さらに自分の養子となった秀次を自害させています。

当然ながら、誰も秀吉に異を唱えることが出来ません。


まさに太閤秀吉の時代でした。




そんな中で秀吉と千利休の関係は、いつから始まったのでしょうか?


それは1582(天正10)年、本能寺の変によって織田信長の死を知った秀吉が、主君のかたきを討つために、中国大返しの離れ業で京都・山崎の地に引き返し、明智光秀を打ち破った山崎の戦い・・・


まさに!山崎・天王山での勝敗結果を、待ちわびていたのが千宗易、後の利休です。

因みにこの利休・・・大阪・堺に生まれ育ち、17歳で茶の湯を志し、侘び茶を大成させ、茶道を芸術まで高めました。


そんな利休が、光秀軍が次々と敗走していくという情報を妙喜庵で聞くや、秀吉が陣を敷く宝積寺へと赴き、勝利の茶を点てました。


やがて利休は妙喜庵に、茶室=“待庵”を立てるのですが、現在も妙喜庵の中に存在し、唯一現存する利休が造った茶室として、国宝に指定されています。


やがて利休は、天下を取った秀吉のもとで厚遇され、1588(天正16)年には、「利休居士」の称号を与えられ、その名声は天下に轟くこととなりました。


しかしながら、前述した通り、僅か3年後の1591(天正19)年に謹慎処分を受け、間もなく切腹を命じられるのです。


親密な関係にあった利休と秀吉の間に、いったい何が起こったのでしょうか?



一説では、“わび”・“さび”を重んじる利休に対して、何かと派手好みで、その派手さを茶の湯にまで持ち込もうとする秀吉を、利休が批判したからだと言われています。


因みに、“わび”・“さび”とは、しばし聞く言葉ですが、それをハッキリと説明するとなると難しいですね。


日本独自の「美意識」を表す言葉だというのはわかりますが・・・

調べてみると本来、“わび”・“さび”とは、それぞれ言葉の意味が大きく異なるのです。


“わび”は「侘しさ」から、“さび”とは「寂しさ」からきた言葉ということになります。

もう少しだけ掘り下げると、「侘(わ)び」は気落ちや悲嘆などの“内面的”な意であり、一方の「寂(さ)び」は色褪せや枯れるなどの“表面的”な意とされ、どちらもネガティブな印象が強くなります。が…


粗末で寂しい様子や感情が、やがて茶の湯や禅などに見る、精神性の豊かさと捉えられるようになり日本独自の感性として根付いていくのでした。



話を戻しますが、利休自身は心の中の葛藤はあったものの、表立って批判することはありませんでした。が、

利休の弟子である山上宗二が、信念を曲げない頑固な性格であったため、ことごとく秀吉の趣味の悪さを批判し、1590(天正18)年小田原北条攻めに従軍した際に、秀吉によって惨殺される事件が起きています。

このことがあってから、利休も秀吉の傲慢さに耐えられなくなり、表立って批判するようになったとも言われています。


またある説では、茶の湯とゆかりのある大徳寺の山門に、利休の木像を掲げたというものもあります。


これは大徳寺が利休に恩を感じて、木像を製作し山門に掲げたわけですが、そうすると秀吉が山門をくぐる時に、利休像の下を歩くことになり、失礼にあたりだろうと言われているものです。

確かにこれに関しては、秀吉も激怒していたふしがあり、利休死亡の3日前に利休に対して切腹を申し渡すと同時に、その木像を “磔” にしているところからも、怒り心頭具合いが見えますね。




諸説あって現在もなお、利休切腹の理由については、大きな謎となっています。


そう上述した最もらしい理由も、理由としては成り立つのですが、あくまでも、なぜ?大きな謎になるのか?です・・・


実は利休には、“都市伝説界”ではこんな噂があるのですが・・・


それは次回へと続きます…。