未知なる扉から「茶聖・千利休の正体とは・・・」後編 | 果てなき旅路

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こんにちは。


千利休・・・堺出身の“茶聖”として戦国大名大きな影響を与えたのですが、なぜか?豊臣秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられます。


大きな謎を残しての自害でした。

そして武士でもない豪商の利休が、武士の名誉刑でもある切腹を命じられたのか?謎は深まるばかりです。


あれほど親密な関係だった利休と秀吉の間には、いったい何が起こったのでしょうか?


考えられることは、利休が秀吉の触れられたくない“秘密”を握っていた!!




・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 実は‼

・ ・ ・ ・ ・千利休とは⁉





徳川家康のスパイだった!!と、言う噂👂があるのです (--;)


いわゆる「千利休スパイ」説です。


というのも、家康はこの時期に、すでに自分が将来天下を取ったときのことを考えて、必ず大阪(=堺)という当時の大都市を手中に治めなければならないと考慮していました。


そのためにも、家康は堺商人の中でも最も力のある利休に近づき、手を結んだ方が大事だと考える・・・

一方の利休にしても天下は秀吉の手中にあるとはいえ、どう転ぶか分からない時代ですし、もう一人の雄・家康と水面下で親密な関係を結んでいれば安心です。


お互いの利害関係が一致したと言っても、言い過ぎではないでしょう。


因みに、このスパイ説の説得力のあるところは、秀吉の切腹の命令に対して利休が素直に従ったという事実が伺えるからなのです。


この命令が出された時に、利休の周囲の者は秀吉のもとに赴いて許しを乞うようにアドバイスするのですが、利休はそれを聞き入れませんでした。


自身に思い当たるふしがある ー 家康のスパイ があり、それが暴かれ潔く自害したと考えると、なるほど・・・説得力があります。



そして家康のスパイだからこそ、秀吉の触れられたくない秘密を握っていた・・・





まだ織田信長が、天下統一を目指していた時代には、「茶会」という一大イベントを開くには信長の許可が必要であり、そしてそれを開くことは武士としての“地位”でもありました。


そんな秀吉にも、敵対する毛利氏の諸城を攻めた褒美として、1577(天正5)年に「茶会」を開く許可を得ました。


その時秀吉は、利休のことを「お師匠」と呼んでおり、また「父のように慕っている」とも言われており、かなり親密な関係だったことが伺えます。


但し!秀吉にとって唯一の悩みは、有名な話ですが“子宝”に恵まれなかったことですね。


しかしながら、1589(天正17)年に、あの淀君が待望の男児・鶴松を出産しました!!


ここで、都市伝説界に囁かれている話なのですが、利休さん・・・

ひょっとしたら開けてはいけない「パンドラの箱」を開けてしまったのかも知れません。


すなわちそれは、以前から色々と噂される淀君の懐妊・・・色々と相談をされるうち、当然ながら、“子宝” に恵まれなぬ話しを、秀吉から聞かされていたはずの利休ですが、その話を真の話として受け入れられなかったのでしょう。


むしろそこには何かあると・・・

利休は、その不可思議さ = 秀吉にとって触れて欲しくない部分に触れてしまった!?


なぜなら利休には、家康のスパイだからこそ、秀吉の弱味を握りたかったのかも知れませんし、秀吉にしてみれば、自身も疑いながらも、自分の子供だと信じたいと思っていたところに、利休に疑いの目を持たれ、「その口を塞がなければならない」という心境に追い込まれたのかも知れません。



そしてもう一つ秀吉には、秘密がありました。

もしこのことが、世に知れわたることとなったら、天変地異が起こりかねないような秘密の内容です。


それは何か・・・

あの「本能寺の変」の黒幕が豊臣秀吉であると・・・厳密に言えば秀吉を担ぎ上げた堺の有力商人=豪商たちです。






これは、にわかには信じられない話なのですが、信長と堺との間には、浅からぬ因縁が存在しているのです。


「堺」とは鉄砲の町・・・製造を独占状態しており、どこにも与みせずに経済発展を続ける堺を傘下に治めれば、膨大な税を徴収できると信長は考えたのです。


そこで信長は、1568(永禄11)年に堺に対して軍資金2万貫を要求しました。


もちろんこのとんでもない要求に対して、堺側もすんなり受け入れる訳にもいかず、大筒を用意して抵抗の姿勢を構えます。が、


1569 (永禄12)年信長は、堺の町全体を包囲し、攻撃を仕掛けたのです!?


さすがの堺の町衆も、もはやこれまでと服従を決定し、要求通りの2万貫を差し出しました。



そもそも何故に、「本能寺の変」の時に信長は僅かの手勢しか連れずに、京都に滞在していたのか・・・?

それはなんと言っても不可解なことですし、言い換えれば、そのチャンスがあったからこそ、明智光秀が攻め込んだと言えるのでしょう。


今なぜ「本能寺の変」に触れたのか?

もうお分かりの通り、堺の商人たちが関連していた可能性が高いのです。


前述した通り、信長と堺の商人たちの因縁から導き出されることは、あの信長に対して、僅な軍勢で本能寺に誘導するよう策略をかけ、ここに、「敵は本能寺にあり!!」と光秀が唆されるようなことがあったのなら・・・


つまりは信長亡き後に、天下を取る人物 = 器の持ち主は誰なのか?


これまで通りに、自由都市 =“堺” “会合衆”と呼ばれる商人たちの代表者による自治で運営されている独立国家  で商人たちの交易を、認めることができる器の持ち主は誰なのか?





それは豊臣秀吉なのです。


そして堺の商人たちが描くシナリオにのった秀吉が、彼らに誘発され「本能寺の変」を引き起こした光秀を討つ!!


その後の中国大返しで、驚異的なスピードをもって、決戦の地へと向かいました。

中国遠征中のある夜に、「信長死す」の報を聞いて撤退を開始し、道筋には松明を掲げ、食事の準備を整え、替え馬の用意も・・・備中・高松城から、姫路城への約70キロの行程を、3万という軍勢が、わずか1日半で駆け抜けたと言われていますよね。


しかも、光秀との最終決戦の場となった山崎の地にある妙喜庵には、すでにその時、利休が戦勝祝いのための茶席の準備をしていたという話しもあります。


これらの不可解な点から、導きだされる解答は一つ!!


本能寺が襲撃されることを事前に知っていた秀吉が、最善の準備を整え、そのシナリオ通り演じて行く・・・全てがこの描かれたシナリオ通り事が進んで行けば、山崎の地で最後の決戦となったことが説明がつくのです。


が、やがて時が流れると親密な関係にあった利休と秀吉の間に、微妙なズレが生じてきます。


天下統一まであともう少しの秀吉・・・利休を「お師匠様」と呼んでいたあの当時の秀吉の姿は、ここにはもうありません。


そして自分の野望のために朝鮮に出兵し、その後に豊臣政権が崩壊していく様を、利休は予言していたのかもしれません。


そして事実上天下を統一し、その後約250年もの間に、太平の世を切り開く創始者となった人物が誰なのかは、言うまでもないでしょう。



またまた、とんでもないデマ話を・・・と、思ってしまいがちですが、火のない所に煙は立ちませんよね。

信じるか信じないかはあなた次第です。






今回は非常にスケールの大きい話となりましたが、この辺の話に関しては、一度語り出すとどんどん脱線してしまいますので、あくまでも巷に流れる噂話だとご理解くださいm(_ _)m



◼追記

名古屋市在中のM.Mさん!

この下りは、テレビ今日東京系列の「やりすぎコージー」の人気コーナー『都市伝説』に出演しているミスター都市伝説・関暁夫氏の名言を、当ブログ用にパクったアレンジしたものです (^o^)/